第313話
避難梯子を設置する業者3名を引き連れ、通り庭を抜けた先……奥庭へと案内する。
ダンジョンへの出入口はミミルが魔法で作った石造りの小屋になっていて、扉も設置されているので問題ないはずだ。
梯子の設置予定場所に到着すると、営業も兼ねる担当者が俺に向かって確認する。
「ここでええんですよね?」
「ええ、そこでお願いします」
「ほな、俺が2階に行きますよって、下は頼んます」
ガチャガッチャと工具の音を鳴らしながら、担当者が俺のあとについてくる。確か名字は……。
「林さん、いつもなんか機嫌が良さそうというか……嬉しそうにしてますね」
「そ、そうですか?」
「ええ、声が弾んでる感じがしますし、目がキラキラしている気がします」
「ああ――実を言うと、古い作りの家を改装するのが好きなんですわ。古民家的なんを残さはるのもええけど、それやったらあまり仕事で来られしまへん。古いまま、住まはりますよって……あまり関わりがないんやけど、飲食店はんはちゃいますから」
うちの店でもそうだが、町家を改修して何かを始めるという人は、通りに面した部分はそのまま残している。外観が変わってしまうのなら建て直す方が見栄えがいいが、町家を維持するという目的が達せられなくなるからだ。
古い町家の実際の活用例としては、改装して一棟貸しの宿泊施設にする――なんていうのもある。その場合は、畳、建具の交換、壁の補修、水回りの修繕などで概ね済んでしまう。
ファッションブランドの店になっている町家では、床を取り払っていたりする程度。窓や扉も昔の木枠で、糸屋格子がついたままになっている。
一方、料理屋になる場合は内部に大きく手が入る。
京町家の場合、台所という概念がないからだ。玄関から入って続く通り庭に竈――おくどさんを置き、その上を通って煙が出るように火袋と呼ばれる吹き抜けにする構造が基本。もちろん水回りもそこに用意されている。
時代が昭和になっておくどさんからガスに変わっても部屋を一つ潰して台所を作るという家は少なく、冷蔵庫や各種の調理家電も通り庭に置くのが一般的だった。
だから、料理屋にする以上、建物の中に充分な広さがある厨房を作ることになる。
「それでまた関わりのある仕事が貰えたら嬉しゅうもなりますわ」
町家の改修という仕事が終わっても、うちの店に関わることができるのが楽しいのだろう。
奥庭での確認のために履いた靴を脱いで廊下を抜け、通り庭でまた履くと今度は隠し階段でまた脱ぐ。
結構面倒な話だが、町家の構造を残しているので仕様がない。
「何度も履いたり脱いだりさせて済まないね」
「いやいや、この不便さこそ町家に住む醍醐味やし」
「ああ、確かに……」
改装前は通り庭の先――従業員用のトイレがある場所までまっすぐ土間になっていた。風呂場、トイレも土間のようなもので、地面をコンクリートで固めたてタイルを張っただけの場所だ。
そこにユニットバスを置き、洗濯機を置ける脱衣場を作る。更にお客さん用のトイレを増設して客席からそのまま行き来できるようにするとなると、どうしても床を上げる必要があった。
だが、改装前の町家のトイレや浴室は母屋の外にあったのだから、靴を脱ぎ履きしないといけないところは変わらない。
そういう意味では、林さんの言うとおり……不便さを許容していなければ暮らせない環境であることは変わっていないということだ。
2階に上がって居室の中へと進み、そのままベランダへと出る。
「えらい育ちましたねえ」
ウッドデッキになったベランダに植えているハーブ類を見た林さんが感想を述べる。
5日ほど前に来た時も下見はしてもらっているのだが、その時よりも育っているのは確かだ。その前に来たのは二週間近く前だから更に育っていることを実感してもらえると思う。まあ、ハーブ類は雑草のようなものも多いので、生命力は凄まじいから当然だとは思うが――
「ええ、店で使うにしても増えすぎましたね」
もっさりと一面を覆うスウィートバジルを見ると、つい苦笑いが出てしまう。
トマトとモツァレラチーズと共にサラダのカプレーゼにしたり、ピッツァ・マルゲリータにも使うので、最も消費することが想定されるハーブだ。他にもミントやオレガノ、タイム、ローズマリーなども植えているのだが、バジルは摘心によって横に広がって伸びており、余計に目立ってしまう。
2階のウッドデッキの端に到着し、一階側にいる職人さんと再度設置場所を確認してもらって作業に入ってもらった。
アルミ製の柵を切断するのに電源が必要とのことだったが、いまは洗面台として使っているシンクのところにあるのを使ってもらうことにした。
俺の歯ブラシとコップ、ミミルの歯ブラシとコップがある。
ダンジョン産の何かがベランダに置いてあるわけでもないし、別に見つかったところで困るようなものはない。
このまま事務所に戻って、裏田君との事務作業に戻るとしよう。
古い家は、お手洗いは家とは別になっていることが多く、京町家でも庭に出たところにあることが多かったようです。
また、昔は銭湯を使用するのが一般的で、家風呂がない家が多くありました。
昭和に入って改築などで家に風呂を作るとなると、坪庭のない京町家の場合は通り庭を抜けた先に作るしかなかったようです。構造上、どうしてもお風呂に入るときは一度家を出ないといけないので、冬場は大変だったらしいですよ。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。