第119話
オレンジ色の瓦が敷き詰められた屋根。その下には漆喰で塗り固められた真っ白な壁が並ぶ。様々な色をした小石を敷き詰めて描かれたモザイク柄が続く美しい石段を下っていると、俺の隣に女性――マリアが歩いている。
8世紀の初頭、この地に移り住んできたムーア人が急で曲がりくねった迷路のような道を作ったせいで、道は狭く石段が続いている。
“¿No es hermosa?”(きれいでしょう?)
“Si. Quiero vivir.”(ああ、住んでみたいねぇ)
ここは、マリアに連れられてやってきたフリヒリアナの街。
同じ店で働くマリアとは付き合い始めて半年。休みの日にはこうして2人でドライブに来ている。
狭い道を2人並んで歩いていると、他の人とすれ違うのもなかなか厳しい。いまも買い物袋を抱えた老婆とすれ違うときにマリアが軽く荷物に接触し、紙袋からオレンジがぽてん、ぽてんと落ちた。
オレンジは坂道を加速しながら転がっていく。
“¡Perdóneme!”(ごめんなさいっ!)
お年寄りに声を掛け、マリアが転がっていくオレンジを追いかけ、走り出した。
“¡Oye María, Ten cuidado!”(おいマリア、気をつけろよ!)
“¡Todo bien!”(大丈夫よ)
下り坂を走り、オレンジを追いかけるマリアに声を掛けたのだが、緩やかな坂道とはいえすぐには止まれない。
遅れて買い物袋からぽろりと落ちたオレンジを右手で捕獲し、老婆に声を掛ける。
“Volveré pronto. Espera aquí.”(すぐに戻るので、待っててください)
慌ててマリアを追いかけるのだが、オレンジはかなりの速度になって転がっている。
オレンジを追いかけるマリアの足も限界だ。下り坂を駆け下りるのは膝への負担も大きい。
10mほど先で転倒するマリアの姿が目に入った。
「――マリア!!」
◇◆◇
叫んだ自分の声で目が覚めた。
心臓が早鐘を打つかのように忙しなく、激しく鼓動しているのが自分でも判る。
大きく息を吸い込んでは吐く――それを数回繰り返して自分を落ち着かせる。
それにしても、スペイン語の夢を見るなんて、何年ぶりだろうか。
あれから十数年……そうだ、アンダルシアにいたのは13年前からの1年と半年。この事故があって、マリアと俺の距離が急激に開いていった。
実は、このときマリアのお腹には俺の子どもがいたんだ。
月のものが止まっていて、もしかすると……と確信に近い疑いをマリアが抱いていた頃のことだった。
あのとき、マリアではなくて俺が先に走り出していれば……なんて今更考えても仕方がないか……。
ふと隣を見ると、簡易ベッドに横たわり、静かに寝息を立てているミミルがいる。
実年齢が128歳であろうが、子どもっぽいところがいっぱいあって可愛らしい女の子にしか見えない。
――あのときの子が生まれていたらミミルと同じくらいかな。
あんな夢を見たのは、寝る前に「子をつくる」なんてことを話していたからだろうか。
それとも、虫の知らせというやつだろうか……。
だが、いまとなっては13年近く前のこと。
当時の職場仲間も連絡先は聞いているが、現在も連絡がつくかはわからない。
でもまぁ……
「たまには連絡してみるかな」
スペインとの時差は8時間。日本が午前1時なら、あちらは1日前の17時ということになる。電話をかけるにはいい時間帯だ。
立ち上がって小さく伸びをすると、ミミルを起こさないよう、音を立てずに転移石を触って地上に戻る。
ポケットのスマホを確認しながら厨房へと向かうと、途中で近くの基地局へとリンクがとれたのか、時間が修正された。
「2時ね……」
日本の2時は、スペインだと前日の18時。これからが一番忙しい時間帯だ。
さすがに取り留めのないことを話すために電話をかける時間帯ではないよな。またあとで電話することにしよう。
スペインのアンダルシア地方、世界遺産アルハンブラ宮殿があるグラナダの街で俺は修行をしていた。
店の名はRestaurante Guerra、Guerra (ゲルラ)というのは店主の苗字だ。とてもシンプルなグラナダ料理を出す。
いつもそこの賄いで出てきた料理がある。
貧乏な俺にぴったりな料理――Patatas a lo pobre (パタタ・ア・ロ・ポブレ)。
〝貧乏人の芋〟という意味の名を持つこの料理は材料や調理もシンプルなのだが、とても美味い。
せっかくアンダルシア時代のことを思い出したんだ。目覚めたら間違いなく腹が減ったと騒ぐうちのお姫様のために、ちゃっちゃと作っておくことにしよう。
乾いた俎の上にジャガイモとタマネギ、ピーマン、ニンニクをごろりと並べる。
皮を向いたジャガイモは5mm程度にスライス。食べやすい大きさに切っておく。タマネギは薄切り、ニンニクは叩いて潰す。
ボウルにジャガイモ、タマネギ、ニンニクを入れたらオリーブオイルを満遍なく塗し、冊切りにしたピーマンと共にフライパンに移してで炒めていくだけだ。