第1章ー20 ネズミ一匹
―― 8月12日 未明 ラビットハウス応接室 ――
ラビットハウスの競りは、夕方から深夜に行われる。これは単に警備を固めるのが楽だからというのが理由らしいが、応接室に座り酒を煽るガードナーにはそうは思えなかった。きっと非合法なことは闇に紛れてという、様式美なのか悪党としてのプライドなのかがそうさせている――ガードナーはこの英国という国をそう見ていた。
この部屋にいるのはガードナーただ一人。協力者はいない。《ある人物》から《この儀式》のことを知らされたこと以外、計画の立案から準備、実行まで何もかも彼ひとりでやってきたのだから当然だ。
バレる訳にはいかなかった。なぜなら、いまから行おうとする儀式は魔法使いである彼にとって禁忌中の禁忌だからだ。
ショットグラスを一気に傾ける。ストレートのアイリッシュ・ウィスキーを一気に喉の奥に押し込む。味わうつもりなど毛頭なかった。だが、それでも感じる穀物の芳醇な香りと滑らかな味が口の中に広がっているはずだ。
それに顔をしかめる。
酔わない。味を感じない。
少し前であれば好みだった酒の風味も、いまとなっては罪の象徴でしかない。妻が病に侵されていることが判ったときからガードナーは酒を飲むことを止めた。妻が苦しんでいる間に嗜好品を楽しむことそれこそが、妻への裏切りに思えたからだ。だけど今は、その酒こそが己を罰する服毒薬に見えている。
罪、罪、罪……これまで――この計画を実行する決意を決めてから幾つ犯してきただろう。
五人の子供の命を絶つこと、魔法使いとしての禁忌を破ること、妻との約束を裏切ること、最後に、自身を慕ってくれていた少年を裏切ったこと。
――ガードナーさん……どうして――
ガードナーの脳裏に、あの少年の顔がフラッシュバックした。怒りと驚きと悲しみがぐちゃぐちゃに混ざっていたあの顔。思い返すだけで良心が痛んだ。
だが、ガードナーはそれを酒で押しつぶす。効きもしないアルコールの力で良心を抑え込む。
なぜならば、ガードナーにはもうそんな気持ちを抱く資格すらないのだから。
魔法使いの禁忌を侵すと決めた時から、もうすでにどうしようもない悪党なのだ。いまさら悔やんだところで計画は止まらない。大きな変化が無いのは、いまはまだ計画が露見していないからだ。すべてが終わった時、周りの状況はどうしようもなく変わってしまう。
そしてもう、どれだけ望んだところで元には戻らない。だとするなら、ガードナーがやるべきことは一つだった。
徹底的に、徹頭徹尾、悪役になりきること。それこそがこの計画を成功させるための絶対条件なのだ。
と、唐突に応接室の扉が三度叩かれる。
「失礼いたします」その声と共に入室してきたのは、シャックスという茶髪をオールバックにしている男。この計画でこれまでラビットハウスとガードナーの窓口となっていたオークション側の人間だ。
「ペンドラゴン様」
恭しくシャックスが頭を下げる。ペンドラゴンとは、ガードナーが用いた偽名だ。
「……もう競りの時間かい?」
「はい。もう間もなく。最終の打ち合わせをしたいのですがよろしいですか」
「構わないさ。座りたまえ」
ガードナーと対面して椅子に腰かける男。酒を進めるが、笑って首を横に振られる。
一呼吸置き、オールバックの茶髪を形式的に整えシャックスは口を開いた。
ガードオナーが商品として差し出したユニコーンと、目当ての子供たちが無事に搬入されたこと。今回参加するバイヤーの構成。先ほどまでのオークションで競り落とされた商品の最高額。子供たちと一緒の競りで出される商品、そしてその順番。
「事前に申し上げました通り、ユニコーンが目玉商品となります。子供は中盤、十四品目の出品となります。そのひとつ前にユニコーンを披露させるよう命令しましたので、子供の値段は相場よりもお安くなると思われます。競り落とせないことはまずないかと」
「抜かりなく頼むよ。すべて君に任せているんだ、失敗したでは済まされない」
「はい。……それから、念のためもう一度確認いたします。魔法使いたちの監視は本当に大丈夫なのですね?」
「心配する必要はない。彼らが重要視しているのは売り手と買い手だ、競売所じゃない。それに、これだけ影響力を持ってしまった競売所をすぐにつぶすなんてことはあり得ないさ。考えてもみろ。ここをつぶすと、いま以上の混沌が広がることになる。それは魔法使い側からしても避けたいところだ」
「それを聞いて安心いたしました」
ほっと、シャックスが安堵する。とりあえず疑念は晴れたようで、わずかに椅子の背もたれへと身体を預けた。
彼の手には、さっきまで持っていたチェックリストがない。たった今、後ろに仕えていた別の者に渡したのだ。それはつまり、もうすべての仕事を終えたということを表す。あとは本当に、結果を待つのみだ。
