第285話
ミミルの視線の先では、女性の店員がグラスを片手に長い柄杓――ペネンシアを用いてシェリー酒を注いでいた。
シェリー酒はスペインのアンダルシア地方――ヘレス・デ・ラ・フロンテーラの周辺で作られる酒精強化ワイン。複数の収穫年に作られた酒をブレンドして均一の味を保つソレラという熟成方法を用いて作られる特徴がある。
使用されるブドウは白ブドウのみなのだが、仕上がりは黄色から褐色まで様々だ。
なお、ベネンシアを用いてシェリー酒を管理する人、酒を注ぐ人のことを、ベネンシアドールという。正に、いまシェリー酒を注いでいる人のことだ。
「そういえば、祇園さんの近くにシェリー酒を出す店があったよな?」
八坂神社の南門から出て、建物の下にあいた通路を入ると京都の路面電車に用いられていた敷石を使って作られた路地がある。確か、入口近くにそんな店があったはずだ。
「ああ、西村さんはその店から独立しはったんですわ」
「なるほどなあ」
道理でスペイン料理が中心なメニューになるわけだ。
「しょーへい、あれできる?」
「うん、できると思うぞ」
ゲルラの親父のところで最低限の技術として叩き込まれたが、もう何年もペネンシアなんて使っていないので少し自信がない。
でも、シェリーの激甘口――ペドロ・ヒメネスなんかをデザートワインの代わりに出したり、アイスクリームに掛けて出したりすることもあるだろう。店での取り扱いについて、田中君と相談することにしよう。
1杯目のビールを飲み干し、裏田君はシードルへ。俺は辛口のシェリー酒――アモンティリャードを注文した。
シェリー酒を注ぎに来たのは女性の店員。
「あら裏ちゃん、久しぶり!」
「どうもです。あ、西村さんの奥さんですわ」
「初めまして、この近くで羅甸という店を出す高辻と申します」
「あらま、ご丁寧に。店主の妻をさしてもろてます、西村彩て言います」
小柄……といっても自分の背が高いのでどうしてもそう感じてしまうが、150から160cmの中間くらいだろうか。だいたい、平均的な成人女性よりも少し小さいくらいだろう。
目がぱっちりと大きく、かわいらしい感じの女性だ。
言葉の印象からすると、大阪の人だろう。
「えらい可愛らしいお子さんやねえ。高辻さんのお子さん?」
「ええ、そうです」
「せやろなあ……」
彩さんは裏田君の方をちらりと見る。
「な、なんですのん。うっとこのっ子も可愛いですよ」
「何言うてんのん。うちの方が可愛いいに決まってるやん。でも、この子には勝てへんわあ」
ジロジロと見つめられ、また俺の背中に隠れるミミル。
ただ、何故かじとりとした目で、彩さんのことを見つめている。
「すみません、人見知りなもので……」
「ああ、しゃあないね。ドン・ソイロのアモンティリャードです。注ぎますね」
彩さんは徐に左手に持つシェリーグラスをペネンシアと近づけ、少しずつシェリー酒を注ぎながら2つの間隔を広げていく。
その横顔は真剣そのものだ。
グラスの中へはトパーズや琥珀のような色をした液体がゆっくりと溜まり、高いところから注ぐことで空気を含み、花開いたシェリー酒の良い香りが周囲に広がる。
最後はくるりとベネンシアを捻り、零すことなく注ぎ終えたグラスを静かにテーブルの上に置いて差し出す。
「お待たせしました」
「ありがとう」
店も暇ではない。
彩さんはそこでカウンターへと戻っていった。
「挨拶は終わった……かな?」
「ええ、ここはご夫婦でやったはるさかい、あのお二人でええと思います」
「こういう挨拶回りは結構疲れるな……」
「まあ。気い遣いますよって、しゃあないですわ」
人数が多い方が、一緒に来た人たちを待たせているとアピールできるので、余計な詮索をさせる時間もなく過ごせる気がする。
とはいえ、今回はミミルを連れているのでそちらに話が逸れてくれるのでマシな方だろう。
「今日はイタリアンとスペイン料理を回るんだよな?」
「ええ、あと2軒だけですわ」
ハモン・イベリコをピコスに巻いて口へと放り込む。
ねっとりとした赤身部分の舌触りと、チーズにも似た熟成した肉の香り、嚙み締めたピゴスから出る小麦の香りが口の中に広がり、唾液に溶けだした旨味が舌を伝わって脳を刺激する。
「うまいなあ……」
「ん。おいしい」
知らぬ間にミミルは追加で頼んだカタラーナ――スペイン風のブリュレを独り占めだ。
それくらいなら田中君に頼めば間違いなく作ってくれるが、教えると毎日のように強請るような気がする。しかも大量に……。
1時間と少し、ゆったりと時間を過ごした。
店内はガヤガヤと騒がしいが、これくらいの雰囲気の方がバルらしさがあっていい。
マドリードやバルセロナのような大きな街に行けば、立ち飲みバルに数軒立ち寄り、食べ歩いて夕食にする人も多い。「アレを食べるなら、羅甸だよ」と言ってもらえるような強烈な印象を与える料理があれば、その店は長続きする。
実は店を作ると決めたときに考えていたメニューはあるのだが、どうもしっくりとしないところがあったのだが、いまになって気が付いた。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。