第107話
〈 〉 内はミミルの母国語を表しています。
牛のヒレ肉は最も運動することが少ない部位だけに、木目細かくて柔らかい。サーロインよりも更に脂肪が少ないのだが、赤身の旨味がぎっしりと詰まっている。
キュリクスという魔物は角を含め、地球のオリックスという動物に似ている。オリックスはアフリカに住むウシ科の草食動物だ。ダンジョン各層はどこかの星にある生態系を真似て作られているとミミルが言っていたので、地球の生物と似たような進化をしている星があるのだろう。
そして、このキュリクスのヒレ肉も実に美味い。
サーロインを食べて驚いたが、ヒレ肉も極上の味がする。筋繊維が細く柔らかいので、口の中でふわりと解れ、その隙間から濃厚な赤身肉の旨味がじわりと溢れ出してくる。
〈肉の焼き加減が絶妙だ。さすがしょーへいだ〉
〈これくらい普通だろうに……〉
〈いや、エルムヘイムでは料理が雑なのだ。残念だが、これほど丁寧に焼き上げる者などおらん〉
〈ふぅん……〉
気のないような返事になったのは、ミミルの話に出てきた〝エルムヘイム〟という言葉に興味を持ったからだ。
ミミルがこの家にやってきた日、彼女がいた世界のことをいくらか教えてもらっているが、そのときはカタコトでしか話ができない状況だった。それから数日が経過しているが、今でも説明された内容を充分に理解できているとは思えないし、改めてミミルがいた世界のことを聞いてみるもの悪くはない気がする。
口の中に残っていたヒレ肉をごくりと飲み込むと、箸休めがわりにほうれん草のアーリオ・オーリオにフォークを刺して食べる。
ニンニクの旨味が溶け出したオリーブオイルで炒めたほうれん草の甘みを、塩が引き立てている。ねっとりと柔らかい葉、シャクシャクとした食感が残る茎……真冬のほうれん草ならもっと美味いが、これでも充分だ。
〈むはぁ……〉
ミミルの声が厨房に響く。
何事かと見遣ると恍惚とした表情でフォークを片手に突っ立っているミミルがいた。
どうやら肉汁が絡んだマッシュポテトを食べたようだ。
俺も思ったが、極上の肉汁が染み込んだマッシュポテトは格別だ。
〈なあ、ミミル。こうして不自由なく話ができるようになったんだから、またミミルがいた世界の話を聞くことはできるかい?〉
〈――ッ! な、なんだ?〉
〈もう一度、ミミルがいた世界の話を聞きたいと言ったんだ〉
どうやらミミルは肉汁まみれのマッシュポテトの味に意識を持っていかれていたようだ。少し慌てて返事をしてきた。
マッシュポテトのような料理を食べたことがないのだろうか?
じゃがいものような食材もミミルのいた世界にはあるだろうとは思うのだが、そのあたりも確認したいところだな。
〈あ、ああ……うん。そうだな、問題ない〉
〈じゃあ、またよろしく頼むよ〉
俺の方を見て首を傾げるミミルからは、「話は終わりか?」と無言で問いかけられたような気がする。また食事に集中したいのだろう。
特に返事をすることもないと思うので、スマホを取り出してネットで「エルフ」を検索してみる。
北欧神話や国によって伝わっている伝承、ファンタジー小説などの影響もあって錯綜してしまっているのだが……。
“エルフはゲルマン神話に起源を持ち、自然と豊かさを司る少神族。とても若い容姿を持ちながら不死又は長命であり、魔法を操るとされる。
英語ではエルフと呼ばれるが、古代ノルド語ではアールヴと呼ばれていた。
また、エルフはフレイというヴァン神族の男が治めるアールヴヘイム――アールヴの故郷と呼ばれる場所に暮らしていた……”
簡単にまとめると概ねこんな感じだろうか。
「アールヴヘイムかぁ……」
ぽつりと呟くと、ミミルが俺の方へと視線を向ける。
何と言ったのか聞き取れなかったのだろう。特にミミルのいた世界の言葉にしていないので解らないのは当然だろう。
〈何でもない。気にしないでくれ〉
〈ふむ、ただの感嘆符か――〉
〈いや、そうじゃないが……忘れてくれ〉
考えがまとまっていない段階で話すことでもないと思うので、ミミルには聞き流してもらったほうがいい。
ミミルは何もなかったかのように料理へと集中していく。
1kgほどあった肉は粗方食べてしまったようで、いまはリゾットに夢中だ。
さて、アールヴヘイム――アルフヘイムと言うこともあるらしい――の綴りを確認すると、〝Alfheim〟となる。語尾の〝heim〟は確かドイツ語では〝ハイム〟――家という意味があったはずだ。〝○○○○ハイム〟という名前をつけた住宅建築業者もあるので間違いない。
この、アールヴヘイムという響きが、なんとなくミミルが言った、〝エルムヘイム〟という言葉に似ている気がするんだ。
そして、ミミルがいた世界の言葉を話せるようになり、漸く俺にも理解できることがある。
ミミルが現れた日、ミミルがエルフなのかと訊いたときに帰ってきた返事の念話だ。
――『わたし、いせかい〝にんげん〟……』
「エルム……」
声に出して確認する。
つまり、ミミルがいた世界では自分たちのことをエルムと呼んでいるということだ。