第108話
〈 〉 内はミミルの母国語を表しています。
俺がひと言だけ言葉を発したので、またミミルが俺の方へと視線を向けた。
〈エルムがどうかしたのか?〉
〈エルムへイムというのは街の名前なのか?〉
この流れで確認してしまった方がいいな。少なくとも、これでパズルのピースが1つ嵌るはずだ。
〈いや、私がいた――しょーへいから見ると異世界にあたる星そのものだな。チキュウに該当するものだと思えばいい〉
〈なるほど、ありがとう〉
〈何を考えているのか知らんが、冷めてしまうぞ〉
〈そ、そうだな。でも、キュリクスの肉で腹がいっぱいなんだ〉
牛にしろ、豚にしろ、肉を焼くとそれなりに縮んで小さくなるが、キュリクスの肉はほぼ縮まないのだ。俺の分は厚さ1cm程度に切ったので合計400gあるかないか……といったところだったが、結構腹に溜まる。
ミミルは2cmの厚みで2枚焼いているから、1Kg近くあるはずなのにもう残っていない。この小さい身体のどこに入ってくのだろう……もしかして、胃袋も空間収納みたいになっているんだろうか?
〈残すのなら、空間収納に仕舞っておくが――いいか?〉
〈ああ、お願いするよ。腹が膨れて動けない……〉
〈そうだな、私もだ〉
このあとダンジョンに戻る予定だったはずだが、この腹具合ではふたりとも動くことも儘ならない。
立ったまま食べていたので、本当は動くことにはまったく不都合がないのだが、どうにも動きたくないのだが……料理人としてはどうしても「後片付け」があるので動かないわけにもいかない。
食べ終えた皿とフライパンなどを手早く洗っていく。
店で営業するときに使う皿はまだ届いていないので、この皿やカトラリーはすべて俺、個人の所有物だ。ピカピカに磨き上げる必要などないのだが……習慣というのは恐ろしいもので、つい丁寧に洗い上げてしまう。
だが、それ以上に丁寧に洗うのは調理器具だ。
――商売道具を大切にしない人間は成功しない
修行先で必ず言われたことだ。
だからフライパンや鍋は丁寧に磨き上げる。
〈熱心なことだな〉
〈ああ、商売道具だからな……〉
〈ふむ……〉
ミミルは俺が調理器具を手入れするのを見て、時間を潰している。ミミルがいたエルムへイムというところと、地球では恐らく調理器具などにも違いがあるだろうし、興味深いのだろう。
フライパン、グリルパンを磨き上げたあとは、包丁を研ぐ。
水に漬けておいた砥石をお手製の砥ぎ台の上に載せると、キュリクスの肉を切った牛刀、ペティナイフの順で研いでいく。
〈何をしている?〉
〈包丁を研いでいるんだよ。刃先を常にいい状態に保つための――日課だな〉
包丁研ぎは、3種類の砥石を用いて行う。最初は荒砥石で刃こぼれが無くなるまで削るように研ぎ、中砥石で形を整え、刃を付ける。最後は仕上砥石――中砥石でできる細かい傷を取り去り、刃をより滑らかにするとともに、美しい光沢をつけることができる。
日々の調理ではすぐに切れなくなるので、中砥石を使って刃先の形を整える作業も必要になるが、今日の調理程度であれば仕上げ砥石だけで充分だ。
砥石をズレないように板の上に固定し、刃角は15°、包丁は砥石に対して45°になるようにして、押して研ぐ。
――包丁を研ぐところを映像などで見た人は、包丁を前後に動かして研ぐというイメージがあるかもしれないが、押すときだけ力を入れるのが正しい。
包丁の刃が砥石に擦れる音が小気味好いリズムを刻み、それを興味深そうにミミルが見つめている。
泥だらけになった包丁を水で洗い流すと、鏡面のように輝く刃が現れる。
〈きれいだろう?〉
磨き上げたばかりの牛刀をみせると、ミミルは「オーッ」と感嘆の声を上げて、数回頷いてみせる。
ミミルから貰った二双のナイフは赤銅色の刀身をしていて、刃は白銀色をしている。もちろん、磨き上げられてとても美しい姿をしているのだが、工芸品に近い美しさだ。
だが、包丁は刃面だけが鈍色の鏡のように磨き上げられる実用品という違いがある。その良さもミミルは理解してくれているようだ。
コンロまわりの汚れを拭き取り、火をつけて、刃面をさっと炙り、包丁を仕舞う。
時計を見ると、地上に戻ってから1時間半ほど経過してしまっている。調理そのものは40分も掛かっていないのだが、食べるのと後片付けに同じくらいの時間が掛かってしまった。
〈片付け終了っと……このあとはどうする? 俺はダンジョンに戻るつもりだけど――〉
〈そうだな、私も戻るとしよう〉
〈ダンジョンでミミルがいた世界の話を聞かせてくれ〉
〈それは構わんが……〉
ミミルの顔を見ると、どこか不満げに見える。
〈なにかやりたいことがあるのか?〉
〈いや、簡単なことだ。しょーへいに第2層の攻略を進めてほしい〉
地球の1時間は、ダンジョン第2層の10時間に相当する。
それだけ時間をたっぷり使えるというのに、第2層を攻略する意味というのはあるのだろうか。
ミミルは簡単に説明するつもりだろうが、裏になにか考えがあるように思えて仕方がない。
〈ああ、問題ない〉
短く返事を済ませると、ダンジョンに戻ってからミミルの考えを探ることにした…。