「……ああ、時間だ」
「今夜の競りは、また一荒れしそうですね」
タイミングを計ったように、応接室につけられていた振り子時計が時刻を知らせる。オークションの開場の時間だ。
始まってしまった。もう、本当に後戻りはできない。
賽は投げられた。
◇◆
――さあさあ、いよいよ本日最後の競りが開場いたしました。司会を務めさせてもらうのは、わたくしバーナードであります。どうか最後までお楽しみくださいませ! ――
人が寝静まった深夜、昼夜問わず動き続ける工場の地下で声が響き渡る。
それに応えるように、拍手が沸き起こる。
しかし、誰も声を発さない。全員が表情のない面をかぶり、真っ白な手袋をはめた手で拍手をする。曇った拍手の音は、地下の空間で不思議な反響を起こす。
見渡す限り、身体つきすらわからないほどぶかぶかのコートをまとった面の集団。これほど異常な光景はそうそうないだろう。咳払いの音すら聞こえない。わずかに声を発するのは、商品を落札した時に漏れる安堵のため息のみだ。
そんな異様な光景が、ただ淡々と続く。全く動きのないその光景は、額縁をハメればそれそのものが呪いの絵だと言われても納得してしまうほど薄気味悪く悪寒を抱かせる。
一品目、二品目。
手だけが上がり、司会者が手の動きに対応する金額を読み取っていく。
三、四、五、六品。
そこまでに落札された商品の値段と雰囲気、その他諸々を頭に入れながら司会者バーナードが文言、語調、身振り手振りをすべてふさわしいものに変えていく。
七、八、九品。
もっと、もっとだ。
もっと高く、もっと争え。
もっと高揚し、警戒心を解け。
この場に理性は似合わない。
十、十一、十二、十三品。
客を惑わせ、賭けに酔わせ、財布のひもをほどいていく。
あともう少し、あともう少しで競り落とせるというギリギリの糸をピンと張りつめ、客から現実を忘れさせる。
意のままに、思うままに、客の心を揺さぶり獣へと変える。その感覚がたまらない。すべての客が自身の思うままになった時、望み通りの額で商品を競り落とさせたとき、一瞬遅れてやってくる凄まじい快感は止められない。
いまこの会場は、間違いなくバーナードこそが支配者だ。
今日の、今、この場所に限って、全ての客は彼の思うままだった。望む額に、相場の数倍以上の値段に吊り上げられる。
そしてそれは、
同時に、競争相手を減らすこともできるということ。
――……今だ。
十四品目、その競りが始まるほんの数秒前。客たちが張った緊張の糸が一瞬だけ緩む。
バーナードはそれを見逃さなかった。
ドン!
演説台を叩く。
今まで場を支配してきたバーナードの魔法が解ける。客たちの視線が、一斉にバーナードへと向けられた。
「さてみなさま! ここで目玉商品をお見せいたしましょう! 本来なら最後の最後まで残ってくださったお客様方のみにお見せするのが礼儀なのでしょうが……今日、この商品ばかりは我慢なりません! 自慢したくて自慢したくて! この商品をわたしが捌けるということが、何よりの誇りでございます!」
シン――っとした空気が開場を包む。徐々に上がっていたボルテージに強引に蓋をし、そのまま数秒間会場を見渡す。
ここだ! そう己の勘が告げた瞬間、バーナードは壇上を振り返る。その合図と寸分の狂いなく、用意されていた檻に賭けられていたヴェールが剥ぎ取られる。
瞬間、
バーナードは、いまこの場だけは、自身にも客たちの制御はできないということをすぐさま悟った。
静まり返る会場。しかしそれは落ち着きを表す静寂ではない。火山が噴火をする着前、そのコンマ数秒がいまこの瞬間なのだ。
「本日の目玉商品、ユニコーンでございます!」
――わぁぁあぁああああ! ――
オークション会場に鬨の声が響き渡る。
それもそのはず、なにしろそれは、魔法使いたちによって幻獣に保護され裏の世界には決して流れてくることのない商品。魔術師ならば誰もが喉から手が出るほど渇望する、最上級の儀式触媒。
理性を保っていられることがあるだろうか。否。そんな高尚なことができる者であれば、魔術師協会から身を追われることなどありはしない。魔術師だからこそわかる。それが本物だということが。会場にいる何割かが、落札した相手を殺す算段を付け始めるほどの商品だ。
バーナードによって強引に押さえつけられていた感情はすぐに限界を迎える。押さえつけていた蓋ははじけ飛び、全員の眼が血走っている。
ユニコーンを裏に隠さずわざと表のステージ上に置きっぱなしにする。予想した通り、客たちの視線は面白いくらいに端のユニコーンに惹きつけられている。この状態にしておけば、ユニコーン以外の商品を気にするものはいないだろう。
ああ、上手くいった。
バーナードはほくそ笑んだ。
同僚への義理は通した。この先は好きなだけ吊り上げてやる。
