第297話
タイマーの鳴動を止めると、急いで厨房へと向かう。
低温調理器の良いところは、調理時間が過ぎても一定温度以上にならないので火が通りすぎないところにある。だから慌てる必要がない。
だが、既にミミルは食欲に火が着いてしまっているようで、声を掛けるまでもなく、俺の背後にピタリとついて一階へと下りて来た。
低温調理器の電源を切って鍋からフリーザーパックを取り出すと、フライパンに少量のオリーブオイルを入れて火にかける。
油が馴染んできたらフリーザーパックから取り出した肉の表面を軽く焼いていく。最初にキュリクスの肉は表面を炙ったので軽く焦げ目がつくほどに焼き色がついているのだが、ここで焼くのは香ばしさを出すのと、ソースを作るためだ。
肉の表面が焼けたら取り出して、フリーザーパックに残った肉汁をフライパンに加える。そして、バルサミコ酢と無塩バターを入れて煮詰め、塩で味を調えたら出来上がりだ。
「ミミル、空間収納からパルミジャーノと……ってわからないか。パンとチーズと……あと葉野菜を取り出してくれるかい?」
まな板の上でスライスされていくキュリクスの肉に目をキラキラとさせながら、ミミルは空間収納から取り出したものを並べていく。
手を止めてミミルを見ていると、俺は「パンとチーズ、葉野菜」と言ったのだが、何故か大根や人参が調理台の上へと並んでいく。完全に肉に意識が向かってしまっている感じだ。
「ミミル、チーズと葉野菜だぞ?」
「――!?」
俺の声掛けで漸く気づいたのか、ミミルは慌てて間違って出したものを収納へと戻し、チーズと葉野菜を並べる。
欲しかったのはバケットにパルミジャーノ・レッジャーノチーズと、ルッコラだ。
ミミルの出した食材からその2つを選んで、それ以外のものはミミルに収納してもらった。
薄切りにしたキュリクスのモモ肉は焼き色を付けた表面部分を除き、断面は薄らと淡いピンク色に染まっている。全体に均一に熱が入っている証拠だ。
キュリクス肉をスライスして皿の上に捩じるように盛り付けていくと、立体的なバラの花のような形に仕上がっていく。そこに、バルサミコ酢で作ったソースを回し掛け、洗ったルッコラをざく切りにして散らし、パルミジャーノ・レッジャーノを削りかけて出来上がりだ。
「先ずはキュリクス肉のタリアータ、バルサミコソースの出来上がりだ」
調理台の反対側で乗り出すようにして料理が出来上がるのを覗き込んでいたミミルの前へ皿を差し出した。
とても期待に満ちた目でミミルが俺のことを見上げる。
「食べる、いい?」
「いいけど、いただきますしろよ?」
慌ててナイフとフォークを皿の上に置いて、ミミルは手を合わせる。
「ん。いただきます」
フォークとナイフを使い、キュリクスの肉でルッコラ、パルミジャーノ・レッジャーノを巻くと、ミミルは大きく口を開けそれを迎え入れる。
「んんんーっ!!」
念話で感想を伝えるのを忘れるほど美味いらしい。
肉を口の中に運んでは色気のない悶え声を上げるミミルを横目に、俺は自分の分を皿に盛り付けると椅子を用意して腰かける。
斑なく芯まで均一に火が入った肉は少しくすんだ薄い桃色をしている。その肉を広げ、ミミルと同じようにルッコラと削ったパルミジャーノ・レッジャーノを巻いて口に運ぶ。
ルッコラの鮮烈でゴマのような香りが鼻に抜けると、焦げた肉の芳ばしくも甘い香りが口いっぱいに広がる。
もっちりと軟らかく、噛み締めると肉の旨味をたっぷり含んだ肉汁が溢れ出し、パルミジャーノ・レッジャーノの塩気と旨味がキュリクスの旨味と混ざり合う。赤身肉のイノシン酸、パルミジャーノ・レッジャーノのグルタミン酸が生み出す旨味の相乗効果は、単体で味わう時の約八倍にも膨れ上がる。
低温調理器は軟らかさを保ちながら、キュリクス肉の旨味を最大限に引き出せているように思う。
「んんふぃい!」
何枚まとめて入れたのかは知らないが、両頬をパンパンに膨らませてミミルが味の感想を告げる。
恐らく「おいしい」と言ってくれているのだろう……それくらいはわかる。
もう完全に念話を使うことを忘れているようだ。自然に日本語で話そうとしていることを考慮すると、悪いことではないと思う。
「ああ、本当に美味いな」
「……ん」
こくりと頷き、ミミルはまた目の前の肉へと意識を向ける。
その様子を見ながら立ち上がると、俺はオーブンのスイッチを入れる。
立ち上がった俺の姿が視界に入ったのか、ミミルは不思議そうに俺を見つめ、肉を飲み込んで訊ねる。
「なにつくる?」
「いや、パンを少し焼こうと思ってね。この肉を挟んで食べても美味しいに違いないだろう?」
「ん、間違いない」
ミミルは俺の問いに返すと、また肉をフォークに突き刺して口へと運んでいる。
キュリクスの肉はまだあるので問題ないが、このままだとミミル一人で全部食べてしまいそうだ。そんな事態を防ぐためにも、9時頃に食べる朝食用に軽く焼いたバケットに挟んでしまっておくことにしよう。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。