第390話
30分ほど掛けてパスタ生地とピッツァ生地の仕込みを終え、俺は客席側へと移動していた。
田中君が吉田さん、中村さんの2人に対してビアサーバーの使い方についてレクチャーしているところだ。中村さんはフロアの仕事は初めてだというし、吉田さんもコーヒースタンドのようなところで働いていただけだからビアサーバーの使い方までは知らなかったのだろう。
基本的に吉田さん、中村さんは小中学校へと子どもたちが通っている間に働くパートタイマーだ。ビールを注ぐ機会は少ないように思うかも知れないが、観光地であるこの街の客は昼間から飲む観光客が多い。注ぎ方くらいは覚えてもらう必要がある。
実は、ビールの注ぎ方にはいくつかの種類がある。
まずは、いきなりグラスに注いでビールと泡の決めた比率になるように注ぐ一度注ぎ。泡の粒が大きく、すぐにはじけて消える所為で炭酸の刺激が弱くなる。そのぶん、飲みやすくゴクゴクと喉越しを楽しみ、飲み終えたあとの爽快感を感じることができる。
次は一度注ぎで注いだビールを休ませ、表面の粗い泡が減ったところで細かい泡に入れ替える二度注ぎ。細かな泡はなかなか潰れることがなく、ビールの液面に長く蓋をするので炭酸と香りが抜けにくくなるという特徴がある。
最初に高いところから注いで泡を大きく出し、2回目でその泡を下から持ち上げるようにビールを注ぎ入れる。3回目にまた細かい泡を入れる方法が三度注ぎ。こんもりとグラスの上に泡が盛り上がる独特の注ぎ方だ。細かい泡、荒い泡、細かい泡の層ができ、苦味が抑えられるという特徴がある。
細かく分類すれば、二度注ぎの際の注ぎ入れに時間をかけることで、炭酸をしっかり残す方法などもある。
うちの店の注ぎ方は二度注ぎでいくつもりだ。適度な喉越しと、ホップの苦味や香り、麦芽の甘味と旨味をバランスよく楽しむことができる。
「おまたせ。田中君はどこまでレクチャーしたのかな?」
「トイレの清掃についてと、備品の収納場所の説明。冷蔵庫、製氷機の場所、食洗器の場所、使い方。エスプレッソマシンの使い方、ワインはワインクーラーとパニエの扱い方は伝えました。デキャンタージュするようなワインって扱う予定あります?」
デキャンタが用意されているので気になったのだろう。
タンニンが多いフルボディタイプの赤ワインは抜栓してからしばらく放置してわざと酸化させることにより渋みを抑え、飲みやすくすることがある。ただ、注文が入ってからでは抜栓後の時間が足りなくなるため、デキャンタという容器に移し替えることが多い。この作業のことをデキャンタージュと呼ぶ。フルボディタイプは寝かせている間に澱が溜まりやすいのだが、それをボトルに残すようにしないといけない。
「リオハやバローロは扱うつもりだけど、そう出るものでもないだろう。必要なら田中君がやればいいし、休みの日なら俺がやる」
「わかりました」
スペインワインもテンプラリーニョを使うリオハのようなフルボディタイプがあるし、イタリアワインにはネッピオーロ種を使うバローロのようなフルボディタイプがある。
フルボディのワインは比較的高額なものが多いので日に何本も出ることは無いと思う。
「で、ビールの注ぎ方は?」
「まだです」
「まあ、実際にやって見せないといけないしなあ。それは今日の仕事終わりのころにお教えします。
とりあえず、接客の基本用語から始めましょうか」
俺が話し始めたのを見て、田中君が厨房の方へと向かった。今日のうちにいくつか試作品を作ってもらわないと困る。
「基本用語は7つ。まあ、接客業なら当たり前の言葉なので大丈夫だと思いますが、必ず言ったあとにお辞儀をすること。ホテルやデパートみたいに30度だとか、細かいことは言いませんが、はっきり相手に認識してもらえるくらいには頭を下げてください。いいですね?」
「「はいっ」」
いらっしゃいませ
かしこまりました
少々お待ちください
お待たせいたしました
恐れ入ります
ありがとうございます
申し訳ございません
2人の返事が聞こえたところで、俺が先頭に立って7つの用語を読み上げ、2人にも同じ挨拶をさせる。
ミミルが何事かと驚いて俺の方へと視線を向けた。
店によっては朝礼みたいな場で揃って発声練習するものだが、うちではどこまでするか考えておかないといけない。パートの2人は11時から15時まで、バイトの2人は17時から22時までの予定だからパートの2人だけに練習させるのもどうかと思う。
とりあえず5回ほど基本挨拶を復唱して、次の説明へと移ることにした。
カウンターの引き出しからテーブルを拭くための布巾を3つ取り出し、湿らせて絞ると1つずつ手渡した。飲食のフロアスタッフは何かを運ぶ際にトレイを使うのが基本。うちの店ではビールもジョッキではなくグラスで出すからトレイ無しでは運べない。
「トレイを持つのが左手なら、畳んだ布巾を指に挟んだ状態でいること。腕を90度くらいに曲げ、手の上にトレイを載せる」
実際に左の手のひらの上にトレイを載せ、更にそこに水が七から八分目ほど入ったグラスを数個置いて、俺は説明を続けた。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






