第290話
浴槽や浴室を洗い、30分ほどで風呂から出た。
2階にある居室に戻ると、ミミルはいつものように平仮名ドリルを始めていた。
「あがったよ」
「……ん。なやみ話す?」
「そうだな、聞いてくれるか?」
「ん。ミミル、なやみ聞く」
広げていた平仮名ドリルを閉じて、居住まいを正すミミル。
その様子を見て、俺もミミルの方へと座り直して話しかけた。
「店のことなんだけどさ、メニュー――お品書きをどうしようかと悩んでるんだ」
ミミルは目線を俺の方へと向け、黙って俺の話を聞いている。
正直、店の料理について意見を求めたところで、ミミルは料理や店舗経営については素人だ。いい答えは聞けないと思う。だが、ミミルにも理解できるように話をすれば、いろいろと頭の中を整理できる気がする。
「今日、裏田君と一緒に入ったお店、覚えてるよな?」
「ん。覚えてる」
「1軒目の店ではアッサジーニって言う、前菜を自由に選べるメニューがあった。2軒目はハモン・イベリコとハモン・セラーノという生ハムに、シェリー酒という名物があった」
まあ、生ハムは俺の店でも取り扱う予定だし、他の店でも当たり前のように扱っている。とはいえ、イタリア料理店だとやはりプロシュートを扱っている可能性もあるが……。
「3軒目の店は、この街で古くから栽培されている野菜がふんだんに使われていて、4軒目の店はパエリアと50種類の小皿料理――タパスって言うんだが、それが名物と言えるんじゃないかな」
「ん。名物」
今日、挨拶回りをしてきた四軒の店、その全てでミミルは料理に手をつけていた。気に入った料理もあったことだろう。
ただ、それぞれの店で何が名物になっているかはわかっていないと思う。
「名物、だいじ?」
「うん。ミミルは今日行ったお店で、また食べたいものあったかい?」
「……全部?」
真顔で返事されたが――冗談ではなさそうだ。
「しょーへいが同じを作る」
「ああ、同じものを作るのはできるけど、そういう意味じゃないんだよ」
「……?」
ミミルが何も言わず、俺の方を見上げて首をこてんと傾げる。
どうやら俺が同じものを作って食べさせてくれると勘違いしたようだ。
「例えば、イタリア料理の前菜を幾つか摘まみながらワインを楽しみたいと思ったら1軒目の店を選ぶ。これがスペイン料理なら4軒目の店だな」
2軒目もスペイン風の小皿料理――タパスを用意している。ただ、俺の料理の好みとして4軒目なだけだ。
これが生ハムを楽しみたいとなると、2軒目を選ぶだろう。
「お客さんが食べたいと思ったとき、俺の店まで態々食べに来る――それくらいの名物料理が欲しい」
「わかった。でも、ミミル手伝うない」
エルムヘイムでの食生活の話を聞いていると、ミミルに料理のアイデア等はあまり期待できない。
試食用にいろいろと作ったときに残った料理を空間収納に入れ、ダンジョンでの食事で出してくれればありがたいと思っている程度だ。
「お昼ごはんのメニューは考えてあるんだけどね。夜の目玉になるものがないんだ。観光客向けとなると、この街ならではの食材を使えばいいんだけどね」
例えば京野菜に、豆腐や湯葉等を生かすのもいいかも知れない。
ただ、数ある店の中から俺の店を選ぶ理由になるかと言われると、どれも弱い気がする。
だってそうだろう?
例えば京野菜。
主に伝統的なお惣菜に使用される野菜だ。殆どが旬の時期にしか出回らない。米茄子の代わりに牛肉のラグーを塗ってオーブンで焼いた賀茂茄子のグラタンなど出せば病みつきになると思うのだが、夏限定のメニューになってしまう。
夏になれば食べに行きたいと思ってもらえるだけでも名物メニューと言えるだろうが、俺が求めているのは年間を通じて俺の店を選ぶ理由になるような料理だ。
年間を通して出荷されている京野菜など、水菜と九条ネギくらいだろう。もちろん、パスタやピッツァ、アヒージョなんかに使うと思うが、月並みな料理でしかない。
次に、豆腐や湯葉、生麩。
これらは京料理に欠かせない食材と言ってもいいと思う。
だが、既に豆乳と湯葉を使ったホワイトソースやグラタンなどは一般的になっている。もし、そこから名物を生み出すとすれば、大胆で新たな発想の転換が必要だ。
「1年中、その料理を目当てにお客さんが来てくれるような名物にはならないと思うんだよ」
「むずかしい」
「そうなんだよ……」
他に京都で食べられる名物といえば、川魚がある。
川魚で食用といえば、鰻や鮎、鯉などが思い浮かぶが、この街では鮠、泥鰌なども食べられる。
だが、これらの魚を南欧料理に応用して、名物になるかと言われると……そこまでの魅力がない。
いまの日本人は肉好きになっているし、サーモンやマグロ、ブリのような脂がのったわかりやすい味を求める人が殆どだ。
泥臭い鯉や鮠は人気が出ないだろうし、鰻は高すぎる。甘いスイカのような繊細な風味を持つ鮎を南欧風にニンニクの効いた味付けにすると、鮎の良さが死んでしまうだろう。
精々、泥鰌のアヒージョにして出せるくらいじゃないかな。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。