第168話
〈 〉はミミルのエルムヘイム共通語での会話を表しています。
焚き火台の上にセットした網の上で焼けるよう、スライスしたルーヨの背ロース肉に塩胡椒とナツメグ、キュメンを振って焼き始める。
背ロースは脂身が少なく、筋もないとても柔らかな部位だ。
振りかけたキュメンのカレーのような匂いが漂い、否が応でも食欲が刺激される。
焼き上がったルーヨの肉を盛り付けた皿をミミルに差し出すと、鼻を近づけては深呼吸するように香りを楽しんでいる。その皿から立ち上る魅惑的な香りが気に入ったのだろう。
〈なんだこの香りは……〉
〈それがキュメンの香りだよ〉
〈これは実に食欲を唆るいい香りだな〉
クミンといえばカレーの香り成分の半分を占めると言われるほど、カレーには欠かせないスパイス。
匂いが強い鹿肉にクミンは相性がいいから、鹿肉っぽいルーヨの肉にはクミンによく似たキュメンが合うと思ったんだ。
ミミルは同じセリ科のパクチーの匂いが苦手のようだったので少し心配したが、この様子なら大丈夫だろう。
俺も味見がてらに一切れだけ摘んで口へと運んでみる。
カレーに似た香りがふわりと鼻先で広がる。少し蠱惑的な香りがするのはナツメグだ。塩胡椒と共に振っておいたのがいい仕事をしている。
柔らかい背ロースの肉を前歯で噛み千切り、舌で絡めるように口の奥に運んで噛み締めると、鹿肉の旨味がギュッと溢れ出す。
薄めに切った肉をさっと焼いただけなので心配していた匂いが広がることはなく、炙られたキュメンの香りが広がり、辛味が舌を刺激する。仄かに甘い香りが漂うのはナツメグ――その苦味が味に深みを加えている。
〈しょーへい、柔らかくて、いい香りがする。美味い!〉
とても幸せそうな笑顔をみせ、ミミルが焼けたルーヨの肉を頬張る。
2回、3回と顎を動かすと目を瞑って鼻から口の中の息を抜き、うっとりとした表情をする。
〈そうだな、うまい肉だ〉
『いや、そうじゃなくてだな……』
ミミルは口の中をルーヨの肉でいっぱいにし、呆れたような目で俺を見ながら念話を飛ばしてくる。
『しょーへいの腕前がいいからだと思うぞ?』
〈地上に戻れば俺と同じくらいできる料理人は掃いて捨てるほどいるさ〉
掃いて捨てるほどというのは言い過ぎかも知れないが、調理師免許を持っているというだけでも約400万人――京都府と滋賀県の人口を合計したくらいの数はいることになる。
調理師免許を持っている人なら切ったルーヨの肉に塩胡椒とキュメン、ナツメグを振って網で焼くくらいできるはずだ。
ミミルがキュメンやセレーリなどを草と呼び、パクチーに似た草はゴミとまで言うくらいだから、料理に香り付けしたりするような文化がエルムヘイムにはないのかも知れないが……。
〈確かにしょーへいの店を出て外で食べる食事も……〉
〈だろう?〉
〈いや、確かに他の店も美味いが、しょーへいが作る方が美味いような気がする〉
〈気のせいじゃないか?〉
〈むぅ……〉
まだトンカツやミートローフはミミルに作っていないから、本当に気のせいだと思う。
それに、俺にはカツレツは作れるがとんかつは作れない。
基本は同じなんだろうが、つい慣れたカツレツの作り方になってしまうんだ。
さて、ルーヨの肉の感じは一切れ食べて理解した。
焼いた肉の残りはミミルに任せ、夕食の調理を再開しよう。
料理の順番からいけば、最初にアンティパストとしてサラダ、次にプリモピアットとしてのニジナマスの料理、最後にセコンドピアットのルーヨの肉を使った料理となる。
だが、それでは手間のことを考えると上手くいかない。
今回はセコンドピアットが特に時間がかかるので、逆から作ることにする。
先ずはソフリットづくりだ。
最初にセレーリ、ギュルロ、タマネギをみじん切りにしフライパンで炒めていく。
ギュルロは最初は紫色をしていたのだが、火が入ると綺麗なオレンジ色へと変わった。紫アスパラガスと同じ、アントシアニンが入っているということなんだろう。
しばらく炒め続け、全体にきつね色に焼き上がればソフリットの出来上がりだ。
ソフリットづくりと並行して鍋の中に叩いて潰したニンニク、オリーブオイルを入れ、これも焚き火台の上にある網の上に載せる。遠火でゆっくりと鍋を温めてニンニクを焦がさずに火を入れるためだ。
そして、鍋からニンニクの良い香りが立ってきたら簡易コンロへと移し、そこに切って塩胡椒したルーヨの外モモ肉を入れて表面に焦げ目がつくくらいの焼き色を付ける。
その匂いに釣られたのか、ミミルが鍋の向こう側にやって来て中を覗き込む。
〈匂いといい、その焼け具合といい美味そうだ〉
〈ミミル、そこは危ない。少し離れてくれ〉
〈ん、ああ……〉
料理するところを見るのが楽しいと思うのはいいが、本当に危ないんだ。
ミミルが残念そうに声を上げながら一歩、ニ歩と下がるのを確認し、赤ワインを一気に注ぐ。
まるで焼けた石を入れたようにボコボコと鍋底でワインが沸騰すると、一気に湯気が立ち上り、ワインの芳醇な香りが広がった。