第267話
裏田君が買い物に出ている間、俺は出来上がった天然酵母を使ってパン生地づくりの準備をすることにした。
店の営業はまだ先なので、今からパンを焼く意味というのは二つ。
1つはこの店でつくる天然酵母の癖、特徴を確認すること。もう1つは、まだ新しいオーブンを使うのでその癖を知ることだ。
さて、パン生地づくりにはいくつかの方法があるが、大きくストレート法と発酵種法の2つに分けられる。
ストレート法は単純に酵母と共に材料を一気に混ぜ、発酵、焼成する方法。
一般的なホームベーカリーなどはこの方法を採用しているが、小麦の風味が立つのが特徴といえる。バケットやフォカッチャはこの製法で作るのが本来の作り方だ。
発酵種法は基本的に確りと発酵されているので味に深みがでること、フワリと柔らかく焼き上がる特徴がある。
細かく言えば中種法、ポーリッシュ法、老麺法などがある。
中種法、ポーリッシュ法は実際に作るパンの材料から種を作る方法。ポーリッシュ法はドロドロの液体なのに対し、中種法は纏まった生地の塊のようになる。
一方、老麺法は生地を作って一次発酵させたものをストレート法の酵母の代わりに使用する方法。中国で考え出されたので老麺法と呼ばれているが、フランスではパート・フェルメンテ法として知られている。現在、フランスでもバケットを作る際は多くの店でパート・フェルメンテ法が使われている。
ストレート法と比べ、発酵種を使うと品質が安定するという特徴、出来上がったパンの老化が遅く、酸味が加わって味が複雑になるという特徴がある。
そこで、うちの店でも老麺法を使って作る。
今回の生地は、フォカッチャ用の生地だ。
フォカッチャ用に麺打ち台の上に、強力粉、薄力粉をブレンドしてて広げ、そこにグラニュー糖、塩を加えて混ぜ合わせる。
中央にくぼみを作ってそこに酵母液、水、オリーブオイルを入れて混ぜ合わせていく。
そして、纏まってきたら暫く捏ね、ボウルに入れてそのままラップをして冷蔵庫へ入れ、そのまま低温発酵させる。
この作業に15分ほど掛けたのだが、裏田君はまだ帰ってこない。遅くとも30分もすれば帰ってくるだろう。
生地の準備をしておきたいものがあと二種類ある。
1つはロゼッタ。バラの花の形をしたパンだ。270℃という高温で一気に焼き上げるため中が空洞になる特徴がある。材料は小麦粉、酵母、水と塩。それに発酵を促すために麦芽を少々加えてやる。
もう1つはバケット。パン・コン・トマテやボカディージョに使うので慣れておきたい。特にボカディージョはうちの店のランチで出したいと思っているからな。材料は小麦粉、酵母、水と塩だ。
ちなみに、スペインで人気のあるパンはチャパタ。サンダルのような四角くて平たいパンなのでそういう名前がついた。加水率が高いパンなので、ストレート法で作ることになる。グリッシーニなども同様だ。
「とりあえずこんなところか……」
ロゼッタ用の老麺を仕込み、バケット用の老麺に取り掛かったところで裏田君が帰ってきた。
手に持っているのはスーパーのナイロン袋。顔を出しているのはスパゲティの乾麺だろう。底の方に生卵が2パックほど入っているのが透けて見える。
「おう、おかえり。遅かったな」
「このあたり、スーパーあらしまへんから……」
「なるほどな。河原町まで行ってきた感じかい?」
「ええ、そうですわ」
商店街を通って河原町まで出るとなると、人混みが邪魔でなかなか進まない。特に背が高い裏田君には歩き難い場所だろうと思う。
「パン生地ですか?」
「そうそう。本格的な粉じゃないけど、少し練習しておかないと上手くいかないだろう?」
「そうですねえ。手伝うことあります?」
とりあえずパンの準備はこれくらいでいい。
あくまでもこの店で作った天然酵母を使ったパン作り。そして、新しいオーブンの使い勝手の確認に使うための生地でしかない。
「いや、今日はいいよ。とりあえず昼飯を任せてもいいかな?」
「あ、そやった……適当に買うてきたんはええけど、カチョ・エ・ペペとサラダでいいです?」
お釣りと領収書を調理台の上に置きながら、裏田君は俺に確認する。
料理の内容は問題がないんだが、よく考えるとミミルの分が必要だよな。
「うん、問題ない。だが、そうだな……4人分作るくらいでいいかな?」
「そ、それはかましまへんけど、誰がそんなに食べはりますのん?」
話の流れからして、このタイミングで裏田君に話す方がいい気がする。
誤魔化したところで、ミミルを呼ぶなりして食べさせることになるんだから一緒だろう。
「うん。その前に裏田君に確認したいことがあるんだ」
「え、なんです?」
急に真剣な表情になって俺が話しだしたものだから、裏田君も表情を引き締めて俺の方へと向き直った。
俺も居住まいを正し、裏田君へと話しかける。
「もし万が一……俺の身に何かあったら、この店を引き継いでもらえないか?」
「――え、ええっ?」
俺から出た慮外の言葉に、裏田君は目を大きく見開いて驚いてみせた。
この物語はフィクションであり、実在の人物・地名・団体等とは一切関係ありません。