第317話
ミミルは自分の方が年上だから「さん」で呼ばれるのが当然だと言っていたが、「ちゃん」をつける方が親し気だって話をしたんだよな。そう言われると「ちゃん」付けされることが満更でもなさそうな表情に変わったのを覚えている。
場所は確かダンジョンの中。
裏田君にミミルのことを紹介したあとに、論より証拠と連れて行ったときのことだ。
ミミルにとっては、奥庭にあるダンジョンの存在と、自分の素性を教えているかどうか――というのが判断の基準になっているのだろうか。それとも……。
「チラミス、食べてない。仲良し、はやい」
「「「――え?」」」
ミミルが口にした意外な理由に驚いた3人の声が揃う。
初対面で且つ小一時間ほどティラミスを一緒に作ったからと言って気の置けない仲になれるわけでもない――俺と裏田君、田中君は理解している。でも食べてないから仲良しじゃないというのはどうなんだろう。
やはり、ミミルが思う「仲良し」の感覚は俺たちのそれとは異なるのだろう。
「ちゃうちゃう。『喧嘩せんと、あんじょうやってきたか?』ってことやで」
「そうそう、そういうことえ」
裏田君と田中君が慌てて訂正しようとする。
だが、ミミルは不思議そうに首を傾げて2人を見つめている。
「ああ、うん。『喧嘩せずにいい感じでやってきたか?』ってことだ。『あんじょう』はこの地方独特の言葉だからな」
「喧嘩しない、意味?」
あんじょうというのは、「味良し」から転じた言葉で、「上手い具合に」とか「具合よく」という意味で使われるようになった京ことばだ。
恐らくスキルとして授かったミミルの日本語理解能力は共通語を基礎としているのだろう。それを授けた平安時代のご先祖様が理解できない言葉だと思うのだが、どういう仕組みになっているのか皆目見当がつかない。とりあえず、この国で主流になっている言葉を話せる――というスキルなのだといまは理解しておこう。
「仲が良いと喧嘩しないだろう?」
「仲良いの反対……仲悪い」
「いや、そうなんだけどさ……仲が良いと喧嘩しないだろう?」
「仲良い、でも喧嘩する」
確かに日本にも「喧嘩するほど仲が良い」という言葉はある。
エルムヘイムにも似た言葉があるんだろう。だが、俺の授かった言語能力にそれがあるかどうかを確かめている余裕はない。
「えっと、仲が良いというのは状態。仲良くするというのは喧嘩したりせずに過ごすってことだ」
「ん、意味わかった。ミミル、トーカと仲良くしてた」
「そうやんねえ、うちら仲良うしとったよねえ」
田中君が前屈みになりながらミミルへと微笑んでみせる。
異世界の文化と言葉の違い、更には本来の意味とは違う言葉を比喩的に用いることがある日本語の難しさを痛感する瞬間だ。
正直、どっと疲れる。
とりあえず、気まずい雰囲気が漂い始めているので、話の方向を転換したいところだが……業者の工事が終わっていない。挨拶回りを口実に外に出て空気を変えることもできないのが辛い。
「ところで、なんで裏田さんだけ、裏ちゃんなん?」
「ああ、僕からいくつか案を出したんですわ。〝裏ちゃん〟とか〝悠ちゃん〟って呼ばれますよって」
「そうなんやあ」
「俺も〝将平〟って呼ばれてるしな」
父親……ということになっているのに、完全な呼び捨てなんだよな。
そう考えると、なぜか苦い笑みが出てしまう。
「オーナー、それでええんですか?」
「いや、まあ……慣れるまでは仕方ないだろ」
田中君が心配そうに俺のことを見てくる。
本当の親子であっても、10日ほど前に初めて会ったとなると互いに戸惑って「お父さん」だなんて呼べるものじゃないと思う。
仮初の親子という関係になったのも昨日のことだから、ミミルにそこまで求めるのは無理がある。
ただ、彼女に嘘を吐いている……そう思うと罪悪感のせいか、どこか申し訳なくなってくる。
「うちは普通に下の名前で呼ばれることが多いかなあ。桃香って呼ばれることが多いけど……名前を見てモモカって読む人も多いかなあ……」
「ああ、最初は俺もそう読みかけたな」
「僕もですわ」
履歴書にフリガナがあったので理解できたが、紛らわしい。
「うちも、親し気に名前呼んでもらえると嬉しいんやけど……」
「まあ、強制するもんちゃうし」
「そうだな」
明日以降、パートとバイトが入ってくるんだから、自然と呼びやすいように名前がついていくと思う。
20世紀のセクハラ親父のイメージを持つ人も多いから、俺や裏田君が「田中ちゃん」などと呼ぼうものならハラスメント扱いになってしまうこともある。パートのお姉さん方は俺よりも年長の人もいるので、女性陣全員に対して公平に「ちゃん」をつけて呼ぶなんてことも俺にはできない。
「年の差はひと回りくらいちゃうだけやし、うちは別に『桃香おねえちゃん』でもええんやけど……」
「あ、それは……」
実年齢は128歳のミミルに「お姉ちゃんと呼んで欲しい」はやばい……。
慌てて視線を向けると、両拳を握ってプルプルと震えるミミルがいた。
「あんじょう」と言う言葉は、京都だけでなく大阪でも使います。
ただ、最近はあまり使われませんね……。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。