第347話
飛ばしてくる汁が臭い。洗ってもなかなか取れない……というだけなら怖くもなんともない。
リュークとトリュークの討伐は生命に危険が及ぶ、またはそれに近い何か……四肢の欠損や骨折等のリスクを負うものでは無い気がする。
「目、入る。見えないなる」
「失明の可能性があるのか」
「汁、しかい奪う。葉、じゆう奪う。埋められる」
「お、おう……」
それは嫌な話だ。生き埋めとか、想像しただけでも恐ろしい。
ダンジョン外の生物が死ねば、少しずつ魔素に変えられて消えていくという話をミミルがしていたはずだ。生き埋めにすれば、死体から出てくる魔素をリュークやトリュークが吸収していくということなんだろうな。
いずれにしろ、リュークやトリュークに埋められてジワジワと死へ向かうというのは気分のいい話じゃない。
実際に戦ってみて弱さに驚いたが、油断は禁物ということだ。
どうやらミミルはリュークやトリュークの汁の匂いが苦手のようで、あちこちに汁が飛び散った今回の戦いでは最後の収穫作業を手伝ってくれない。
まあ、今回倒したリューク、トリュークはそんなに多くないのですぐに収穫を終えることができたのは幸いだ。
黒い殻に包まれたリュークの実が8個、トリュークの実が5個。
青ネギのようなリュークの葉は2束、ニラと行者ニンニクの中間のようなトリュークの葉は3束残った。それらをミミルの空間収納へと仕舞ってもらう。手渡す際に「しょーへい、臭い」と言われるが、あの状況ではどうしようもない。
俺の魔法はミミルと違って旋風を起こすレベルに達していないし、他の魔法も一定の範囲を対象に発動するようなものがない。いまのところ、各個撃破することしかできないのだから。
それでもリュークの汁が掛かった臭い服を着た男と一緒にいたくはないのも理解できるから、服を着たまま水洗いを済ませる。細菌やウィルスがいないから風邪をひくという心配がないからできることだ。
ちょっとやそっと洗ったくらいで匂いが全て取れるわけではないが、気休め程度にはなる。
ミミルも特に何も言わなくなったので、どうする、とミミルに問いかける。俺としてはリュークやトリュークの在庫としては充分確保できたと思っているので、ラウン探しに戻りたい。
それに、リュークとトリュークの領域で3回の戦闘を行い、魔法探知の練習、氷の刃を作る練習などをしていたから、それなりに時間も経過している。
俺の問いかけに対し、ミミルは首を捻って少し考える仕草をみせる。ここでまだ収穫を続けるか、安全地帯に戻ってラウン探しに戻るかの二択しかないはずなのだが……。
〈そうだな、他の魔物の領域を覘くのもいいが、しょーへいの空間収納が優先だ。ラウン探しを優先しよう〉
〈いまからだと……あと2本くらい見て歩けば夜になる感じかな〉
ミミルは〈うむ〉と短く声に出し、俺に柔らかい笑みをみせる。
幸いにも魔力探知やアイスブレードの練習をしている間も歩く足は止めていなかったので、2本目の楡擬き――エルムの木が視界に入っている。距離としては1キロあるかないかなのだが、途中から下り坂になっているようで梢しか見えない。
これまでに見てきたエルムの木は、根元から梢まで30メートルくらいある大木ばかりだった。日本の楡の木の場合、一般的なもので10メートル程度だ。しかし、西欧や南欧に行くと少し種類が違うようだが、同じ楡の仲間で30メートルくらいにまで育ったものがあった。
近い種類かどうかは知らないが、このエルムの木も同じくらいの高さだとすると、20メートルほど下るということになる。
「あの先は崖なのかな?」
「……下り坂」
「そっか、ありがとう」
「……ん」
日本語で話しかければ、ミミルは日本語で返事をしようとしてくる。さすがに意図が伝わらないと思った場合はエルムヘイム共通言語になるが、普段から日本語を使い慣れようとしている努力はすごく感じる。
その健気さにまた頭を撫でたくなる俺だが、漸く自然に我慢ができるようになってきた気がする。実は最初の頃は手を握ったり開いたりして誤魔化していた。
坂の下にあるというエルムの木を目指して歩いていると、その梢から黒い影が飛び立つのが見えた。
「あっ!」
俺が声を上げると、ミミルも急いで俺の視線の先を追う。
「気づかれたか……」
「……ちがう。ぐうぜん」
鳥の目は人間のそれよりも高機能だという話を聞いた。
猛禽類になれば数キロ先のものを拡大してみることができるというし、カラスは人間の目で見える赤、緑、青の3色に加えて紫外線まで見えたりするらしい。もちろん、夜は見えないというのは俗説に過ぎない。
数百メートルという深い海の中に潜って魚を取ってくるペンギンのことを考えてみて欲しい。光が届かない深海で魚を捕れるということは、暗いところでも見えているという証拠だ。
そう考えると、逃げたのはやはり見られていたってことかな……。
一部の鳥の場合は黄斑の中心窩が二つあります。カメラで言えばひとつが望遠、ひとつが接写用レンズにあたります。眼前、一センチくらいのところから数キロ先まで見ることができるそうですよ。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。