「こちらの目玉商品は最後にさせていただきます! さあ、次は十四品目、儀式用の子供五人セット。値段は二十ポンドから!」
◇◆
時計がオークションの開始を告げてしばらく。応接室にはガードナーとシャックスの二人が向かい合って座っている。
間に挟んでいるのはチェス盤。やることのないこの状況で、暇つぶしをするとなればこうなることは自明だった。
「それにしても驚きました。あなたから子供を競りにかけ、あなた自身で競り落としたいと申しつけられました時は。わざわざあなた様の痕跡を消すためにそこまでなさるとは、いったい何を考えていらっしゃるのですか?」
「シャックス、その話は止めだ。探り合いなんてするものじゃないだろう? 君はここで子供をわたしに競り落とさせる。わたしはユニコーンを代わりに渡す。それで十分じゃないか」
「そうですね。失礼いたしました」
謝罪する。だが、にこやかに笑う反面、つぅっと、一筋の汗がシャックスの背中を伝っていた。目の前の相手が魔法使いなのだということをいつの間にか失念していたことに気が付いたから。いまこの状況が奇跡に近いということを忘れていたのだ。
端的に言えば、シャックスたちラビットハウスにとって本来ガードナーは敵なのである。それは、シャックスたちの扱っている品物が準魔法具に当たるためだ。人から神秘を隠すことを目的とする魔法使いたちにとって、魔術の儀式に使うことのできる呪いの品はほとんど黒に近いグレーゾーン。
いま見逃されているのは、ガードナー自身が後ろめたいことを計画しているからに他ならない。だがその気になれば、こんな場所をつぶすぐらい朝飯前だろう。それくらい、魔法使いとは規格外の存在なのだ。
利害関係が一致した、本来は敵同士の二人。それが、ガードナーとシャックスの関係を如実に表した言葉だ。我ながらとんでもなく危ない綱渡りをしているということをシャックスは再確認する。
焦り六割、安堵四割の息をつき、この場を繕おうとシャックスは口を開く。
「私の悪い癖です。職業柄、こういった話はつい深入りしてしまうもので、」
「違うな。それは職業柄ではない」
しかし、それもピシャリと否定された。
ルークを人差し指で押さえ、クルクルと盤上で回すガードナーの姿は、まるでシャックスに襲い掛からんとするコマそのものに見えた。すべてを見透かされているような、何も考えを読み取れない濁った瞳。
「それは君の性だ。この世界に入る前から君はそうだった。いや、それが強すぎたためにここに来たと言うべきなのかもしれないな」
「…………」
「そうだろう? シャックス――――元魔術師」
パチンと、マスを進んだルークがシャックスをポーンを弾き飛ばした。
ほんの数秒、部屋の中の時間が確かに停止した。
「……お見通しでしたか」
両手を上げたのは、ほとんど無意識のうちにだった。おそらくは、降参の意を示したかったのだろう。
魔術は使えず、その素振りも見せはしなかったのにどうしてわかったのかと嘆息する。
「あなたとは面識がありませんでしたから、バレないものだと思ったのですが」
「魔法使いを見くびらない方が良い。どれだけ隠そうとも、染み込んだ魔術師の仕草は消えないさ。……咎人の印は痛むかい?」
指さされシャックスが苦笑する。なるほど確かに、いまのシャックスはその場所を自身の右手で押さえつけていた。ちょうど右手で左の前腕を掴んでいる格好だ。
「そう言うことでしたか。癖は抜けないものですね」
手の置かれている場所――服を挟んだその下に刻まれているのは、赤い三本線の上に三角、四角、円と三つ並んだ奇妙な焼き印。ガードナーの言う通り、堕ちた魔術師にとっては誰にも見られることがあってはならない印。
刻まれたそれは、咎人の証。
魔術師の道を踏み外した咎人に課せられる、魔術師にとってはこれ以上ないほど酷な罰。
この印を刻まれた者は、魔術の行使が一切不可能となる。妖精や精霊の協力を得ることができなくなり、魔方陣を描こうとすると己自身が自分の身体を内側から砕き、再起不能とする。魔術の探究者たる魔術師たちにとって、他のどんなことよりも辛い罰則だ。
だからだろう。
ガードナーという男についてシャックスが異常なほど警戒していたのは、自身が咎人だからなのだろう。
「正直申しますと、私も最初はチェックメイトだと思いましたよ。とうとう殺しに来たのかと」
「平時ならそうしただろうね。わたしもこんなことをしている君を逃す手はなかった。だが今は協力関係にある。狩るつもりはない」
「分からないものですね。運命とは」
「そうだな。協力関係なんてものは建前、お世辞にも仲が良いとは言えない魔法使いと魔術師が、ギブ・アンド・テイクとは言えどもここまで協力するとは。皮肉にも、離反する魔法使いと、追放された魔術師がだ」
