第421話
夕食を終えて片付けを済ませ、俺とミミルは転移石がある祭壇地下の部屋に戻っていた。
いつものように部屋の中央に丸太を1本置いて、そこにLEDランタンを置いている。
LEDリーディングライトを首にかけ、ミミルはまた漢字ドリルを取り出して練習中だ。
〈文字が複雑になってきた……〉
〈どれどれ?〉
俺は北欧神話の本を読み解いていたが、ミミルがどこのあたりで躓いているのかと心配になって立ち上がった。
ミミルが座る椅子の側に立ち、覗き込んでみると小学1年生の漢字ドリルの後半。画数としては6角、7画のあたりだ。見えている文字でいくと見開きの右側のページに百と名の2文字、左側のページに花貝見車赤の5文字が並んでいる。
ミミルがこれくらいの画数で音を上げるとは思ってもみなかったが、今後は偏と旁で組み合わせた文字が増えるので、似たようなものばかりに見えてくるだろう。
学校では、授業で偏と旁について学ぶというのに、漢字ドリルだけ手渡していれば覚えるのも大変かもしれない。
実際に1年生の頃に習った漢字は他にどんなものがあったかなど俺は覚えていないが、先日調べたときは1年生で80字とか100百字くらいあったと思う。学年が上がるたびにもっと画数が多いものも覚えることになるんだろう。
メモ帳を取り出し、自分が知っている範囲で最も画数が多い文字、鬱と書いた。
龍という字を4つ書くとか、雲と龍をいくつも書くとか、そんな文字を聞いたことがあるが読み方とか意味がわからんことは教えたくないし、そんな文字を覚えたところで今後数百年生きたとしても、俺やミミルが使うことはない。だから、思いつく範囲で選んだ文字がこれだ。
〈こんな字もあるんだぞ〉
〈そ、それは〉
ミミルは言葉を失っている。
6角や7画で複雑だと思っていたところに、いきなり29画の文字をみせられたらこんな反応をしても不思議ではないか。
〈一般的に見かける漢字の中で最も画数が多い文字だよ〉
鬱憤、憂鬱、鬱陶しい、などの熟語で使われることが多い文字だが、1文字だと「気持などがふさぐ」とか「草木が生い茂っている様子」という意味がある。
〈ひとつの文字だというのに読みがいくつもあるし、形状は複雑で覚えたとしても、使い分けるのが難しそうだ〉
〈ああ、ニホン語は最も難しい言語と言う人もいるくらいだからな〉
〈エルムヘイム文字はもっと簡単だというのに〉
〈そもそも文字の種類が違うからな〉
〈文字の種類だと?〉
〈チキュウには音を表すヒョウオン文字と、その文字に意味を持つヒョウイ文字のふたつがある。例えばカタカナやヒラガナは音を表すヒョウオン文字だが、カンジはヒョウイ文字だ。話していてわかるが、エルムヘイム共通言語はヒョウオン文字の組み合わせでできているはずだ〉
〈ううむ、よくわからんな〉
ミミルが生まれ育ったエルムヘイムには、エルムヘイム共通言語だけを覚えていれば、種族が違っても意思疎通ができるのだろう。言い換えると、ミミルは他の言語体系への馴染みがない。
俺は空間収納からメモ帳を取り出し、そこにわかりやすい例として、手と書いた。
そして、その元になった絵を描き加える。手のひらを描いて、その間に絵と文字の中間となる単純な線画を加えた。
同じように木の絵を描き、それが単純化されて木という文字になる流れを描く。
〈ほら、これをみてごらん〉
〈おおっ〉
象形文字の変化を説明するための絵をみせると、ひと目でその意図を汲み取ったのか、ミミルが目を輝かせて声をあげた。
〈カンジにはいくつか種類があるんだけど、このカンジはショウケイ文字という種類に分類される。何かの形をもとに、線画にしたものが変化した文字だ。だから、元の形に対応する意味がある〉
〈ふむ〉
〈書き取りの練習は大事だから進めると良いと思うが……〉
漢字には他にいくつか種類があったはずだ。30年も前に学んだことだからか、俺もすぐには思いだせない。
だが、小学生向けの漢字の勉強くらいならネット上に動画が転がっているはずだ。自宅に戻ったらディスプレイモニタ―に繋いだストリーミングデバイスで使えそうな動画をみせればいい。
ミミルは日本語Ⅱのスキル、日常会話くらいの能力はあるのだから、ひとりで映像を見ても大丈夫だろうが、念のため俺も一緒に見ることにしよう。
〈カンジの数だけ意味があるから、家に戻ったらディスプレイモニターで勉強しようか〉
〈しょーへいが教えてくれるのではないのか?〉
〈千種類以上の文字があるから、さすがに俺も忘れている。だから、一緒に勉強するよ〉
〈そうか〉
ミミルは頬を緩めると、少し俯いた。だが、すぐに顔をあげて俺の方へと目を向けた。
〈エルムヘイム共通文字の場合、意味を持つ文字であり、音を表す文字でもある。その点、ニホンの文字は明確に区別されているからわかりやすい〉
〈どういうことだ?〉
〈私の名前、カノ=ミミルはこう書く〉
ミミルは漢字ドリルの端に〝ᚲ.ᛗᛁᛗᛁᚱ〟と書いてみせた。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






