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HUNTER ― 霧の地下鉄 ―

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/05/24

 パリの地下鉄は、地上よりも古い息をしている。


 壁のタイルには、百年以上前の湿気が染みついている。鉄のレールは毎日何万人もの靴音を受け止めながら、夜になると、誰も知らない場所へ続いているような顔をする。


 ルイーズは、その匂いが嫌いだった。


 錆。


 雨。


 電気。


 古い香水。


 人間の疲れ。


 それから、ほんのわずかに混じる、獣の匂い。


 午後十一時三十二分。


 メトロ七号線、南行き。


 終電にはまだ早いが、車内は空いていた。観光客の親子、スーツ姿の男、イヤホンをした学生、酔った中年女、ベビーカーを押す若い母親。二十人弱。誰もがスマホを見たり、窓の黒に映る自分の顔を見たりしている。


 ルイーズはドアの横に立っていた。


 肩までの栗色の髪。黒いレザージャケット。細身のパンツ。右腰には、普通なら持っていてはいけないものが隠れている。


 小型拳銃。


 国家登録済み対異常害獣制圧用。


 もっとも、そんな長い名前で呼ぶ者はいない。


 現場では、ただの銃だ。


 彼女は窓に映る自分を見て、少しだけ唇を曲げた。


「最悪」


 今日は仕事を辞めるつもりだった。


 少なくとも、三日くらいは逃げるつもりだった。


 北の田舎町にいる叔母の家へ行って、何も知らない顔でスープを飲み、朝寝坊して、庭の犬を撫でて、ミシェルからの電話を全部無視する。


 そう決めていた。


 鞄の中には、着替えと、偽名で取った列車のチケットと、まだ封を切っていない睡眠薬が入っている。


 なのに、地下鉄が駅へ近づくにつれ、彼女の首筋がじわじわ冷たくなった。


 アナウンスが流れる。


『次は、サン=マルタン。お出口は右側です』


 電車が減速する。


 ブレーキの高い音がトンネルに反響した。


 そして、車両がホームへ滑り込んだ瞬間。


 霧が来た。


 ホーム側の窓が、白く消えた。


 ドアの隙間から、濃い霧が車内へ流れ込む。冷たく、重く、床を這うように広がる。蛍光灯がちらつき、広告パネルの光が滲んだ。


 乗客たちが顔を上げる。


「火事?」


「煙じゃないの?」


「駅員は?」


 ドアが開いた。


 向こうには、ホームがない。


 いや、あるはずなのに見えない。


 白い霧だけが、静かにうねっていた。


 ルイーズは反射的に右手を腰へやった。


 霧の奥から、人影が現れる。


 老婆だった。


 小柄で、背を丸め、古い黒いコートを着ている。手には買い物袋。どこにでもいるパリの老人。けれど足音がない。


 老婆は車内へ一歩入った。


 霧がその足元で避ける。


 ルイーズと目が合った。


 老婆は笑った。


 歯が多すぎた。


 銃声。


 ルイーズの手は、もう動いていた。


 弾丸は老婆の眉間を撃ち抜き、後頭部から黒い粘液を撒き散らした。老婆の身体が糸の切れた人形のように倒れる。


 車内が凍った。


 次の瞬間、悲鳴が爆発した。


「撃った!」


「この女、撃ったぞ!」


「警察を呼べ!」


 男がひとり、霧の中へ飛び出した。


「待って!」


 ルイーズは叫んだが、遅かった。


 白い向こうで、足音が数歩。


 それから、喉を裂くような絶叫。


 叫びは急に途切れた。


 何かが濡れた布を引きずる音だけが、遠くで聞こえた。


 乗客たちは一斉にドアから離れた。誰もがルイーズを見ている。恐怖。敵意。混乱。スマホを向ける者もいたが、画面は砂嵐のように乱れている。


