HUNTER ― 霧の地下鉄 ―
パリの地下鉄は、地上よりも古い息をしている。
壁のタイルには、百年以上前の湿気が染みついている。鉄のレールは毎日何万人もの靴音を受け止めながら、夜になると、誰も知らない場所へ続いているような顔をする。
ルイーズは、その匂いが嫌いだった。
錆。
雨。
電気。
古い香水。
人間の疲れ。
それから、ほんのわずかに混じる、獣の匂い。
午後十一時三十二分。
メトロ七号線、南行き。
終電にはまだ早いが、車内は空いていた。観光客の親子、スーツ姿の男、イヤホンをした学生、酔った中年女、ベビーカーを押す若い母親。二十人弱。誰もがスマホを見たり、窓の黒に映る自分の顔を見たりしている。
ルイーズはドアの横に立っていた。
肩までの栗色の髪。黒いレザージャケット。細身のパンツ。右腰には、普通なら持っていてはいけないものが隠れている。
小型拳銃。
国家登録済み対異常害獣制圧用。
もっとも、そんな長い名前で呼ぶ者はいない。
現場では、ただの銃だ。
彼女は窓に映る自分を見て、少しだけ唇を曲げた。
「最悪」
今日は仕事を辞めるつもりだった。
少なくとも、三日くらいは逃げるつもりだった。
北の田舎町にいる叔母の家へ行って、何も知らない顔でスープを飲み、朝寝坊して、庭の犬を撫でて、ミシェルからの電話を全部無視する。
そう決めていた。
鞄の中には、着替えと、偽名で取った列車のチケットと、まだ封を切っていない睡眠薬が入っている。
なのに、地下鉄が駅へ近づくにつれ、彼女の首筋がじわじわ冷たくなった。
アナウンスが流れる。
『次は、サン=マルタン。お出口は右側です』
電車が減速する。
ブレーキの高い音がトンネルに反響した。
そして、車両がホームへ滑り込んだ瞬間。
霧が来た。
ホーム側の窓が、白く消えた。
ドアの隙間から、濃い霧が車内へ流れ込む。冷たく、重く、床を這うように広がる。蛍光灯がちらつき、広告パネルの光が滲んだ。
乗客たちが顔を上げる。
「火事?」
「煙じゃないの?」
「駅員は?」
ドアが開いた。
向こうには、ホームがない。
いや、あるはずなのに見えない。
白い霧だけが、静かにうねっていた。
ルイーズは反射的に右手を腰へやった。
霧の奥から、人影が現れる。
老婆だった。
小柄で、背を丸め、古い黒いコートを着ている。手には買い物袋。どこにでもいるパリの老人。けれど足音がない。
老婆は車内へ一歩入った。
霧がその足元で避ける。
ルイーズと目が合った。
老婆は笑った。
歯が多すぎた。
銃声。
ルイーズの手は、もう動いていた。
弾丸は老婆の眉間を撃ち抜き、後頭部から黒い粘液を撒き散らした。老婆の身体が糸の切れた人形のように倒れる。
車内が凍った。
次の瞬間、悲鳴が爆発した。
「撃った!」
「この女、撃ったぞ!」
「警察を呼べ!」
男がひとり、霧の中へ飛び出した。
「待って!」
ルイーズは叫んだが、遅かった。
白い向こうで、足音が数歩。
それから、喉を裂くような絶叫。
叫びは急に途切れた。
何かが濡れた布を引きずる音だけが、遠くで聞こえた。
乗客たちは一斉にドアから離れた。誰もがルイーズを見ている。恐怖。敵意。混乱。スマホを向ける者もいたが、画面は砂嵐のように乱れている。
ルイーズは銃口を床へ向けた。
「聞いて。あたしはあなたたちを撃たない。撃ったのは人間じゃない」
「人間じゃないって何よ!」
酔った中年女が叫んだ。
ルイーズは倒れた老婆を顎で示した。
「見ればわかる」
誰も近づこうとしなかった。
だが、最前列にいた学生が、震えながらスマホのライトを向けた。
老婆の顔が、崩れ始めていた。
皮膚が溶けるようにめくれ、その下から黒い毛が膨らむ。細い腕はねじれ、指は節足動物の脚のように割れた。口元からは、人間のものではない牙がずるりと覗く。
腐った獣と濡れた土を混ぜたような臭いが広がった。
若い母親が口を押さえた。
スーツの男が吐いた。
「なに……これ」
「擬態型の害獣」
ルイーズは弾倉を確認しながら言った。
「正式名称は長すぎるから覚えなくていい。近づかないで。血にも触らないで。たぶん、感染はしないけど、気分は悪くなる」
「たぶん!?」
「現場で絶対なんて言う奴のほうが信用できないでしょ」
言いながら、ルイーズは死骸の足を掴んだ。
ぬるりとした感触に顔をしかめる。
「誰か手伝って」
全員が目を逸らした。
「でしょうね」
