第354話
エルムの木に近づいてくるにつれ、俺とミミルの間には会話が無くなる。ラウンがいたら気取られないようにするためだ。ここのエルムの木は枝ぶりが良く、傘のようになった樹冠部分――枝張りは20メートル近くあるように思う。俺の音波探知は基本的に自分を中心として50メートルのドーム状のエリアを対象としているから、最低でも30メートルまで近づかないといけない。
だが、ここは安全地帯だ。魔物への警戒をするための探知ではなく、今回はラウンを探すための探知をするだけだ。1秒以内に頭の中で音像化する必要もない。
先を歩くミミルの肩を指先でトントンと叩く。
急に声を掛けたことで、ミミルが立ちどまって振り返る。長い髪が靡いて、さらさらと肩から落ちていくのがとてもきれいだ。
『どうした?』と、ミミルが念話で返事をした。
こういうときに念話は便利だが、俺はどうも上手く念話で返すことができない。念話の仕組みをもう一度教わった方がいい気がする。まあ、それはいいとして。
「音波探知をかける、少し待ってくれ」と、俺は小声でミミルに話しかけた。
「……ん」
ミミルの小さなちいさな返事と同時、俺は音波探知を発動する。前方のエルムの木の枝ぶりが音の反射で伝わってくる。幹が太いせいで裏側までは読み取ることができないし、残念なことにあの丸い鳥の姿は浮かび上がってこない。
「どうも、この木にはいないようだ」
「……ん、しかたない」
互いに緊張感を解いて普段の話し方に戻るのだが、ミミルは何故か俺の左手の袖をつまんでクイクイと引っぱっている。どうかしたのか俺はミミルへと顔を向けた。
「きゅうけい」
昼食としてミネストローネとポヴェレッロを食べてから四時間くらいは経っている。1時間くらい休憩してもいいだろう。確か、俺の分として買ったケーキが4つ。うち1つを俺が食べて、裏田君に1つあげたから2つは残っているはずだ。
「カフェオレでいいか?」
「……ん、いい」
紅茶の葉っぱはないので、またフレンチプレスでコーヒーを淹れることになる。たぶん、ミミルの空間収納には缶コーヒーも入っているが、自分だけ本格的なコーヒーを飲んでおいて、ミミルには缶コーヒーを飲ませるという選択肢は俺にはない。
ミミルが取り出した道具の中からまたフレンチプレスを取り出してコーヒーの準備をする。合わせて焚火はせずに、簡易コンロを使って鍋にお湯を沸かす。
「今日はどこまで進めそうかな?」
「……ん、あとふたつ」
「そっかあ」
エルムの木は約4キロごとに生えているから、時速6キロで歩いているとしたら、あと2時間くらいで第3層の太陽が沈む……ということかな。街灯なんてないから夜になると月と星の明るさだけが頼りになる。夜中も行動し続け、方向感覚を失ってしまえば魔物の領域に誤って入ってしまうこともあるだろう。
それがルオルパの領域だったりしたら……考えただけでぞっとする。
〈ここで向きを変えて、こちらの方向へ向かう〉
ミミルが指をさす方向を見るに、ここで右折することになるようだ。
これまで右手側にルオルパの領域を見ながら歩いてきたのだが、この後もルオルパの領域に沿って歩くようなコースになるようだ。となると、左側はまた違う魔物の領域に変わるということなのだろうか。
〈逆側は何の領域になるんだ?〉
〈マットの領域だ。あまり横切るような経路は使いたくない〉
〈マットって、どんな魔物なんだい?〉
〈マットは鞘の中に玉がいくつも入った実ができる植物だ〉
〈ふうん。鞘はどんな形をしているんだい?〉
〈こんな形だ〉
ミミルは両手の人さし指と親指で形を作ってみせた。台形をしていて、幅は10センチ程度。この鞘に丸い実が入っているとなると、豌豆に似た植物なのではないだろうか。
イタリア人は豆が好きだから、シンプルに塩で茹でたものにチーズをかけてみたり、半分くらいを潰してペーストにしたものをバターと共にパスタに和えたりする。とてもシンプルだが、豌豆らしい青臭さを楽しむことができる春の味だ。
〈いまは持っていないのか?〉
〈豆に興味はない〉
〈そ、そうですか……〉
肉食少女――見た目の話だが――なので、理解はしていたがとても残念な気分だ。
まあ、それなら次の機会にまた取りに行けばいい。
〈じゃあ、そこにいるのはどんな魔物なんだ?〉
〈マットは植物だ。そこに住む魔物が厄介なのだ〉
お湯が沸騰したので、フレンチプレスの器具に注ぐ。粉にした豆がゆっくりと対流して底に沈んでいくのを見ながら話を聞く。その魔物の名前は何で、大きさはどれくらいあるのか。特徴はどんなところか……等々、教わりたいことがいっぱいある。
〈カメラス――体表の色を変色させることができる魔物だ。大きさはしょーへいよりも少し大きい……だろう。〉
〈それは、丸い目をしていて、左右が別々に動いたりするのか?〉
〈いや、普通の目だ。あと、腕が伸びる〉
擬態ができるというならカメレオンかと思ったが、どうやら違う系統の魔物のようだ。それでも、腕が伸びるというのは……どんな構造をしているのだろう。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。