第303話
厨房に戻ると、早速田中君がパン生地の準備に入る。
ほぼ1日掛けて冷蔵庫に入れていた老麺は十分に発酵している。
そこに、同じバケット用の配合で生地を作り、発酵種として老麺を加えて一次発酵させる。
昨日、俺が準備した生地の配合を伝えると、田中君は手際よく生地の準備を始めた。
今回は試し焼きなので数をつくるつもりはないらしく、作る生地の量も少なめだ。
「大きさはボガティージョを作れるくらいにしてほしい。仕上がりで約20cmくらいが目安だが、できるか?」
「プティ・バタールみたいな感じです?」
フランスパンといえばバケット……というイメージを持つ人も多いと思うが、他にもバタールやパリジャン、クッペやブールなどの種類がある。
勘違いしている人もいるかも知れないが、バタールとは「中間の」という意味で、バターは入っていない。
太さ等の違いもあるから一様に分類はできないのだが、長さの目安として、クッペはクープ(切れ目)が1つ、バタールは3つ、パリジャンが5つで、バケットは7つ……という感じで長さの違いが出てくる。
田中君が言う、プティ・バタールがクッペとバタールの更に中間で、クープが2つのものを指しているとするなら……。
「うん、それで頼む」
「わかりました……なんぼか作って試そう思います」
他に、「紐」という意味があるフィセルと言う細いパンもある。これもよくサンドイッチに用いられるパンだ。
ミキサーに入れた材料に老麺を入れて生地を捏ね上げていく。俺なら手でやってしまう量だが、普段から機械を使うなら操作方法の確認という意味でどんどん使ってもらいたい。
「さて、裏田君」
「はい、昨日の話ですよね?」
「それもあるが……田中君も聞きながら、意見があったら言ってくれるかな?」
「あ、はい」
2階から持ってきたメモを片手に、昨日の夜に考えたことを裏田君、田中君に説明する。
ランチタイムはボカティージョやパニーニ、生パスタ、ピッツァのセット。それに昼のコース料理を出すこと。ランチタイムの客の夜の料理を試してもらうため、ランチセットには夜のメニューから二品ほどピンチョスを添えたサラダを出すこと。夜のメニューはピンチョスに出すことも考えた構成であることを話し、考えていた料理名をあげていく。
その頃には田中君も生地の一次発酵待ちになっていて、厨房で椅子に座って俺の話を聞いていた。
「裏田君には話してあるんだけど、これは課題だ。周囲にある競合店に負けないようなメニューが欲しいと俺は思っている。『アレを食べに行くなら羅甸』ってなるくらいのインパクトが欲しい」
「スイーツでっていうことですか?」
「いや、それには限らない。スイーツでもそういう強い商品があるなら有難いけどね」
うちは飽くまでもダイニングバルなので、スイーツだけを食べに来るお客さんが増えても困る。そういう客は長居するから客席回転率が死んでしまう。
出すならランチ営業後のカフェタイムか、コース料理のデザートにしかならない。
「裏田君は昨日のうちに話しておいたけど、なんかいいアイデアはあるかい?」
「ひと晩だけとなると流石にいい案は出てきませんわ。野菜以外に『京』の字がつくもんは他に京鴨くらいかなあと思てたくらいですわ」
「そうか……まあ、そうだろうなあ」
京都市近郊で飼育された合鴨のことを京鴨と呼び、ブランド化されている。だが、ロース肉1枚で2000円近くする高級品だ。1枚から3皿分の料理が出せるとしても、それなりの値段を付けざるを得ない。小皿料理にするにしても、1皿に薄い鴨肉が2切れや3切れではお客さんも不満だろう。
ソースのバランスも考えたら、外国産の鴨肉で考える方が無難だと思う。まあ、鴨は扱う気だったので試しに何種類か食べ比べてみてもいいだろう。
「う、うちはまだ料理のことまで口出しできるくらいよおわからへんけど……」
社員として意見を求められていることや、自分よりも10歳以上も年上の男たちに意見を述べるというプレッシャーのせいだろうか。田中君が恐ず恐ずと声をだした。
「うん、なんでも思ったこと言ってくれていいよ」
「ミルクレープで薄いもんを重ねるのは慣れてます。ラザニアは得意です」
「ラザニアかあ……」
確かに茹でたてのラザニアを広げて一枚ずつ重ねる作業はたいへんだ。地味なだけでなく、冷めると硬くなるしすぐに他の生地とくっついて固まってしまう。
好きなお客さんは一定数いる料理だが、面倒がって出さない店も多い。それに、グラタン同様、冬の料理というイメージが強い。
「定番商品の1つにしたいところだね。手間がかかるけど、一定数のファンがいるから」
「あ、ありがとうございます」
手元にあるメモ用紙に「定番:ラザニア」と書き込んでおく。
やはりそう簡単には名物料理など生まれるものではない。何よりもお客さんに認知されなければ、名物にはならない。やはり昼食を挟んでゆっくり考えていくしかないかな。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。