第123話
ダンジョンに戻って簡易ベッドで7時間眠り、その後ミミルと交代で風呂に入った。
もちろん、ミミルは長風呂だ。1時間近く風呂場に籠もっておられた。俺としてはその間にトイレなども済ませられるし、日課となっているハーブやパン酵母の面倒を見る時間を取れた。
特に気になっていたのはバジルだ。丁度いい高さに育っていたので摘芯しておいた。こうすることで、バジルは上に伸びなくなり、側芽が育つようになってたくさん収穫できるようになる。
あとは7月半ばになって切り戻し――葉を大量に収穫することで花が咲くのを遅らせ、更に収穫量を増やすことができるんだ。
摘芯で摘んだ葉は冷蔵庫に仕舞っておいた。結構な量が採れているのでペスト・ジェノベーゼでも作ることにしよう。
風呂を済ませると、ミミルはワンピースを着てちょこんと座り、居室のストリーミングデバイスを使ってアニメ番組を観ていた。俺よりも先に風呂に入っていたはずだが、まだ身体が暖かいのだろう。モニターを真剣に見ている横顔は、頬がほんのりと紅く色づいていて、とても可愛らしい。
散歩がてら朝食を外で食べる旨は伝えてあるので、ミミルは既にコンタクトを入れているようだ。
俺もひと通り準備はできているので、ミミルに声掛けして外出することにしよう。
一応、9時までには家に戻るようにしておかなければいけないが、今から二時間半くらいはのんびりと過ごせるのがいいな。
〈ミミル、そろそろ出かけるぞ〉
〈ん――〉
返事をするや否や、ミミルは立ち上がった。
◇◆◇
北と東西を山に囲まれたこの地は、朝が少し遅い。
俺の店があるのは街全体からすると東寄りなので日差しが入ってくるのが更に遅いのだが、この時期なら6時にもなれば充分明るい。
ミミルと一緒に店を出ると、朝の静謐な空気が街を包んでいる。
玄関先を掃き清める昔ながらの光景というのは殆ど見かけることはないが、街を散歩する地元のお年寄りは何人もいらっしゃるようだ。
「おはよーさん」
「あ、おはようございます」
近所に住んでいるお婆さんだ。
疲れた時に腰かけられるような形状をした手押し車――シルバーカートを止め、こちらをじろりと見つめている。
「えらい可愛らしいお嬢はんやねぇ。あんたはんとこのお子はん?」
「ええ、まあそうです」
お婆さんの人を値踏みするかのような鋭い視線にミミルは怯み、俺の背中に隠れるように移動する。
「まあ、そないに怖がらへんとぉくれやす。取って食べたりするようなことはあらしまへんえ」
「すみません、人見知りする子なので。それに日本語もまだこれからなんですよ」
素性云々は抜きにして、まだ知らない人と接するのはミミルには厳しい。コンタクトを買いに行ったときでも店員に慣れるまで時間がかかったからな。
それに、このお婆さんの眼光はなかなか鋭いので逃げたくなるのも仕方がない。
「そら仕方があらへんね。それでここは何しはるん?」
「スペイン料理、イタリア料理のお店をすることになってます」
「えらいハイカラなお店しはるんやねぇ。是非、寄らせてもらいますよって、よろしゅうね」
「ええ、こちらこそよろしくおねがいします」
俺自身、この街の生まれだが長年ここで暮らしている人たちと話をするときは恐ろしく緊張する。
どこまでが普通の会話で、どこから本音を隠して話しているかわからないからな。
海外生活が5年近く、首都圏のホテルで働いていた期間も長いので勘も鈍っていると思う。
「いまからどちらへ?」
「昼間はもう暑いあついさかい、こんな時間に散歩してますねん。ほなさいなら」
「そうですね。お気をつけて――」
手を振って送り出すと、どっと疲れが押し寄せてくる。
基本的にこの街に長く住む人は閉鎖的な人が多い。流行のものを扱う店ができても、10年経ってはじめて足を運んでもらえるようになると言われている。その証拠に駅前にある関東系のデパートは地元の人達が足を運ぶことが少ない。
最近はそんなことはないと言われているが、それはあくまでも違う土地から仕事なり学業なりで移り住んできた人たちが増えた結果でしかない。
〈しょーへい、老けた〉
〈これくらいで老けるかよ〉
俺を壁にしてお婆さんの視線から逃れていたくせに、失礼なことを言うやつだ。
気を取り直して市場の方へと足を向ける。
この時間帯、まだ店は営業が始まっていないが準備に忙しいことだろう。今後、生鮮品――特に魚介類はこの市場に世話になることだし、朝から様子を見ておくのも悪くない。
数分歩いて市場の入口へと到着する。
昼間なら牡蠣などを焼く匂いが充満しているこの辺りも今は殆ど匂いがしない。昼間は食べながら歩けるように考えた料理などを出す店が増えて美味そうな香りが漂うこの通りも、この時間だととても静かだ。
〈知りたいものがあったら、指さして訊ねるんだぞ〉
〈この屋根はなんだ?〉
〈違うだろ〉
ちょっと眉を寄せてミミルの目を見ると、ミミルは気の抜けた顔をしてみせて指をさして訊ねる。
「あれ、なに?」
ちゃんと町家暮らしらしさを出していく方向で、ご近所付き合いなんかも要素に入ってきます。
あるお店の接客係はしばらく若い女性がお二人だったのですが、年配の方に変わった途端、店の雰囲気が変わりました。
それくらい、古くから住んでおられる方たちは迫力があるんですよ……。