第296話
ダンジョン第一層の入口部屋で睡眠をとった俺とミミルは、すぐに簡易ベッドなどを収納して地上へと戻った。
低温調理器での調理時間は3時間程度なので、その時間をダンジョン第1層で過ごすとまだ8時間くらいいなければいけなくなる。だが、地上なら1時間半ほど待っていれば、低温調理が完成する。
厨房に移動して低温調理器の様子を見てみると、タイマーは1時間40分ほど経過してた。
調理時間は3時間程度と取扱説明書に記載があったので、あと1時間20分ほど時間を潰さないといけない。
「ミミル、とりあえず起きたばかりだし顔を洗おうか」
「――ん」
普段なら寝る前に歯を磨くのだが、急に低温調理器の試運転となったので歯を磨かずにダンジョンに入っていた。
ダンジョン内では魔素が強いため微細な生物――細菌やウィルスは死滅してしまうので虫歯になる心配はない。だからといって歯を磨かなくてもいいというわけではない。地上で飲み物を飲み、食事をすれば必ず口内にも細菌が入り込んでくる。
厨房の扉を開いて隠し階段から2階へと上がる。ベランダに設置された洗面台で歯を磨き、交代で洗顔を済ませた。
「……行ってくる」
「ああ、うん。部屋にいるよ」
「……ん」
部屋に戻ると、ミミルは俺に声を掛けて縁側の方へと歩いていく。ぐっすりと眠って起きた後、ミミルが行くところは決まっている。
30分近くお籠りになるので、それまでの間に俺の方も思いついたことを幾つかメモに残していく。
ランチは乾麺を予定していたが、近隣の店では生パスタを出しているならうちも考えた方が良い。
ランチに添えるピンチョスに出せそうなもの――トルティージャや牛モモ肉のタリアテッレ、ポルケッタ、田舎風パテ、ポルペッティーノ等々の料理に追加で書き連ねていく。これらは夜のメイン料理になるものや、小皿料理やアンティパストとして出す料理になっていく。
あとは、田中君が出勤してきたらまずフロア側の在庫管理をお願いすることと、いまのスイーツ業界の流行や作れるスイーツのラインナップの確認かな。
考えながらメモを進めていると時間はすぐに過ぎていく。
気が付けばミミルがお手洗いから戻ってきていた。
「まだ?」
「うん。あと一時間くらいだ」
「むぅ……」
低温調理器は時間がかかるのがご不満なのだろう。
そもそも細菌やウィルスがいない世界の肉だから生食しても問題ない肉を、わざわざ低温調理しているのだから時間がかかることに不満が出るのも仕方がない。
頬を膨らませたままミミルはソファーに腰かけ、また平仮名ドリルを取り出した。
チラリと横目で見ると、何度も何度も消して書き直しているのが見てわかる。いま書いている「る」という字も消したあとが5つ以上はある。
平仮名はシンプルなだけにバランスが難しい文字が多いので、納得できる文字が書けるまで何度も練習しているようだ。
「平仮名、書くの楽しいか?」
「……ん」
文具売り場での試筆の際にミミルがルーン文字を書いているところを見たことがあるが、とてもバランスがとれた文字だったと記憶している。恐らく、エルムヘイムでも達筆と言われる文字なんじゃないかな。
何度も書いていれば、少しずつ力の入れどころや抜きどころがわかってきて楽しくなれるのだろう。書いたばかりの文字をミミルは眺めている。
一瞬、頭の中を「書道」という文字が過る。そこまで必要だろうか?
書道は小学校でも習うはずだが、インターナショナルスクールで教わることはないはずだ。
書道教室に通わせる理由付けはそこでできるのだが、近所の小学生と同じ書道教室に通わせるのは少し怖い。
子どもというのは何をするかわからないし、見た目は子どもで中身が大人であるミミルが子どもたちと打ち解けるかというと……非常に難しい。
結果的にそれはミミルにとってストレスでしかない気がする。
それに、自分たちと違って成長しないミミルを見て不思議に思う子どもたちが必ずいるはずだ。
全てのマスに文字を書き込むと、ミミルは消しゴムを使って消し去る。
消しゴムのカスは空間収納に入れているようで、文字が消えたその場でどこかへ消えていく。
ミミルが「ろ」の文字を練習し始めるのを横目でちらりと確認する。最初の頃に書いていたと見える文字の消し跡には慣れない頃の文字なのだろう――少し歪な形をした文字の跡が残っている。
こんなことを口にしたら間違いなくミミルは怒ると思うが、外見は子どもだけど、年齢なりに手足を動かして生きてきているのでミミルの運動神経はかなり発達しているようだ。まだ練習を始めて短い期間しか経っていないが、なかなか上手になっている。
飽くまでも「知」の加護によるものなのかも知れないが、地球の物理学や化学等を身につけるという目標に向け、ミミルも頑張っているということだ。
「俺も頑張らなきゃなあ……」
「……ん?」
ミミルの手元から視線を外して呟くと、不思議そうな顔をしてミミルが見上げてくる。
「何でもないよ」
言ったと同時、調理終了のアラームが鳴り響いた。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。