改めて、シャックスは自身の置かれている状況の特殊さに気づかされた。いまこの状況というのは、もう半歩でも踏み間違えればただでは済まなかった地雷原を歩き切ったことと同じくらい運が見方をした結果なのだと。
もしガードナーの目的が違っていたら。もし彼の要求を達成できなかったら。彼の正体が他の人間にバレてしまっていたら。他の魔法使いがこの状況をかぎつけてしまっていたとしたら……。
もしそうだとしたらば、シャックスの立場は目も当てられなかっただろう。
「どうだい? そちら側の様子は」
話を変えるように、ガードナーはシャックスにそう尋ねた。
「馴染めているかどうかの話でしたら、見ての通り中々に過ごしやすい世界です。ですが、最近は過ごしやすすぎて気味が悪い」
「魔術師たちに変化でも?」
「静かすぎます。本来ならちらほら起こる魔術師同士の抗争が無くなりました。要注意人物たちが減ったのでこちらとしても会場内の監視をしやすくなったのですが、あまりに何も起きないのがやはり……」
「魔術師たちが徒党を組み始めた、か」
「はい。オークションを利用する魔術師たちも、特定の組織に所属していることが多くなり始めました。すべてを申し上げることはできませんが、このまま静かにしているとは考えづらいかと」
本来魔術師とは、代々受け継いできた魔術を秘伝として隠し通すものだ。それ故に群れるということはあまりない。群れるということは、研究成果を相手に渡してしまう行為にもなりかねないからだ。秘伝を盗まれることを魔術師という人種は何よりも嫌う。
そのことを知っているために。己も、その性を少なからず持っている魔術師という人種であるがゆえに、いまの裏世界の状況はシャックスにとって余りにも異様に映っていた。
シャックスの懸念を聞き、ウィスキーをあおったガードナーは長い息を鼻から吐いた。
それは憂いだろうか、それともただ懐かしんでいるだけなのか。宙を見つめ、何かに浸るように口を開く。
「時代の変わり目に来たんだ。我々魔法使いも、魔術師も。表の世界を窺う者たちはその変化をモロに受ける。このままというわけにはいかない。そのままではいられないんだ」
「否が応でも変わらなくてはいけない時が来たということでしょうか。さて、はぐれモノの私たちはどうなるのか……」
「誰にも解らないさ。この先にどんな未来が待っているのかなどね」
そう言って、ガードナーはまたショットグラスを傾けた。
口に運ぶ、琥珀色の液体が唇に触れる、その直前。
「失礼いたしますっ!」
会話、雰囲気、静寂、それらすべてを切裂いて、バタンと扉が乱暴に開き小柄で若いスタッフが飛び込んできた。
よっぽど急いできたのだろう。急に立ち止まった所為で額には見過ごせないほどの汗がにじんでいる。それでもここで働く者の意地なのか、一瞬呼吸を止め強引に息を整えた。
「ペンドラゴン様、競りのとこで少々お話が」
シャックスにも一礼をし、それでも彼を介すことなく青年自身がガードナーの元へと早歩きで近づく。そしてそのまま膝を曲げ、手を添えてガードナーにあることを耳打ちする。
ガードナーが少しばかり目を見開く。なぜならば、それは普通であればあり得ないことであったから。
「……なに? 限度額を超えるだと?」
「今はまだですが、限度額に一定額ずつ着々と近づいています。このまま止まらなければ、いずれ……」
限度額を超える。それはつまり、ガードナーが代理人に預けておいた金額を超えてしまうということだ。自由に使える金額を超えた場合、意思決定権のない代理人は当然ながら競りを降りることになる。それはつまり、目的の商品を競り落とせないということを示す。
大抵の依頼者は出せる金額の上限まで代理人に与えるため、その金額を越えれば自動的に脱落だ。だが稀に、追加の許可を与える依頼者もいる。もちろん追加の金額は本来使う予定のなかったものなのだから、そういった人たちは例外なく、どこまで自身の身を切るのかを短時間で決めるという何とも心臓に不安要素を抱えなくてはならない。
しかし、ガードナーが抱いたのはそういった類の心配ではなかった。もっと根本的な、競り事態に関してのもの。
なぜなら、
――八十ポンドだぞ? 誰が子供にそこまで……。
ガードナーの提示した額自体が、上流階級に使える使用人の年俸二年分相当だったからだ。
極端な話、生贄の子供にそこまで出す者はいない。せいぜい五十が関の山だ。ガードナーが上限額を八十ポンドと高額に設定したのは、使用人に対してのチップと異常事態を察知するために過ぎない。
つまり、その恐れていた自体が起こったということだ。
「……まさか」
ガードナーの脳裏に、敵意むき出しのハルの顔がフラッシュバックした。
まさか、もしかしたら……。
「誰だ。二人組か?」
「はい。二人組の初顔です」
「――っ! 案内しろ。今すぐっ」
「は、はい!」
嫌な予感は、とにかく的中するらしい。