彼女はひとりで死骸を引きずり、ドアの外へ押し出した。霧の中へ捨てるのではなく、ドアのすぐ外、見える位置に置く。
「仲間の死体を置いておけば、下級個体は不用意に近づかない。あいつら、獣みたいに見えて、けっこう用心深いの」
「仲間って……まだいるの?」
学生が聞いた。
ルイーズは答えなかった。
答える前に、霧が揺れた。
新しい人影が入ってくる。
ルイーズは即座に銃を向けた。
だが、撃てなかった。
霧の向こうから現れたのは、長身の男だった。
黒いコート。
黒い手袋。
夜でも外さないサングラス。
髪は後ろへ撫でつけ、顔には無駄な表情がひとつもない。
「ミシェル?」
ルイーズは思わず声を上げた。
男は車内を一瞥した。
「家出少女の捜索に来た」
「家出少女じゃない。休暇よ」
「無断離職と言う」
「人聞き悪いわね。少し疲れただけ」
「疲れた者は霧の地下鉄に乗らない」
「乗ったら霧が出たの!」
言い返しながら、ルイーズは少しだけ安心してしまった。
ミシェル。
人種も本名も不明。パリ特殊衛生局の外部協力員。害獣駆除の専門家。腕は最悪にいい。性格も最悪に悪い。
彼が来たなら、まだ何とかなる。
そう思ってしまった。
それが、失敗だった。
「状況は?」
ミシェルが聞いた。
「魔層化。駅ごと隔離されてる。擬態型一体処理。外へ逃げた乗客一名、たぶん死亡。隣の車両は――」
ルイーズは連結ドアへ向かい、ハンドルを回した。
開いた先には、隣の車両がなかった。
ただ、霧。
線路も壁も、何も見えない白。
乗客たちのざわめきが大きくなる。
「どうなってるんだよ!」
「ここ、地下鉄だろ?」
「電波がない!」
「ドアを閉めて!」
ミシェルが静かに言った。
「この車両だけが、魔層の内側に取り込まれている」
「ねえ、出口わかる?」
ルイーズが聞く。
「まだわからない」
「使えない男」
「逃げ出した女に言われたくない」
「だから休暇だってば」
ルイーズは舌打ちし、乗客たちへ向き直った。
「全員、中央へ集まって。窓から離れて。ドアにも近づかない。泣いてもいいし祈ってもいいけど、勝手に動いたら死ぬわ」
スーツの男が怒鳴った。
「何の権限があって命令してる!」
「国家公務員」
「嘘をつけ!」
「害虫駆除専門のね」
「ふざけるな!」
ルイーズは銃口を男へ向けず、ただ冷たく見た。
「従わないなら好きにして。勝手に死ねば?」
車内が静かになった。
彼女の声には、怒りより疲労があった。
助けたい。
それでも、全部は助けられない。
助けようとして、何度も取りこぼした者の声だった。
ミシェルがわずかに顔を向けた。
「まだ気にしているのか」
「何を」
「リヨン駅の件」
ルイーズの指が強張った。
「今それ言う?」
「引きずると判断が鈍る」
「人が死んだのよ」
「だから忘れろとは言っていない」
「じゃあ何」
「撃てる時に撃て」
ルイーズは笑った。
笑ったはずなのに、喉が痛かった。
「本当にミシェル? ずいぶん優しいじゃない」
冗談のつもりだった。
しかし、次の瞬間。
ミシェルの首が、ありえない角度に傾いた。
サングラスの奥で、目が縦に裂ける。
「しまった」
ルイーズが銃を上げるより早く、ミシェルだったものの背中から黒い触手が弾けた。
銃が弾き飛ばされる。
それは床を滑り、座席の下へ消えた。
偽物の顔が裂ける。
黒い毛が溢れ、コートの内側から無数の脚が伸びた。ミシェルの声で、異形が笑う。
「撃てる時に、撃て」
窓が割れた。
霧の中から、黒い影が雪崩れ込んでくる。
毛むくじゃらの四肢。
猿に似た頭。
虫の腹。
人間の指。
ひとつの生き物ではない。悪意ある子どもが、獣と人と虫の部品を適当に縫い合わせたような姿。
乗客たちは悲鳴を上げた。
ルイーズは座席の下に腕を伸ばし、銃を掴む。
引き金を引く。
動かない。
「嘘でしょ」
スライドが途中で噛んでいる。
ジャム。
「こんな時に!」
彼女が復旧させようとする間にも、車内は地獄に変わった。
窓に血が飛ぶ。
誰かのスマホが床に落ち、踏み潰される。
ベビーカーを抱えた母親が叫ぶ。
ルイーズは歯を食いしばり、詰まった弾を抜こうとした。
だが、偽ミシェルの触手が彼女の腹を打った。
息が詰まる。
身体がドアに叩きつけられ、霧の中へ転がり出た。
冷たい白が全身を包んだ。
車内の悲鳴が遠くなる。
「また……」
ルイーズは立ち上がった。
唇から血が垂れる。
