第384話
何故失敗したのだろう……。
〈空間収納を意識すれば、中にあるものが思い浮かぶはずだ。時間を開けずに掴まないと、取り出すことはできないぞ〉
〈なるほど……〉
首を捻って考えていると、ミミルが助け舟を出してくれた。
フラッシュ暗算は右脳で計算すると聞いているが、暗算結果を読み上げるのは違う部分のはずだ。空間収納から取り出すというアクションは実際に手を使うのだから、中に入っているモノを認識して、すぐに手で掴まないといけないという理屈は理解できる。
〈まあ、取り出しは戻ってからでもまに合うか……〉
〈そうだな。いつまでもここに留まっているわけにはいかんだろう〉
地上とダンジョン内の時間経過が違うので、ダンジョン内から現在の地上時間が確認できない。
ダンジョン第3層に入ったタイミングで、夜明け前の4時くらいという感覚だった。それから2日と4時間ほど経過していると思う。ダンジョン第3層は地上の7倍半の速度で時間が過ぎるから、地上では約7時間経過していることになる。
ダンジョン第3層に入ったのが地上時間の1時半だとすれば、いまから地上に戻れば8時半くらいだ。
風呂に入って身綺麗にしてから仕事するにはいい時間だ。
〈地上に戻ったらすぐに風呂を入れるが、今日は先に入らせてもらうよ〉
〈なぜだ?〉
〈今日は全員が出勤してくるからな。いろいろと準備することがあるんだよ〉
〈ふむ……〉
風呂の順番についてミミルに異論はないようだ。
俺としては、風呂を上がって身支度したらすぐにでもパスタ生地やピッツァ生地の用意をしたい。
ミミルに教わった通り、簡易テーブルの上の食材や、畳んである椅子、簡易ベッド、テントなどに手を触れ、空間収納へと仕舞っていく。数がたくさんあるが、左右の手を交互に使えば次々と仕舞えるのであっという間に片付けが終った。
地上に戻ると、スマホの時計を見ると、時間は8時半を少し過ぎたところだった。早速ミミルはお籠りになられた。いつものことなので何も問題はない。
風呂を入れている間に2階のハーブ類に水やりを済ませておいた。
予想どおり、風呂の準備ができてもミミルはお籠りになっているので、遠慮なく先に風呂に入らせてもらった。髪を洗って髭を剃り、体を洗ったら浴槽に浸かって芯まで温める。
ゆっくりと浸かっていたいところだが、今日は店の開店に向けたパートやアルバイトの接客トレーニングを始めるから、のんびりとしていられない。
『しょーへい、いる?』
『ああ、もうすぐ風呂から出るところだ。どうかしたか?』
『な、なんでもない……』
ようやく肩まで浸かったところでミミルからの念話が届いた。実際に数分浸かればもう風呂から出るつもりだが、何かあったのかと心配になる。
トイレットペーパーは充分にあったはずだし、予備の分もホルダーに掛かっていたはず。
『なあ、ミミル。念話だと口調が違うみたいなんだが……』
『え、そ、そう?』
『なんか、こう……』
偉そうな話し方、というわけにもいかない。言葉を少し選ばないと……。
『いつもは威厳がある口調なんだが、念話だとその、女の子らしいというか……』
『ふええっ……そ、それは、そのっ……』
できるだけトゲのない言葉を選んだつもりなんだが、何やらミミルが動揺している。
違和感が激しいので別人と話しているような気分になって慣れないのだが、無理して答えてもらう必要もない。
『言いにくいことなら無理しなくていいぞ』
『あ、うん。そうね、たぶんだけど念話の糸のつなぎ方に問題があったのかな』
『それはどんな?』
『エルムヘイムにいたとき、私が念話の糸を繋いでいたのは妹だけだからじゃないかな、と思う』
『ふうん……』
念話を使っていたのは妹だけ、となると無意識のうちに家族と同じように俺と接していたってことか。
俺がそれだけ信頼されているってことなら、ひと安心だ。
でも本当にそうだろうか。
うちの奥庭から出てきたときにミミルが俺に繋いだ念話の糸はミミルからの一方通行だったらしい。その念話の糸を使っていたときは普段と変わらない口調だった。それではダンジョン内で都合が悪いから念話の糸を繋ぎ直したのだが、それから、口調が変った。
そう考えると、繋ぎ直した念話の糸に問題があるんじゃないかな。
『もういちど繋ぎ直すか?』
日本語で話すとき。エルムヘイム共通言語で話すとき。念話で話すとき。
それぞれで口調が変わるのは俺が混乱する。
『そ、そうね、その方が良さそうね』
『じゃあ、あとでやりなおしてくれ』
『う、うん』
本音で言えば、日本語で話すときもいまの念話のような口調になってくれるとありがたいのだが、いまの調子だと難しそうだ。それに、自分で自分のことを「ミミル」と呼ぶのはとてもかわいらしいし、日本語にまだ慣れていない姿は幼児のように舌足らずでかわいらしいというのも揺るぎのない事実。変わってほしくないという気持ちもある。
「まあ、あと1年もあればいろいろと変わるだろうさ」
呟いて立ち上がると、俺は浴室をあとにした。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






