黙れ膝小僧!!
『ほら、もう一回だ。今のは上手く跳べてたぞ。あとは自信を持つだけだ』
「勘弁してよ……」
放課後、誰もいない体育館に僕とコイツの声だけが響く。気がつくと僕は全身汗びっしょりになっていた。もう何時間も、跳べやしない跳び箱の練習をしている。僕は疲れてその場にヘタリこもうとしたのに、僕の膝が勝手に動いて僕をスタート地点まで歩かせた。
「あのさぁ……」
『次は行ける。もっと上手く膝を使うんだ』
「さっきから簡単に言うけど、じゃあ君がやってみれば?」
僕は前かがみになって自分の膝にブツクサ言った。誰かに見られたら、きっと頭がおかしくなってしまったと思われるだろう。僕自身、実はちょっとそんな気がしている。何せいきなり、自分の膝が僕に話しかけてきたんだから。
元々僕の膝には生まれつき痣があった。
右の膝に丸い点が二つ、左の膝に曲がった線が一つ。ちょうど膝をくっつけ合わすと、何だか人の顔が出来たみたいになる。運動音痴な僕は、よく体育の授業を途中で休んで体育座りで隅っこに座っていた。だからこの膝野郎とも、すっかり顔なじみになっていた。だけどまさか、その顔が話しかけてくるとは、夢にも思ってなかったけど。
『何? 跳び箱が飛べないだと? 何で? 俺という優秀な膝がありながら?』
僕がいっつも体育の授業を休むから、僕の膝は『一体いつになったら活躍させてくれるんだ』と痺れを切らして話しかけてきたらしい。口のようだと思っていた痣が、ぐにゃぐにゃとうごめいて、僕に話しかけてくる。当然僕は声も出せないまま驚いた。誰かに聞かれていないか、慌てて辺りを見渡す。その時はまだ授業中で、みんな跳び箱の方を囲んで歓声を上げていた。
どうやらクラスで一番運動ができる池田くんが、七段に挑戦して、見事成功したとかナントカらしい。みんながそっちに夢中になってるのを端っこで確認しながら、僕は小声で自分の膝に話しかけた。自分でも変なことをしているとは思ったが、このまま膝にしゃべり続けられる方が、もっと困ったことになる。
(静かにしてくれよ! 誰かに聞かれたらどうするんだ!)
『跳び箱くらい跳べばいいじゃねえか』
(そんなこと言ったって、無理に決まってるだろ。僕、三段も尻付いちゃうくらい運動音痴なんだから……)
僕は顔を赤くしてさらに小声で言った。我ながら情けない話である。だけど膝は言った。
『お前の運動神経なんか関係ない。俺という膝に、お前という人間が生えてきたようなもんだ。膝の使い方が悪いんだ』
「膝の使い方?」
自信満々に語る膝に、そう聞いたのが間違いだった。散々合ってるかどうかも分からない跳び箱の持論を聞かされた挙句、放課後僕と僕の膝で、練習する羽目になってしまった。残念ながら膝の駆動権は向こうにあった。僕がどんなに帰ろうとしても、僕の足は体育館に向かっていった。
『いいだろう。そこまで言うなら俺がお手本を見せてやる』
「う、うわわぁっ!?」
そして放課後。
結局、何度やっても失敗だった。
僕はもう諦めかけていた。こんな無駄なことをしているのも、全部僕のせい……いや僕の膝のせいだ。僕の態度にカチンときたのか、突然膝が走り出した。
「ちょ……っ!?」
バランスの崩れた上半身を、必死で持ち直すと、目の前にもう踏み台が迫っていた。このままじゃぶつかる! 僕は思わず目をつむりかけた。
「バカ! ちゃんと見てろ!」
しなやかなバネのように曲がった僕の膝が叫んだ。まるで違う生き物みたいな動きだ。僕は必死に目を見開いた。箱はもう目と鼻の先だ。ここまで来たらもう、跳ぶ、しかない!
「うおおあああっ!?」
そして気がつくと僕は宙に舞っていた。ふわりとマットに二本足で着地したあと、僕はそのまま前に倒れ込んだ。冷たいマットに押し付けた頭が、燃えるように熱い。心臓の音が、何度も何度も僕の耳の奥で跳ね回った。
跳べた……。
何度練習しても跳べなかったのに、今やっと初めて跳び箱を跳べた。いや、何度も練習したからこそか? 頭の中を興奮が駆け巡った。そのままガバっと体を起こし、僕は思いっきり膝を叩いた。
「すげえ……すげえや! ホントに跳んじゃうなんて! ねえ君、今のどうやったんだ!?」
僕は改めて僕の膝の凄さを知った。一体どんな秘訣があるんだろう。彼に教えてもらいたかった。
だけど、返事はなかった。
「あれ……?」
僕の膝の痣は、それっきりしゃべりだすことはなかった。一人取り残された体育館を、僕は首を捻りながら歩いて帰った。お風呂に入った時も、寝る前も起きてから確認しても、僕の膝は何も語らなかった。
「珍しいな。今日は見学じゃないのか」
次の日。
僕の様子を見て、先生が目を丸くした。友達もみんな物珍しそうに僕を眺めた。それもしょうがない。今まで散々、苦手だからといって逃げ回っていたのは僕なんだから。でも今日の僕は、みんなと一緒に列に並んだ。落ち着け。ちゃんと見てろ。あとは自信を持つだけだ。僕は高ぶる自分に……あの時膝が言ってくれたみたいに……言い聞かせた。僕の番が近づいてくる。緊張なのか、それとも武者震いか。気がつくと僕の膝は、ガクガクと震えていた。