ガードナーの剣幕に押された青年が、裏返った声で叫ぶように返答し、ぶつかるように扉を開ける。足がもつれた青年をまたぐように、ガードナーが扉を押し開け無理やり廊下へと出る。
なぜだ。なぜこうなった……と早足で歩きながらガードナーは頭を全力回転させる。『何が起こったのか』ではない。いま一体何が起こっているのかなど、ガードナーには十分すぎるほど心当たりがあるのだから。それに、自問自答してはいるものの、理由などとうに分かっていた。
簡単なことだ。ハル・エイダンフォード、あの少年を始末しなかったことが原因だ。彼とは家族ともども、生まれる前からずっと交流を持っていた。その情だ。計画が完了するまで動かなければいい。じっとさせていればいいと考えていた。
彼の力を見誤っていた。彼の憎悪を見誤っていた。そうだ、あれしきのことでふさぎ込むような性格をしていなかったじゃないか。あの程度で折れているのなら、彼は《この世界に来る前に壊れていた》はずだ。この世界に来れなかったはずだ。なのになぜ、まだ子供だからと侮っていたのか。
ガラガラと、計画が音を立てて崩れていくのが分かった。
たった一匹のネズミを軽視したために、支柱を食い破られ、支えるべきものを失い、頑丈に練ったはずの計画が今グラつき始めている。このままいけば、この場にいる全員が無事では済まない。まだ何も起こっていない間に、せめて儀式の準備を始めなければ。
「ペンドラゴン様、どうなされましたっ?」
「ネズミが逃げた」
「あの魔法使いが!?」
「君たちは手を出すな。わたしが相手をする」
追い付いたシャックスが、ことの重大さを悟ったように息をのむ。それはそうだろう。先ほど言った、彼が最も恐れていることが起こっているのだから。すれ違うスタッフ全員に、シャックスが矢次に指示を飛ばす。
その傍らで、ガードナーは杖を抜く。
白銀の杖。ぴったりと手に吸い付く、最上級の素材ユニコーンの杖。杖そのものに大量のオドが詰められていて、どんな状況下でも大火力魔法が行使できる戦略級魔道具だ。
――……やるしかない。
腹をくくる。もう後戻りはできないのだ。
彼が逃げ出したというのなら、すでに魔法使いたちに報告が行っているはずだ。そうなれば、あそこが見つかるのも時間の問題だ。見つかってしまえばもう言い逃れはできない。描いた陣には自身の血が入っている。見張りもいる。奴らは尋問されればすぐにしゃべってしまうだろう。そうなれば、そうなれば……。
どのみち、この身は無事ではない。
覚悟を決めろ。情けをかけるな。そんな余裕はない。
ここで止めなければ、すべて終わりなのだから。
長い廊下が終わり、いつの間にか扉が目の前にあった。この扉一枚挟んだ先で、競りが行われている。そしてそこに、脱走した二人が。
「状況は?」
「今はまだ競りが続いているようです。大きな混乱もまだ」
「入り口を固めてくれ。誰も入れるな。誰も出すな」
そう指示をし、杖を構える。
扉の取っ手を掴み、一思いに引く。
『さあさあ、八十二が出ました! 他はいないか、他はいないか! おお! 八十五! まだいないか、まだいないかっ』
完璧に遮音されていたホール内の音が、コルクの栓を開けたように、我先にと会場にしては小さな扉からあふれ出す。入ったばかりのガードナーにも分かるくらいの熱気が、ビリリという音圧と共に強ばった身体を突き抜けた。
中をのぞく。シャックスの言う通り、まだ中では大きな騒ぎは起きていないようだ。だとすると、ハルの目的はこの子供を合法的に競り落とすということが目的なのか。もしそうなら、どうすることが最適解か……。
脳を全力回転させている最中、不意に肩が叩かれる。
思考を中断し、振り返る。肩を叩いたのは、先ほど知らせに来た青年だった。
「あの二人です。いちばん前列、真ん中の行。右から二、三番に座っています」
そう小声で耳打ちし、最前列を三分割したうちの真ん中、その右端を指さす。
だがそれを見て、ガードナーは困惑した。
なぜならそれは、ハルではなかったから。
「…………誰だ?」
思わず声が漏れる。
その二人は、背格好からしてガードナーが予期していた二人とは違った。
ひとりは小柄な人間だった。椅子の背もたれからはかろうじて頭が見えていると言ったところだろうか。だいぶ小柄だ。それに、間から見える手は華奢な女のそれ。ハルではない。
そして、その右隣に座る人物。それはここから見ても判別がつくくらいの長身だった。どうやらこの男が競りに参加しているようだ。時々腕が上がり値段を示すハンドサインを繰り返している。しかも、その時見える手は細くしわがれたもの。ハルでも、彼が連れていた少女リーナでもなかい。
だとすれば……。
――あの二人はどこだ。
見渡す。しかし、ハルとリーナの姿はない。
もしや、単なる例外だったのか?
