第87話
〈 〉 内はミミルの母国語を表しています。
ミミルに今日の予定を説明した俺は、エスプレッソマシンの設置作業が進む客席側に戻っていた。
既にエスプレッソマシンは予定の場所に設置されていて、水道の配管工事も終わっている。このマシンを置くために排水溝や水道管まで工事しているので、さすがに早い。
あとは各種の動作確認だけという状態だ。
既にセット購入したグラインダーも隣に設置されていて、いつでも使用可能といえる。
残念なのは豆が届いていないのと、食器もまだ来ていないことだろう。他の道具――ピッチャーやタンパー等だけが揃っている。
とはいえ、豆は買ってくればいいし、2階の自室収納庫には箱に入ったままの引っ越し荷物が置いてある。
新型のエスプレッソマシンというのもあって、試してみたくて仕方がなく、うずうずとする自分がいるのだが仕方がない。ピザ生地を寝かせて30分が経とうとしているので、そちらの作業に戻ることにする。
厨房へと戻ると、ピザ生地は発酵が始まったばかりの状態だ。
ボウルから取り出して棒状に伸ばし、端から切って業務用スケールで130gになるよう、重さを量っては丸めて並べる。
今回の分量では3つの生地玉ができたので、また空気が入るように練り混ぜ、丸めていく。
最後にまた濡れた布巾を上から掛けると、本格的な一次発酵に入る。このまま6~8時間発酵させる。
買い物が終わる頃には丁度いい時間のはずだ。
見るからに表面がつるりとした生地玉をトレイに並べていると、背が高い方のピザ窯職人から声が掛かる。
「焼いてみはりますか?」
「いや、発酵時間が足りないからね。昨夜のうちに用意しておけばよかったね。申し訳ない……」
「いえいえ、他の準備もえらい大変そうでっさかい、気にせんとってくださいな」
自分が作った窯で焼いたピッツアを食べてみたい――そう思うのはごく自然なことだと思う。こんなことなら昨夜、パスタを打つ序にピザ生地も打っておけばよかった。
まあ、後悔先に立たずだな。
窯の様子の方を見遣ると、薪を焚べて窯の温度を上げているところだ。ピッツアを焼く時は450℃くらいまで内部温度が上がるので、今回は500℃くらいにまで上げるのだろう。
厨房内はすごいことになっている。
暑い、とにかく暑いのだ。
この時期、夏日とまではいかないが、外気はそれに近い温度にまで上がってくる。もちろん厨房の換気扇も動かしているが、このままだと室温は軽く40℃を超えて、サウナのような状態になりそうだ。
ピザ釜職人の二人はもう汗びっしょりだ。
「これじゃぁ、こいつらにも影響が出てそうだな……」
天然酵母や丸めたばかりのピザ生地も、室温が上がりすぎると発酵が進みすぎたり、逆に酵母が死んでしまったり――悪い影響が出てしまうだろう。
俺は厨房を出て、レジカウンターの背後に設置してあるエアコンのスイッチを入れる。ここで1階全体の空調をコントロールできるようになっている。厨房の換気扇が回っているので、風は客席から厨房に向かって流れる。だから、客室のエアコンも作動させて素早く厨房を冷やすことができるようにする。
それにしても、これだけ暑くても俺はほとんど汗をかいていない。厨房内の温度を考えると、この職人さん達と同じくらい汗をかくはずだ。もしかすると、これもダンジョンの影響なんだろうか。あとでミミルに確認することにしよう。
ピザ生地作りもひと段落したので、俺はまたエスプレッソマシンの設置場所へと移動する。
ちょうどいいタイミングだったようで、引渡しへと雪崩れ込んだ。製品の部位の説明や使い方など、同時進行で動作確認が進められる。特に時間がかかっていたカップヒーターも正常に動作していることを確認し、納品書にサインをする。
3人ほど来ていた業者の男たちは、梱包材などを綺麗に片付けると頭を下げて帰っていった。
設置したばかりの真新しいエスプレッソマシンは塗装も相俟って黒光りしているのだが、タッチパネルのLEDや照明などもあって、なかなか格好いい。客席の照明は切っているので薄暗い中に浮かび上がるように光っている。
せめて1杯は飲みたい……。
やはりそんな気持ちになる。
グラインダーやタンパーも揃っていることだし、やはりミミルと出かける時にでも買い揃えることにしよう。
コーヒー豆がないのでどうにもならず、俺は厨房へとまた移動した。
ピザ釜の方も既に火を引く作業に入っている。
楢の薪を使っているので、煙が少ない。せっかくタイルで新品の窯を装飾したのに煤だらけになったら悲惨だ。こういう気配りは実に嬉しい。
見た限り、タイルの罅や剥離などもなく問題なさそうだ。
俺は冷蔵庫からよく冷えた缶コーヒーを取り出すと、ピザ窯業者の2人に差し出した。
「3日間、お疲れ様でした。今日は準備不足で試作できなくて申し訳ない」
「いえいえ、気にせんとってください」
プレオープンで世話になった人たちを呼ぶ予定があるが、彼らも招待することにしよう。