 ルイーズは銃口を床へ向けた。


「聞いて。あたしはあなたたちを撃たない。撃ったのは人間じゃない」


「人間じゃないって何よ!」


 酔った中年女が叫んだ。


 ルイーズは倒れた老婆を顎で示した。


「見ればわかる」


 誰も近づこうとしなかった。


 だが、最前列にいた学生が、震えながらスマホのライトを向けた。


 老婆の顔が、崩れ始めていた。


 皮膚が溶けるようにめくれ、その下から黒い毛が膨らむ。細い腕はねじれ、指は節足動物の脚のように割れた。口元からは、人間のものではない牙がずるりと覗く。


 腐った獣と濡れた土を混ぜたような臭いが広がった。


 若い母親が口を押さえた。


 スーツの男が吐いた。


「なに……これ」


「擬態型の害獣」


 ルイーズは弾倉を確認しながら言った。


「正式名称は長すぎるから覚えなくていい。近づかないで。血にも触らないで。たぶん、感染はしないけど、気分は悪くなる」


「たぶん!?」


「現場で絶対なんて言う奴のほうが信用できないでしょ」


 言いながら、ルイーズは死骸の足を掴んだ。


 ぬるりとした感触に顔をしかめる。


「誰か手伝って」


 全員が目を逸らした。


「でしょうね」


 彼女はひとりで死骸を引きずり、ドアの外へ押し出した。霧の中へ捨てるのではなく、ドアのすぐ外、見える位置に置く。


「仲間の死体を置いておけば、下級個体は不用意に近づかない。あいつら、獣みたいに見えて、けっこう用心深いの」


「仲間って……まだいるの?」


 学生が聞いた。


 ルイーズは答えなかった。


 答える前に、霧が揺れた。


 新しい人影が入ってくる。


 ルイーズは即座に銃を向けた。


 だが、撃てなかった。


 霧の向こうから現れたのは、長身の男だった。


 黒いコート。


 黒い手袋。


 夜でも外さないサングラス。


 髪は後ろへ撫でつけ、顔には無駄な表情がひとつもない。


「ミシェル?」


 ルイーズは思わず声を上げた。


 男は車内を一瞥した。


「家出少女の捜索に来た」


「家出少女じゃない。休暇よ」


「無断離職と言う」


「人聞き悪いわね。少し疲れただけ」


「疲れた者は霧の地下鉄に乗らない」


「乗ったら霧が出たの!」


 言い返しながら、ルイーズは少しだけ安心してしまった。


 ミシェル。


 人種も本名も不明。パリ特殊衛生局の外部協力員。害獣駆除の専門家。腕は最悪にいい。性格も最悪に悪い。


 彼が来たなら、まだ何とかなる。


 そう思ってしまった。


 それが、失敗だった。


「状況は?」


 ミシェルが聞いた。


「魔層化。駅ごと隔離されてる。擬態型一体処理。外へ逃げた乗客一名、たぶん死亡。隣の車両は――」


 ルイーズは連結ドアへ向かい、ハンドルを回した。


 開いた先には、隣の車両がなかった。


 ただ、霧。


 線路も壁も、何も見えない白。


 乗客たちのざわめきが大きくなる。


「どうなってるんだよ!」


「ここ、地下鉄だろ?」


「電波がない!」


「ドアを閉めて!」


 ミシェルが静かに言った。


「この車両だけが、魔層の内側に取り込まれている」


「ねえ、出口わかる?」


 ルイーズが聞く。


「まだわからない」


「使えない男」


「逃げ出した女に言われたくない」


「だから休暇だってば」


 ルイーズは舌打ちし、乗客たちへ向き直った。


「全員、中央へ集まって。窓から離れて。ドアにも近づかない。泣いてもいいし祈ってもいいけど、勝手に動いたら死ぬわ」


 スーツの男が怒鳴った。


「何の権限があって命令してる!」


「国家公務員」


「嘘をつけ!」


「害虫駆除専門のね」