否、と首を振る。楽天的な思考を脳内から追い出す。そう決めつけるにはまだふさわしくない。そう考えてもいいのはあの二人が無関係の人物だった場合だけだ。
ピクリと、男の方の肩が跳ねた。そしてそのまま、ゆっくりと首を回す。会場の壁際を舐めるように。
そしてその目は、ガードナーのいる場所で止まった。
――……なんだ? 今、こっちを。
なぜだか、ぞわりと鳥肌が立つ。
仮面の奥で、緑色の目が光ったような気がした。
「…………。」
だがそう感じた時には、もうすでに男の仮面は壇上の子供たちへと向いていた。いつの間に元に戻したのだろうか、そう思ってしまうほど自然に。
そして大きく手を上げ、今度はハンドサインではなく己の肉声を発した。
「――――百」
抑揚のない、しゃがれた声だった。しかしなぜだか、その声は周りの熱気にかき消されることはなく、ホール中に通った。
一秒、二秒、時が止まる。それは声の迫力に押されたからか、それとも声で値段を言うという非常識な行い故にか。
『……おおっ! 何と何と、百ポンドのご提示です! さあ、誰かいないか? 誰かいないかっ?』
我に返ったように、進行役のバーナードは再び大声で腕を振り上げる。募る声は早口で、これ以上値段を吊り上げることを望まないような口ぶりだ。
(だ・す・な)
振り向いた代理人にガードナーはそう指示を送る。ハンドサインを読み取った黄色い仮面の代理人はコクリと頷き、上げかけていた手を膝の上に戻した。
『――――時間いっぱい! 儀式用の子供五人セットは、接戦の末、百ポンドのお客様が落札いたしました! 皆さま、どうか拍手を!』
パラパラと叩かれるあわただしい拍手に紛れ、
――誰だ。何を考えている……。
直接聞いたところで答えなんか返ってこないだろう問いかけを、ガードナーは仮面の下で独り言ちる。いまこの状況がどういうものなのか、可能な限りの可能性を頭の中でリストアップする。
あの二人が全くの無関係という可能性は否定できない。だが、そうではないとガードナーの勘が警鐘を鳴らしている。心臓が破裂ギリギリまで膨らむ感覚、いやな気分だ。
経験上、こういう気分の時は大抵何かが起こっている。自分には見えない場所で。考えろ。考えろ。裏で何かが起こっているというのならその兆候があるはずだ。好きなく杖を構えながら、ガードナーは会場全体に目を走らせる。
そして見つける。
否、向こうが隠すことを止めたと言うべきだろう。
『さぁいよいよ競りも残りわずか、あちらの目玉商品以外にもまだまだ魅力的なモノが目白押しでございます! お次に紹介いたしますは――、……?』
言葉が切れる。正確に言うならば、強制的に遮られる。それは別に、誰かが奇声を発したからとか、何か物が投げられたとかそういった類の原因ではない。もっと単純なこと、この場に参加している人物であれば取るはずのない行動。
最前列に座る客――今しがた子供を競り下ろした男がいきなり立ち上がったのだ。
『え、えーっと、お客様? もう商品は落札されましたので、値段の交渉でしたら致しかねますが……』
「いや、違う。金はあるのだが、こちらで扱えるかが心配になった」
困惑する司会者。だがそんなことお構いなしに、しわがれた声でそう言った男が壇上へひらりと飛び乗る。その動きは声から想像する年齢とは思えないほど軽やかなもの。一瞬気圧されたようにバーナードは半歩後ろに下がってしまう。
『お、お客様っ! 壇上に上がられるのもちょっと、』
そんな彼のことなどお構いなしに、男はマントの下から布袋を取り出す。ニワトリ一羽が入るくらいの容量のそれは、下から糸で引っ張っているかと錯覚するほど千切れんばかりに張り詰めていた。
取り出したそれの口を開け、そのまま逆さにする。
ゴトリという重たく曇った鈍い音がした。
『………………』
バーナードが固まる。なぜなら落とされたそれが、目の前の男が持つにはあまりに不釣り合いな代物だったから。
