第299話(田中視点)
短大を卒業し、製菓学校を出てから1年。西欧と南欧のお菓子を学ぶための旅から帰ってきたのはええんやけど、卒業後1年のブランクは大手の製菓会社やパティスリーでは歓迎されへんみたい。
たぶん、毎日機械みたいに同じ味で同じ見た目のものをぎょうさん作ること……それが大手の製菓会社のパティシエールに求められることなんやと思う。
街やホテルのパティスリーでも基本は店主がパティシエをしたはるから、新たなケーキを創造するという仕事はあらへん。そういう意味では大手の製菓会社とあまり差はないんかな。
もちろん、製菓会社の商品企画部門とかに入ったら話は変わると思うけどそういう部門はすごい競争率が高いみたい。
うちの強みは身につけたレシピの多さ。華美なスイーツだけやのうて、地方でずっと愛され続ける地味なスイーツも学んできたことやと思う。
それを生かせそうな仕事――レストランの料理に合わせた自家製スイーツを出せるとこがええと思て、これから店を開くところでパティシエを募集しているところを探した。
そうしていくつか応募した店の中で、この5月の下旬にオープンする南欧料理の店……羅甸に勤めることになった。
今日は初出勤の日。
店の営業時間はランチタイムの11時半からと聞いてたけど、女子はいろいろと準備が必要やからね。1時間前には到着するようにと思て家を出てきた。
インターフォンの電子音が空しく響く。
「返事あらへんわ……」
インターフォンのボタンを押しても反応があらへん。
確かオーナーはこの2階にある住居部分に住むと言うたはったし、インターフォンを何度か鳴らしたら出てきはると思うんやけど……。
再びインターフォンのボタンを押す。
偶々、トイレに入ったはるとか、シャワーを浴びたはるとかやと出られへんもんね。
少し早く着きすぎたうちが悪いんかな?
再度インターフォンを押してみるけど、やっぱり反応あらへん。
「……どないしよ」
かれこれ10分近くは店の前におるけど、やっぱり早よう来すぎたんやろか?
糸屋格子の間から店の中を覗いてみると、厨房はもう完璧に出来上がってる。さらの厨房機器がピッカピカに輝いたはるのが見えると、なんか興奮してまうわあ。
「田中君、おはよう」
少し離れたところから声を掛けられ、慌てて声の主を確認する。
脂の乗り切った30歳くらいのシュッとした男の人が笑顔でうちのこと見たはる。
「はっ、へっ?」
え、もしかして警備の人? と、びっくりしたけどうちの名字呼んだはったし、ちゃうやろなあ。
うち、こんなシュッとしたいい感じの男の人とか知らへんし……。
男の人の方へ向き直って、眼を凝らしてジッとその男性の顔を見てみる。
顔の大きさが一回り小そおなったはるし、全体に精悍な感じでシュッとしはったけど……。
「オ、オーナー……ですか?」
「いや、なんでそうなる?」
「え、せやかて……えらいシュッとならはったし。あ、おはようございます」
「あ、うん。そんなに変わったのかな?」
2週間くらい前、裏田さんと3人で顔合わせを兼ねた昼食会があったけど、その時は全体にもっとふっくらとしたはった。お腹もぽっこりと出たはったし。
顔の感じもえらい変わったはる。顎の下にお肉つけたはったし、頬も少し丸みがあったかな。
でも、それをそのまま伝えるとか失礼でできひん。
「前に会うたときは、なんていうか……」
いっそのこと「別人みたい」と、言えたらええんやけど、あかんよね。
太ったはるとか、肥えたはるとかいう言葉を伝えずに、いいイメージだけを伝える言葉ってないんやろか。
それにうちはこの街の人間やさかい、変に勘ぐられて思ったことと違う風に捉えられないように言わなあかんよね。
例えば「ふくよかな方やと思ってました」は「えらい肥えたはるけど、見るからに食べすぎちゃうん?」と思っているように感じられるかな。
でも、初対面の時に思ったのは「この人が料理する店なら絶対に料理が美味しいはず」と思た。
美味しい料理って、普段から美味しい料理をいっぱい食べたはる人やから作れるはずやもん。逆に言うと、ガリガリに痩せたはる人が作った料理って、ちゃんと味見とかしたはるんやろかって心配になる。
まあ、あまり長い間考えこんでるのも失礼やし……。
「なんていうか?」
「お、美味しい料理を作る人て感じのイメージでした」
どうやろう……これやったら、太ってるというイメージよりも腕のええ料理人はんって思たように伝わるやろか?
勘ぐられたら「太ったはる」と思たってことはバレると思うけど……「ふくよかな方」と言うた場合に伝わる裏の印象とはえらい違うはず。
オーナーは何か諦めたような……いや、呆れたような顔をしはった。
もしかしたら、裏田さんにも同じようなこと言われはったんやろか?
「まあいいや。ミミル、こちらが田中君だ」
オーナーが誰かを紹介してくれはるみたいやけど……どこにいたはるんやろ?
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。