「ふざけるな!」


 ルイーズは銃口を男へ向けず、ただ冷たく見た。


「従わないなら好きにして。勝手に死ねば?」


 車内が静かになった。


 彼女の声には、怒りより疲労があった。


 助けたい。


 それでも、全部は助けられない。


 助けようとして、何度も取りこぼした者の声だった。


 ミシェルがわずかに顔を向けた。


「まだ気にしているのか」


「何を」


「リヨン駅の件」


 ルイーズの指が強張った。


「今それ言う?」


「引きずると判断が鈍る」


「人が死んだのよ」


「だから忘れろとは言っていない」


「じゃあ何」


「撃てる時に撃て」


 ルイーズは笑った。


 笑ったはずなのに、喉が痛かった。


「本当にミシェル? ずいぶん優しいじゃない」


 冗談のつもりだった。


 しかし、次の瞬間。


 ミシェルの首が、ありえない角度に傾いた。


 サングラスの奥で、目が縦に裂ける。


「しまった」


 ルイーズが銃を上げるより早く、ミシェルだったものの背中から黒い触手が弾けた。


 銃が弾き飛ばされる。


 それは床を滑り、座席の下へ消えた。


 偽物の顔が裂ける。


 黒い毛が溢れ、コートの内側から無数の脚が伸びた。ミシェルの声で、異形が笑う。


「撃てる時に、撃て」


 窓が割れた。


 霧の中から、黒い影が雪崩れ込んでくる。


 毛むくじゃらの四肢。


 猿に似た頭。


 虫の腹。


 人間の指。


 ひとつの生き物ではない。悪意ある子どもが、獣と人と虫の部品を適当に縫い合わせたような姿。


 乗客たちは悲鳴を上げた。


 ルイーズは座席の下に腕を伸ばし、銃を掴む。


 引き金を引く。


 動かない。


「嘘でしょ」


 スライドが途中で噛んでいる。


 ジャム。


「こんな時に!」


 彼女が復旧させようとする間にも、車内は地獄に変わった。


 窓に血が飛ぶ。


 誰かのスマホが床に落ち、踏み潰される。


 ベビーカーを抱えた母親が叫ぶ。


 ルイーズは歯を食いしばり、詰まった弾を抜こうとした。


 だが、偽ミシェルの触手が彼女の腹を打った。


 息が詰まる。


 身体がドアに叩きつけられ、霧の中へ転がり出た。


 冷たい白が全身を包んだ。


 車内の悲鳴が遠くなる。


「また……」


 ルイーズは立ち上がった。


 唇から血が垂れる。


「また誰も救えなかった」


 霧の中を走った。


 どこへ向かっているのかはわからない。


 ホームの床がある。だが駅名表示は読めない。壁も、階段も、改札も消えている。世界が白い布で覆われ、その下で何かが蠢いているようだった。


 前方に影。


 避けきれない。


 ルイーズは両手を突き出した。


 指先が黒い毛に触れた。


 ぬめり。


 汚泥に手を突っ込んだような、温かく腐った感触。


「最悪!」


 彼女は飛び退いた。


 霧の奥から、黒い影が次々と現れる。


 囲まれている。


 銃は壊れたまま。


 予備はない。


 休暇のつもりだったから。


「馬鹿、あたしの馬鹿」


 異形たちが、じりじり距離を詰める。


 そのとき、霧が割れた。


 白の向こうから、黄金の光が差す。


 ルイーズは一瞬、天使かと思った。


 背に広がる翼。


 金色の羽根。


 人の形をした美しい顔。


 男とも女ともつかない中性的な微笑み。地下鉄の霧の中に現れるには、あまりにも神々しい。


 黒い異形たちは、一斉にひれ伏した。


 ルイーズは銃を握り直した。


 壊れている。


 撃てない。


 だが、投げるくらいはできる。


「神様ごっこは、教会でやりなさい!」


 彼女は銃を投げた。