男の手の平に落とされたのは、目が眩むほどの輝きを放つ黄金虫色の塊。重く曇った音がしたのは、それがこの世で数番目に数えられるほど重いものだから。腐食せず、割れもせず、今なお資産の最上位に位置する金属。
それすなわち、金のインゴット。
バーナードの演説台からマイクが転げ落ち、ゴトンっと大きな音がした。
「生憎まとまった資金がなくてな、しょうがなしにこれを持ってきたのだが……換金してもらえるかね?」
「…………これは」
「純金だ。嘘だともうなら調べてみればいい。で? どうなのだ」
「え、ええもちろん! これ一本でもおつりが出るほどです。買取いたしましょう。のちほど換金できますので、あちらのスタッフに渡していただけると……」
「いや、君が取っておいた方が良い。釣りもいらぬ」
「つ、釣り……?」
「迷惑料ということだ。…………今日でお前は失業だからな」
――マズい!
杖を振るったのは、ほとんど反射に近かった。
あの男が何者で、いったい何を考えてあの場に現れ、いまから何をしているのかなど解らなかった。だがガードナーの直感が、経験が、本能が、このままではマズいと五月蝿いくらいにわめきたてた。
杖から飛び出した黄色い蛇が、パチパチと空気を鳴らしながら男を拘束せんと飛翔する。ヒュ――――ゥウッという独特の飛翔音に男が気づき振り返った仮面の奥で、緑色の目が噛み付かんとする黄色い蛇の姿を捕えた。
「……ふっ。」
しかしそれを見て、男は嗤った。
ここにいる全員をあざ笑うかのように。
黄色い蛇が男に飛びつき、肩口に牙を突き刺す。
バリリ! と音が割れたような衝撃波が男の身体を突き抜ける。耐えきれなかったマントが裂け、やせた身体が露わになる。雷に打たれたように男の身体が二、三度大きく震える。
そこに来てようやく、バーナードにもこの男が野放しにしていてはいけない者なのだと悟ったようだ。
「――!? 取り押さえろ!」
舞台袖で控えている部下にそう怒鳴る。
だが、
「忠告はしたぞ。『離れろ』と》
男の口から出た忠告の言葉。人の出せる音よりさらに低く、地面を地の底を揺さぶる人ならざるモノの声が、部下たちの足を凍り付かせた。
ドクン——男の体が、内側から弾け飛んだ。
ドクン——弾けた体の内からは、まるで風船でも膨らませるかのように際限なく肉が膨れ上がる。むき出しになった皮膚が裂け、千切れ、パラパラと零れ落ちる。まるで、脱皮をするかのように。
はがれた皮膚の内側に揃うは、鋼鉄の硬度を誇る赤黒い鱗。
手足を突き破り現れたのは、狩人のみが持つ命を刈り取る鋭い爪。
背中から広がった二対の皮膚は、コウモリを感じさせる巨大な翼。
腰あたりの皮膚を突き破り、とげのある尾が飛び出し鞭のようにしなる。
ミシミシと音を立て、顔が骨格を変える。それは例えるならトカゲ。
仮面を破り幹出しになった瞳は、吸い込まれるくらい凶暴なエメラルド色。
「まさかあいつはっ!」
そうだ、ガードナーはこのドラゴンを知っている。
当然だ。なぜなら、このドラゴンを出し抜くことこそがこの計画で最重要視されていたのだから。
エルフよりも、魔法使いたちよりも厄介な森の番人。この計画の中で最も大きな懸念事項。
霧の支配者、ミラージュ・ドラゴン。
「はーイ、こっちこっチ!」
一緒にいたもう一人の女が、勢いよくフードと仮面を脱ぎ捨てる。現れたのは真っ赤な髪と尖った耳。いつの間にか台車を動かし、ユニコーンと子供が入った檻ふたつを鎖で括り付けていた。
「準備オーケー、やっちゃっテ!」
《死ぬなよ。エルフ》
瞬間、
天井が轟音を立てて爆ぜた。
無視できない大きさのがれきが降り注ぎ、擬態していたドラゴンを止めんとしていた職員たちの何人かが動かなくなる。
一瞬だけ遅れて肌を撫でたのは、焼け付くほど強烈な熱波。ドラゴンが吐いたブレスだと理解したのは数秒遅れてだ。
悲鳴が上がる。恐怖が充満する。だがそれら全てが、ドラゴンの放つ強力な怒気にかき消される。
潮が引くように、大きく空いた天蓋の穴から流れ込むのは、数メートル先が見えなくなるほどの濃い霧。ミラージュ・ドラゴンがまとう魔法の霧だ。まるで滝のように垂直に流れ込み、真下にいたドラゴンとエルフの少女が濃霧に飲み込まれる。