「また誰も救えなかった」
霧の中を走った。
どこへ向かっているのかはわからない。
ホームの床がある。だが駅名表示は読めない。壁も、階段も、改札も消えている。世界が白い布で覆われ、その下で何かが蠢いているようだった。
前方に影。
避けきれない。
ルイーズは両手を突き出した。
指先が黒い毛に触れた。
ぬめり。
汚泥に手を突っ込んだような、温かく腐った感触。
「最悪!」
彼女は飛び退いた。
霧の奥から、黒い影が次々と現れる。
囲まれている。
銃は壊れたまま。
予備はない。
休暇のつもりだったから。
「馬鹿、あたしの馬鹿」
異形たちが、じりじり距離を詰める。
そのとき、霧が割れた。
白の向こうから、黄金の光が差す。
ルイーズは一瞬、天使かと思った。
背に広がる翼。
金色の羽根。
人の形をした美しい顔。
男とも女ともつかない中性的な微笑み。地下鉄の霧の中に現れるには、あまりにも神々しい。
黒い異形たちは、一斉にひれ伏した。
ルイーズは銃を握り直した。
壊れている。
撃てない。
だが、投げるくらいはできる。
「神様ごっこは、教会でやりなさい!」
彼女は銃を投げた。
回転する黒い塊が黄金の顔へ向かう。
だが、届く直前で弾かれた。
見えない壁。
銃は霧の中へ消える。
黄金のものが微笑む。
その目の奥は、空っぽだった。
聖なるものではない。
美しさを餌にするもの。
祈りの形をした捕食者。
ルイーズは拳を構えた。
勝てるわけがない。
だが、食われるために膝をつく趣味はない。
黒い群れが押し寄せる。
その瞬間、銃声が鳴った。
一発。
二発。
三発。
異形の頭が次々と弾ける。
霧の奥から、黒いコートの男が歩いてきた。
サングラス。
手袋。
無駄のない射撃姿勢。
今度は、本物だとわかった。
理由は簡単だった。
偽物より、ずっと感じが悪い。
「ミシェル!」
ルイーズは叫んだ。
「今度こそ本物よね!」
「偽物なら、先にお前を黙らせている」
「うん、本物!」
ミシェルは返事をせず、銃を撃ち続けた。
黒い異形が倒れる。
黄金のものが顔を歪めた。
美しい皮膚が裂け、内側から灰色の肉が覗く。翼は羽根ではなく、細い虫の脚が束になったものだった。神々しい姿が崩れ、巨大な口が現れる。
それは悲鳴を上げた。
人でも獣でもない声。
霧そのものが震える。
ミシェルは動じなかった。
迫る怪物の口へ、銃口を突っ込む。
「下品な声だ」
連射。
銃弾が喉を貫き、後頭部を破裂させた。
怪物は数秒だけ立っていた。
それから、糸が解けるように崩れた。
地面に落ちたそれは、天使でも獣でもない。
毛の生えた無数のミミズが絡み合う、ただの汚物だった。
霧が揺らぐ。
遠くで、駅のアナウンスがノイズ混じりに聞こえた。
『……サン=マルタン……お忘れ物のないよう……』
ルイーズは膝に手をつき、荒く息をした。
「助かった」
「礼はいらない」
「言う前に断らないでよ」
「面倒だ」
「それで、どうしてここに?」
「家出少女捜索の任務だ」
ルイーズは固まった。
「……本当に本物?」
ミシェルは答えず、歩き出した。
「待ってよ。相棒を置いてく気?」
「一生経っても、お前を相棒にする気はない」
「ひどい。あたし、さっき死にかけたのに」
「いつものことだ」
「それもひどい」
ルイーズは頬を膨らませ、ふと視線を横へ向けた。
霧の中に、また黒い影。
「あ、来た」
「こっちにもだ」
ミシェルが淡々と言う。
「何体?」
「数える意味はない」
「でしょうね。ちなみに、あたし武器ないんだけど」
ミシェルは懐から予備の銃を抜き、彼女へ投げた。
ルイーズはそれを受け取る。
ずしりとした重みが手に馴染んだ。
「いい銃じゃない」
「俺の相棒だ。壊すな」
「嫉妬しちゃう」
「銃のほうが従順だ」
黒い群れが近づいてくる。
床を這い、壁を這い、霧を裂きながら、無数の目がこちらを見ていた。
ルイーズは深く息を吸った。
逃げるために乗った地下鉄。
忘れるために向かった田舎。
でも、運命というやつは、地下トンネルの暗闇みたいに、どこまでもしつこく追ってくる。
なら、撃つしかない。
ミシェルがサングラスを指で押し上げた。
「残らず始末するぞ」
ルイーズは笑った。
今度は、本当に笑った。
「いつも通りにね」
二丁の銃が、同時に火を噴いた。
パリの地下で、霧が裂ける。
白い闇の向こうから、夜明け前の電車の音が聞こえた。