 回転する黒い塊が黄金の顔へ向かう。


 だが、届く直前で弾かれた。


 見えない壁。


 銃は霧の中へ消える。


 黄金のものが微笑む。


 その目の奥は、空っぽだった。


 聖なるものではない。


 美しさを餌にするもの。


 祈りの形をした捕食者。


 ルイーズは拳を構えた。


 勝てるわけがない。


 だが、食われるために膝をつく趣味はない。


 黒い群れが押し寄せる。


 その瞬間、銃声が鳴った。


 一発。


 二発。


 三発。


 異形の頭が次々と弾ける。


 霧の奥から、黒いコートの男が歩いてきた。


 サングラス。


 手袋。


 無駄のない射撃姿勢。


 今度は、本物だとわかった。


 理由は簡単だった。


 偽物より、ずっと感じが悪い。


「ミシェル!」


 ルイーズは叫んだ。


「今度こそ本物よね!」


「偽物なら、先にお前を黙らせている」


「うん、本物!」


 ミシェルは返事をせず、銃を撃ち続けた。


 黒い異形が倒れる。


 黄金のものが顔を歪めた。


 美しい皮膚が裂け、内側から灰色の肉が覗く。翼は羽根ではなく、細い虫の脚が束になったものだった。神々しい姿が崩れ、巨大な口が現れる。


 それは悲鳴を上げた。


 人でも獣でもない声。


 霧そのものが震える。


 ミシェルは動じなかった。


 迫る怪物の口へ、銃口を突っ込む。


「下品な声だ」


 連射。


 銃弾が喉を貫き、後頭部を破裂させた。


 怪物は数秒だけ立っていた。


 それから、糸が解けるように崩れた。


 地面に落ちたそれは、天使でも獣でもない。


 毛の生えた無数のミミズが絡み合う、ただの汚物だった。


 霧が揺らぐ。


 遠くで、駅のアナウンスがノイズ混じりに聞こえた。


『……サン=マルタン……お忘れ物のないよう……』


 ルイーズは膝に手をつき、荒く息をした。


「助かった」


「礼はいらない」


「言う前に断らないでよ」


「面倒だ」


「それで、どうしてここに?」


「家出少女捜索の任務だ」


 ルイーズは固まった。


「……本当に本物?」


 ミシェルは答えず、歩き出した。


「待ってよ。相棒を置いてく気?」


「一生経っても、お前を相棒にする気はない」


「ひどい。あたし、さっき死にかけたのに」


「いつものことだ」


「それもひどい」


 ルイーズは頬を膨らませ、ふと視線を横へ向けた。


 霧の中に、また黒い影。


「あ、来た」


「こっちにもだ」


 ミシェルが淡々と言う。


「何体?」


「数える意味はない」


「でしょうね。ちなみに、あたし武器ないんだけど」


 ミシェルは懐から予備の銃を抜き、彼女へ投げた。


 ルイーズはそれを受け取る。


 ずしりとした重みが手に馴染んだ。


「いい銃じゃない」


「俺の相棒だ。壊すな」


「嫉妬しちゃう」


「銃のほうが従順だ」


 黒い群れが近づいてくる。


 床を這い、壁を這い、霧を裂きながら、無数の目がこちらを見ていた。


 ルイーズは深く息を吸った。


 逃げるために乗った地下鉄。


 忘れるために向かった田舎。


 でも、運命というやつは、地下トンネルの暗闇みたいに、どこまでもしつこく追ってくる。


 なら、撃つしかない。


 ミシェルがサングラスを指で押し上げた。


「残らず始末するぞ」


 ルイーズは笑った。


 今度は、本当に笑った。


「いつも通りにね」


 二丁の銃が、同時に火を噴いた。


 パリの地下で、霧が裂ける。


 白い闇の向こうから、夜明け前の電車の音が聞こえた。

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