第391話
「グラスでも料理でも、重いものを手前に、軽いものを遠くに載せると安定します。そして、歩くんだけど……」
俺は然も当たり前といった感じで、肘を約90度に曲げてトレイを持つ左手を右手と交互に振って歩いてみせる。トレイの上にあるグラスは滑りだすこともなく、またぶつかり合って音を立てることもない。もちろん水が零れるなんてこともない。
客席を1周するように歩いて回り、パートの2人の前に戻ってきた。
2人はトレイの上に水が零れていないのを見て目を丸くする。
「意外と零れへんもんなんやねえ」
少しの沈黙のあと、吉田さんが感心したようにもらした。
「トレイの上を見て歩くんじゃなくて、進行方向を見ていれば少々腕を前後に動かしても零れません。逆に手元を見る方が零れやすい。じゃあ、練習してみましょうか」
「「はい」」
2人は水の入ったグラスをトレイの上に載せ、俺の言ったとおり手前にグラスがくるようにトレイを持ち上げた。手元を見るとつい余計な力が入って震えだしたりするので、「正面だけを見るように」とアドバイスをした。思ったとおり、2人の手の震えが止まった。それでグラスを落としたり、水を零したりするという心配から解放されたのか、小さくならトレイを持つ手も振りながら歩けるようになった。あとは慣れだろう。
「だいぶ上手くなりましたね。次はトレイから1つ、グラスを抜いてここに置いてみてください」
中村さん、吉田さんの順にトレイからグラスを取って、カウンターテーブルの上に置いた。
残念ながら不合格だ。
「2人とも自分から遠いところにあるグラスから取り出したのは正解ですが、持ち方が悪いですね。グラスの縁を持ってはいけません。なぜだかわかりますよね?」
中村さん、吉田さんの順に目を向ける。2人とも真剣な表情でこちらを見ているが、思っている答えに対する確信のようなものは感じられない。
「どうです、吉田さん」
「ええと、お客さんが口をつけるところやから、ですか?」
「そのとおり。だから、必ずグラスの下半分を持つようにしてください」
「「はい」」
居酒屋やカラオケボックスの店員などで当たり前のようにリムの辺りを指で持って客に飲み物を渡す店員がいるが、俺は経営者としてその教育ができていない店にしたくない。だから、ここだけは徹底していく。
午後から来るアルバイトの2人にもちゃんと話さないといけない。
あと、昼営業に対応してもらうパートの2人にはあまり関係ないが、ワイングラスやシャンパンフルートのような背が高くて不安定なグラスを持ち歩くのは難しい。ハウスワインは注いだ状態で客席に持って行くことになるから、水の入ったワイングラスで練習を続けてもらった。
小一時間ほど経過したところで、軽く休憩を挟むことにした。吉田さん、中村さんで交互に周回してもらっているのだが、パートの2人も左腕が棒のようになっていることだろう。ただ、営業が始まればおそらく正午前後から十三時過ぎくらいまでは休む間もなく何かを運ぶことになると思うので、少しは慣れておいてもらいたい。
ミミルはというと、途中で俺たちがやっていることを興味深げに見つめていたが、気が付けばまた平仮名ドリルに集中していた。
田中君がエスプレッソマシンを説明する際に電源を入れていたので、カフェ・ラテでも作って出そうと思ったのだが、いい機会なので具体的な使い方を説明することにした。
まずは、練習用に作るカプチーノなり、カフェラテを飲んでもらうことも考えて確認だけはしておく。
「二人はコーヒーは飲めます?」
「はい、大丈夫です」
「あ、私も大丈夫です」
偶にコーヒーを飲めないって人がいるから一応確認した。このあと、何杯か練習してもらうことになる。全部捨てるのはもったいないので、飲めるかどうかはとても重要だ。
まずは手本を見せるので、手元が見える場所に来てもらわないといけない。
「じゃあ、カウンターの中に入ってもらって、カフェラテの作り方を見てもらいます。そのあと、自分たちの分を作ってください」
「ラテアートとかできるようになるやろか?」
「えらい難しそうやねえ」
中村さんは興味深々といった感じだが、吉田さんは如何にも「機械」という感じのエスプレッソマシンに気圧されている気がする。
「そのへんは努力次第ですね。とはいえ、普通にラテを作るだけならそんなに難しくはないですよ。最初にピッチャーにミルクを入れて、スチームを使ってミルクを温めます……」
そういえばこのタイミングで商品知識をつけてもらうことにしよう。
「スチームでミルクを温めると、液体部分と泡になった部分ができます。液体部分はスチームドミルク、泡の部分をフォームドミルクと呼びます。カフェラテとカプチーノの違いはこのスチームドミルクとフォームドミルクの比率で決まるんですが、吉田さん知ってますか?」
コーヒースタンドで働いていたのなら知っているかな。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






