第305話
4人で店を出た直後に電話があった。
2階のベランダから奥庭に下りる梯子の工事の時間が16時くらいになるということだ。作業時間は1時間半くらいかかるとのことなので、また挨拶回りに出る時間には終わるだろうと思う。
担当の男は何やらまた嬉しそうに電話口で話していたが、今すぐの時間帯でなかっただけ良かった。
街をぶらつくように歩き、他店のランチメニューを見て歩く。
昨日の一軒目に入った店もランチ営業をしていたが、パスタランチだけの営業だった。系列のピッツァを出す店の方も見てみたいのだが場所的は俺の店を挟んで反対側にあるらしい。
この街は1000年以上、続く古都。
懐石料理や精進料理を代表とする出汁が効いたあっさりとした味をイメージする人が多いが、実は住民は濃い味が大好きだ。
白川を発祥とする野菜と鶏ガラをドロドロになるまで煮込んだスープを使ったラーメン屋は全国区レベルのチェーン店になっている。また、清湯だが豚骨ベースに醤油を入れてつくる濃厚でコクのあるラーメン屋もチェーン展開しているし、本店が隣同士になっている中華料理店のラーメンも真っ黒で濃厚だ。
一条寺には500円硬貨がスープの表面に浮くほど濃厚なラーメン屋があって人気がある。
俺の店の周辺にはそこまでラーメン屋があるわけではないが、通りに漂うスープの香りを嗅いでいると〝半ちゃんラーメンセット〟なども少し恋しくなってくる。
だが、近くに見える店は行列ができているし、大人数で食べに行くのには向いていない。
店を出て碁盤の目状になった通りを何度か曲がると、懐石料理などを出す老舗の前に到着した。
今夜も挨拶回りで店を回ることを考えると、あっさりと薄味の料理を楽しむのも良さそうだ。
「ここにしてみるか?」
「え、はい。いいですよ」
老舗ということもあって、敷居が高く感じるのだろう。田中君が少し焦って返事をしする。
「会社の経費で払うから、財布のことは心配しなくていい」
「「ごちそうさまです」」
即、返事がくるところを見るに、2人はなかなか現金なところがあるようだ。
口元に苦い笑いを堪えながら店に入る。
「おいでやす、ご予約のお客様ですか?」
店員がまず訊ねるのは予約の有無だ。
人気観光地になり、料理屋も予約が前提になってしまっている店も多い。
数か月前から予約して入らなければ食べられない店なども多いのは観光地として繁盛していてとても良いことなのだが、裏を返せば数か月前から旅行プランをみっちりと組み込んでおかないといけないということ。自由に行動するのが好きな俺のようなタイプの人間には辛い。
「あ、いえ。予約はないけど、四人はダメですか?」
「少々待っとおくれやす」
店内で働く女性たちは和装だ。
飲食店の場合、上下セパレートタイプの簡易和服なる制服が売られているのだが、こちらはそうでもないようだ。
草履の上に足袋を履いた女性が急ぎ暖簾を潜って奥へと入っていく。
暫くすると、また暖簾が開いて小柄な女性が出てきた。
「あら、ミミルちゃんやないの」
言葉は間の抜けた感じだが、凛とした声には目に見えない力が籠っていて、この街で鍛えられた老獪さのようなものを感じさせる。
先日、店先を通りかかり、朝食を食べに行った喫茶店で出会った老人――秦さんだ。
2度会ったとはいえ、名前を紹介したのは喫茶店でのこと。
それでも確りとミミルの名前を憶えているというのはすごいことだ。歩き方なども考えたら、矍鑠と言う言葉がしっくりくる。
〈挨拶は「こんにちは」だぞ?〉
ミミルに挨拶するよう、エルムヘイム共通言語で囁く。
「こ、こんにちは」
隠れてばかりいたミミルだが、先ほどの言葉が効いたのか俺の背後へと隠れることもなく、挨拶を済ませた。
一歩前進……といったところだろう。
「いや、うれしわあ。せんどは高辻はんの後ろに隠れてしもてからに、顔もよお見えへんかったさかい。
ほんま、お人形さんみたいやねえ……」
秦さんは溜息を吐くように言葉を零しつつ、暫くミミルに見惚れている。
とても可愛い孫、曾孫くらいに思っているのかもしれないが、ミミルの方が年上だ。これは言わぬが吉というやつだな。
「あ、せやせや……4人さんやったね。お席の用意さしてもらいます。どうぞお2階へおあがりやす」
「こちらへどうぞお」
秦さんの言葉に続き、最初に応対した店員が俺たちを先導する。
この様子だとキャンセルが出たので席が用意できたといったところだろう。
決して、秦さんがミミルを気に入っているから……というわけではないと思いたい。
掘りごたつが用意された座席が並んだ和室を横目に俺たちが案内されたのは洋室タイプの個室。カラフルなガラスが嵌め込まれた窓から入ってくる光が、和風な雰囲気のある室内の装飾にテーブルや椅子という組み合わせの絶妙なバランスを生み出している。
四人掛けのテーブル席に案内され、俺の左隣にミミルが座り、俺の前には田中君、その隣に裏田君が座った。
せんど :[共]前回は
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。