第268話
裏田君は数秒間、言葉を失っていたがなんとか気を取り直したようで、改めて俺に訊ねる。
「あ、いや、冗談ですよね?」
裏田君の質問に対し、俺は首を左右に振って答える。
「この商売をしていると帰宅するのが当たり前のように遅くなるだろう?」
「え、ええ……そうですけど」
「俺がこの世界に入ってから2人かな……深夜に帰る途中、バイク事故で亡くなってるんだよ。それを考えると、俺の身にも何があるかわからないだろう?」
「まあ、そうですね。俺も同じですけど……」
俺が南欧に修行に出ている間、調理師学校時代の知人が事故で亡くなった。日本に戻ってホテルに勤めてる間にまた1人。
2人とも若くして自分の店を持ったのだが、とても残念なことになってしまった。
「明日は我が身ってやつだ。何かあったら、店を任せられる人が欲しいって思うのは普通だろう?」
「ま、まあそうですけど……」
「幸いにも、この店は法人化してある。その会社の役員になってもらえば、俺の身に何かあっても裏田君が引き継ぐことができる」
裏田君は真剣な表情で、眉一つ動かすこと無く、まっすぐ俺の目を見ている。
彼にとってはメリットしかない話のようだが、実際はこの店に縛り付けると俺が宣言しているようなものだ。それがデメリットになる。それに、裏田君が思い描いていた「自分の店」とこの店のイメージも大きく違うだろう。
「俺には身寄りがないし、死んで国に巻き上げられるくらいなら、裏田君に引き継いでもらいたい。もちろん、俺が死んでしまったりすれば店を自由にしてもらって構わないよ」
「でも、オーナーが死なへんかったら僕は店を開くことがでけへんということですよね?」
「ま、まあ……そういうことになるな」
あくまでも俺が言ってるのは万が一の場合の話。
一般的な確率論などから言えば、俺が通勤途中に事故死するなんて可能性はまずない。ここの2階に住んでいる以上、バイクで通ったりする必要もないのだから。
「そうだなあ……会社として資金的に余裕ができるくらい儲かったらだが、支店を完全に任せるというのもいい」
「支店……ですか」
「いや、支店というよりも別事業として系列の店を作る感じだな。羅甸とは別に、裏田君が考えるような店を経営する感じだな」
「ううむ……」
子ども2人を育てながら、夫婦で働きつつ開店資金を貯めるという必要がない。
会社の役員なのだから、月額固定の役員報酬は貰えて、自分のやりたい店を事業として始めることができる……かなりいい条件のはずだ。これならほとんど裏田君にはリスクがない。
「なんか、僕にとってメリットばっかりで怖いですわ」
「いや、その代わり2つ……大事な約束をして欲しい」
一瞬で裏田君の表情が怪訝なものへと変わる。
「この店が失敗したら腎臓を1個売るとか?」
「そんな馬鹿な話はないよ。安心してくれていい」
10年分くらいの運転資金はあるので問題ない。まあ、俺の個人資産だが……。
「先ずは、俺が死んだり行方不明になるようなことがあったら、裏田君がこの店を引き継ぐこと。それを約束してくれたら、次の条件を話すよ」
「借金ができたらマグロ漁船に乗って半年くらい帰ってきいひんとかですか?」
「なんでそうなるんだよ。とにかく、この店を引き継いでくれるという約束ができたら話すよ」
店を引き継ぐという約束がない状態でダンジョンとミミルの正しい情報を伝えることはできない。
まあ、出している条件は裏田君にとってメリットしかないはずだ。デメリットといえば、あくまでも俺の店に縛り付けられることくらいだろう。
「僕にとってメリットしかないですし、わかりました――いいですよ。嫁も安定した立場になるなら安心でしょうし……」
「そうか、助かるよ。じゃあ、2階へついてきてくれるかい?」
「わかりました」
裏田くんを引き連れ、2階へと上がる。
おっと、大事なことを伝えるのを忘れていた。
「今から話すことは他言無用。その理由はあとで話すから、とにかく最初は黙って聞いていて欲しい」
俺の雰囲気が変わったからか、裏田君は少し動揺の混じった声で返事をする。
「そ、そんなヤバいことなんですか?」
「普通にしていればヤバくはないんじゃないかなあ」
「え、なんですのん?」
居住部の扉を開き、裏田君を招き入れる。もちろん、部屋に入るために靴は脱いでもらった。
「入るぞ……」
数回ノックをしてから、部屋の中へと声を掛けた。
扉の向こうから小さく「ん」という声が聞こえる。
部屋の扉を開くと、部屋の中央にミミルが立っていた。
朝、朝食を食べに出ていたときと同じ服装だ。
こちらを見ているかと思ったが、俯いてしまっていて美しくも可愛らしい顔は長い銀色の髪で隠れてしまっている。
「ああ、裏田君。ミミルだ」
俺はミミルの方へと歩きながら裏田君へとミミルを紹介する。
そして、静かにミミルの背後に立つと、後ろから顔を持ち上げて裏田君に顔が見えるようにした。
「ミミル、彼が裏田君。挨拶できるな?」
「……ん」
両手を離すと、ミミルはまた俯いたまま動かなくなった。
こりゃ完全に人見知り発動してるな。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。