その直後、人を吹き飛ばすような旋風に混ざり届く羽ばたきの音と金属同士がぶつかる音。輪郭すらもぼやけた濃霧の奥で、巨体が檻を吊り下げながら浮上していくのがかろうじてわかった。
姿が消える寸前、霧の向こうから浴びせられたのは身震いするほどの怒気。
《ガードナー。我が庭を荒したお前の目論見、無事にいくとは思うなよ!》
そしてそれは、ガードナー個人に向けたものだった。
ほんの一分足らず。
それだけで、この場は地獄絵図に変わった。
「…………………」
誰も反応できなかった。
誰も、動くことができなかった。
一呼吸遅れ――、
会場が、阿鼻叫喚に包まれた。
「わああああああ!」「まずい! 警官が来る!」「ここの警備はどうなっているのだっ」「いけないわ! 夫に見つかって」「出口はどこだ!」「俺たちの金は!?」
聞くに堪えない絶叫と悲鳴が響く。今まで自らがしていたことがまるで問題ないことだったかのように、騒ぐ人間たちの言葉が見事なほど自身を被害者としていた。
その修羅場のような世界から切り離されたかのように、ガードナーは立ち尽くす。
もう、子供たちなどどうでもよかった。ガードナーの頭は、すぐさまこの後に起こりうる最悪の事態を仮定し仮説を弾き飛ばした。
しかし、それに理性で待ったをかける。
この場での最悪の事態とは一体なんだ、そう自問自答する。
これを合図に、魔法士たちがなだれ込んでくること。
違う。
この計画にとって最悪の状況とは……。
――お前の目論見、無事にいくとは思うなよ! ――
つい先ほど、確かにあのドラゴンはそう言い放った。
だがしかし、あのドラゴンがしたことはユニコーンと子供の奪取だけだった。確かに計画には大きな痛手だ。だが、なりふり構わない方法を使えばまだ計画は遂行可能だ。
それなのに、あのドラゴンはガードナー自身を殺すことをしなかった。子供をさらう以上のことをしなかった。まるで、自分以外の何物かが別に動いているかのように。
――まさか。……まさか!
気が付いてしまう。というよりも、気づかないほどガードナーは愚かではなかった。
走り出す。目の前に立ちふさがる客どもを両手で蹴散らし、かき分けながら《ある扉》に向かって進み続ける。
もう、子供もオークションもどうでもよかった。
この会場がどうなろうと、知ったことではなかった。
「はぁ……はぁ……ふっ」
人の海を抜け、ガードナーが目当ての扉にたどり着く。目の前にあるのは、厳重に施錠された搬入口のひとつ。ごく限られた者にしか通ることが許されない、地上の倉庫へと伸びる直通連絡路。
杖を振り抜く。杖から飛び出た衝撃波が、扉に当たり扉そのものを吹き飛ばす。
明かりのない真っ暗な暗闇に向かって。ガードナーは走り出した。
◇◆
神というものがこの世界にいるとすれば、そいつはとんでもなく性格が悪いのだろう――今この瞬間ほど、ガードナーは神という存在を信じることも、恨んだこともなかった。
手を貸してほしい時に限って何もせず、それどころか当人にとって最も苦痛となる事を試練と称し押し付ける。かと思えば、最悪の状況になるよう嫌というほどおぜん立てをする。生きとし生けるものに試練という名の苦痛を与え、それによって苦しむ様をはるか高みから見物する。
今、この時のように。
「やはり、君だったか」
地上に作られた、ラビットハウス管轄の倉庫のひとつ。その倉庫の真ん中に立ちふさがる人物を見て、ガードナーはそう吐き捨てた。
警備をしていたはずの者たちはいなかった。がらんどうの倉庫にあるのは、床に描かれていた儀式用の魔法円。ガードナー。そして、その魔法円の前でたたずむ黒髪の少年。
来るかもしれないとは思っていながら、だけど殺せなかった少年。同時に、この場所に一番来てほしくはなかった人物。この計画に気が付いてほしくはなかった人物。
ハル・エイダンフォード。
拘束し、幽閉したはずの少年が、ガードナーの顔をにらみつけていた。




