第348話
ミミルを先にして歩いていくと、エルムの木まで残り100メートルほどになったところでかなり急な下り坂になっていた。高低差は約20メートル。20パーセントの坂道とは、やはり結構な角度だ。
崖になっているよりはマシだが、帰りに同じところを通るのは少し嫌だな。
崖下で少し湿度の高い場所……確か、楡の木が好む場所だったと思う。
〈この先は別の魔物の領域だ〉
指をさしてミミルが言った。
俺がその先に視線を移すと、高い場所から見下ろしているせいか、少し遠くまでよく見える。とはいえ、高いところから低いところにあるものを見ると、水平なところで見るよりも小さく見える。だから、遠くに小さく見えているだけだ。実際に近くにいけば、それなりに大きな魔物なのだろうと思う。
〈フロウデスという魔物だ。水の中で過ごしている〉
〈と、いうことは……あのあたりは湿地なのか?〉
ミミルは俺の問いにまず首肯で返して言う。
〈その通りだ〉
これまでと同じように草が一面を覆っているので、遠目から見ると草原に見える。実際に坂道を下ったところにある湿地――低湿地帯というやつだろうか。高低差もあって魔物はとても遠くに見えるのでいまひとつよくわからないが、目を凝らすと魔物の通り道らしき筋ができている。確か、アフリカに生息するカバも湿地帯に自分たちが動きやすい水路を作って生活していると昔見たテレビ番組で話していた。もしかすると、近くで確認すると見た目もカバなのかも知れない。それはちょっと見てみたいかも、と思うのだがいまはラウンが優先だ。先ほど、このエルムの木から飛び立っていったのだから、その方向へと追いかければいい。
少し坂を下りていくと、エルムの木の大きさがよくわかる。高いところから見下ろすようにしていたので小さく感じていたが、やはり30メートルもある木は幹や枝が太い。だが、目標にすべきはこれではない。
〈ラウンが飛んで行ったのは……ここからだと、あっちの方向か?〉
〈そうだな〉
俺が指さす方向へと向き直り、ミミルが方向を確認してくれる。先ほどラウンが飛んで行った方向は、隣のエルムの木、またはその先にあるどこかのエルムの木だろうと俺は思っている。俺たちが歩いてきた方向や、その前に休憩したエルムの木があった方向から考えると、こちらの方向で合っていると思っていたのだが、間違いなくてよかった。
〈ここで水でも飲んで少し休んでから次のエルムの木へと向かう。いいか?〉
元指揮官らしい、威厳のある口調でミミルが話す。
〈もちろんだ〉と、俺が返事をすると、数分前までラウンがいただろう低湿地のエルムの木に到着しても、特に休憩などせずに歩きはじめる。ミミルは落ちていたエルムの木の枝を手に取り、足元の草を払いながら歩く。草丈は80センチほどあるので、ミミルの身長だと少し歩き難いのかも知れない。
日本語の練習という意味では、ミミルには普段から日本語を使ってほしい。しかし、無理に日本語で話すことによって、大事なところで齟齬があってはたまらない。ミミルもこれからの行動を決めるという意味では大事な会話だからエルムヘイム共通言語を使ったのだろう。本当は日本語で話すべきだとミミルも思っているはずなので、特に指摘はしないことにしておく。
それにしても、エルムヘイム共通言語で話すミミルは自信に満ちあふれている気がする。まあ、数十年もダンジョンに入り続けて来たという自負と、王立魔法師団の筆頭という責任ある立場がそうさせるのだろう。
逆に日本で話すときはまだまだカタコトになることが多い。ずっと少し不思議に思っていたが、この際だ。時間も存分にあることだし、きいてみることにしよう。
「ミミルはどうして自分のことを『ミミル』と呼ぶんだ?」
「ことば、知識ある。わたし、わし、われ、おれ、ぼく、おい、うち、わらわ……」
「確かにいろいろあるな。実際に俺も『おれ』を使っているわけだが……」
「……ん、使いわけ、わからない」
「ああ、基本的に女性は自分のことを……『わたし』と呼ぶことが多いな」
「なぜ?」
草をなぎはらう手を止め、俺を見上げてミミルがたずねる。
何故と問われると返事に困る質問だ。田中君は自分のことを「うち」と言うし、裏田君は「ぼく」を使っている。何故そうなったかは知らないが、家庭環境や学校での指導、部活などの影響が大きいはずだ。俺自身はと言うと、小学校に入りたての頃は「ぼく」だった。高学年になった頃に「おれ」になった気がする。それからずっと「おれ」を使っているが、ホテルでお客さんを前にすると「わたし」になっていたな。時と場合によって俺も不知不識のうちに使い分けていたってことか。
「な、なんでだろうな?」
「あした、裏ちゃんに聞く」
「お、おう……あまり困らせるなよ」
「……ん、だいじょうぶ」
たぶん裏田君は悩んだ挙句、「僕は『ぼく』やからですわ」と答える気がする。それよりも、田中君にたずねる方がいいんじゃないかな。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。