第302話
とりあえず、腕に力を入れてプルプルと小刻みに震えているミミルの両肩に手を添え、俯いて隠れている顔を覗き込む。
涙を溜めているわけではないから、強い対抗心を田中君に抱いているのだろう。その対象が本当に胸の大きさだけなのかどうかは不明だが……。
「仕様がないだろう。田中君は地球上で生まれ育ったから、女性として子を産んで育てられる身体になっているだけ。逆にミミルはダンジョンの中で長く活躍できる身体になっている。それだけの違いだろう?」
「ん、そのとおり……」
ある生物学者は言う。
猿や犬などの動物の雄は、雌の排卵に伴って性器から発するフェロモンを嗅いで興奮する。しかし、人間は二足歩行に進化したため、性器に近い尻の匂いを嗅げないから、尻のように胸が発達するようになったのだと。
だが、人間は知能が発達したことで、胸の大小だけではその女性の優秀さを測れないことをよく知っている。
「胸は大きな人もいれば、小さな人もいる。その人の価値は、胸だけで測れるものじゃないだろう?」
こくりとミミルは頷く。
俺よりも遥かに年上なミミルに説明するようなことじゃないと思うのだが……。
ミミルがエルムの事情のようなものを話しだす。
「しょーへい、言いたいことわかる。エルムの女、結婚し、子ども産むと胸大きいなる。胸大きい、男の目、集める」
エルムの男性も似たようなものなんだな。生物学者の言ってることも間違いじゃないってことか?
「結婚してない、胸大きいはずるい」
「注目を浴びるからか?」
「ん、そのとおり」
エルムヘイムでは結婚もせず、ダンジョンにも入らないという選択肢は軽蔑の対象といったところか。
胸が大きいことをずるいというのは変な話だが、根本的なところでミミルの認識は間違っている。
「でもここは地球だ。ミミルのように長命な者は俺以外にいない。ミミルと比べて遥かに短い生の間に子孫を残すんだから仕様がないだろう」
「むぅ……」
「それに、ミミルは可愛いからその方が人目を惹くと思うぞ」
ミミルが胸元を叩こうとするのを軽く躱す。
こうして褒めると叩かれるので、身体が覚えてしまったのかも知れない。
「む、避ける駄目!」
ミミルがもう一度俺の胸元を叩こうとしたところで、インターフォンが鳴った。
田中君が着替え終えたのだろう。
立ち上がったところ、尻をミミルに叩かれる。痛くも痒くもないのだが、ミミルが満足したならそれでいい。
インターフォンの画面を覗いてみると、思った通り田中君がいた。背後に巨大な影が映っているところを見ると、裏田君も出勤してきたのだろう。
「俺は店の方に戻るけど、ミミルはどうする?」
「文字、練習」
「昼食時になったら呼びに来るから」
「ん、わかった」
ミミルを置いて部屋を出ると、玄関前には裏田君と田中君の2人がいて俺が出てくるのを待っていた。
「おはようございます」
田中君が着替えている間に出勤してきた裏田君が挨拶してくる。
特に昨日の酒など残っていないようだ。相変わらず爽やかな男だ。
「ああ、おはよう。田中君、似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます」
アイボリーの長袖のTシャツ、紺色に染まったスリムタイプのストレッチデニム。そこにダークブラウンのエプロンを着けている。
ソムリエやソムリエールといえばお客さんの目の前でベストのポケットからソムリエナイフを取り出し、抜栓したら素早く折りたたんでポケットに仕舞う――そんな所作のイメージがある。だから、服装もベストにサロンのイメージを持つ人も多いと思う。
「サロンでなくていいのかい?」
「ええ、粉を扱うので胸元が汚れますし……」
言って、田中君は胸元のあたりまで覆ったエプロンの端を摘まんでみせる。
別にミミルに言われたから気になるわけではないが、エプロンをすることで隠しているように感じてしまう。まあ、胸が大きいと他人――特に男性からの視線が気になることだろう。
「そういう意味やと、僕もエプロンにした方がええかも知れませんね」
「じゃあ俺だけサロンにするか……」
厨房の役割分担からすると、ランチタイムは裏田君がコンロ前で俺がピザ窯とオーブンの前に立つことになる。
コンロ前でソースをパスタに絡める際、多少なりとも煽るという作業が出てくるので身体の前面にソースが跳ねることが多い。裏田君がエプロンを使うというのは正解だ。
残る田中君はサラダやピンチョスを載せた前菜の準備や、パニーニ、ボカディージョのようなサンドイッチ系の調理担当だ。
コンロやオーブン、ピザ窯を使うことがないので、厨房と客席の間の連絡係のような仕事もお願いすることになる。
「あ、僕も着替えたほうがええですか?」
「いや、今日はまだ必要ない。田中君はオーブンの癖を知りたいからバケットを焼いてみるだけだ」
こくりと頷く田中君を見て、裏田君も納得したようだ。
「ここで話すのも何だし、とりあえず厨房へ行こうか」
俺が指で階段を指すと、2人はどちらからともなく厨房へと向かって動き出した。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。