カタイ
私たち夫婦にその子が訪れたのは、本当に奇跡だと思ってる。
その子は、私たちの本当の子供のように育ってくれている。
代わりに育ててもらう、という妖怪の存在を知っているだろうか。
托卵に近いかもしれない。
その点では、カッコウなのかもしれない。
私たちの子供は、そんな子供だ。
数年前のこと。
私たちは、手野大学附属病院にいた。
国立大学の手野大学は、医学部があって、そこにある病院だ。
なぜ、私たちがここにいるかといえば、裏野ハイツと呼ばれる私たちが住んでいる家の近所の病院での検査がきっかけだった。
「ここに、影があります」
「影ですか……」
最初に受診しようとしたきっかけは、お腹を触った時の痛みだった。
それが徐々に動いているのを見つけた時には、絶対に何か悪いものがあると信じていた。
レントゲン、CT、MRIと検査を受け、触診や問診も終わってからしばらくして、その結果が出た。
「ガンの疑いがあります。一度、精密検査を受けていただきたいのですが」
近所の医師はそういった。
ここも大きい病院ではあるが、確定するには、まだ材料が足らないという。
生検もしたいと言ってきたところだ。
だからこそ、私たちは本当かどうかを確かめるための検査を受けることにした。
その検査は手野大学附属病院で行うことが決まった。
検査自体は、麻酔をかけてから行うものだから、痛みはほとんどない。
むしろ、暇すぎて何もできないということだ。
何もできないとき、私は空想の世界に逃げていることにしている。
ただ、今日はそんなことはできなかった。
私のお腹の中を弄り回されているのだから、それも当然ではあるが。
それ以外にも、がんの疑いがあるという話だからだ。
「……はい、楽にしてくださいね」
医師の検査が終わり、看護師が私の体を優しく拭いていく。
清拭というらしく、それ用のタオルを準備するようにと言う声が聞こえる。
大学病院ということもあって、いろんな人が受診しているようだ。
私たちもそのうちの一人。
旦那は会社員をしているが、私のために、今日は有休をとってくれている。
上司もわかる人らしく、私のためだといえば、承認してくれたそうだ。
「大丈夫かい?」
彼にもたれている私に、優しい声で聞いてくる。
「大丈夫だよ」
私はその声にそっと答えた。
「……さーん、検査が終わりました。3番へ入室してください」
看護師が私たちの名前を呼ぶ。
すぐにかばんをもって立ち上がるが、それもよろけてしまう。
とっさに旦那の腕をつかみ、どうにか立っていたが、少しばかり体力に不安がよぎった。
「奥さん、正直に言わせていただきます」
診察室3と書かれた部屋に入ると、医師が椅子に座って、カルテや撮ったCT画像を見ている。
何を見ているのかよく分からないが、怪しいのがあるのはわかった。
医師の表情が、それを物語っていた。
「ガンでしょう。卵巣がんだと推定します」
「卵巣がん……」
頭の血が一瞬で消えるような、そんな感覚だ。
ふらっとするが、立っていた旦那が腰で支えてくれる。
「手術ですか、それとも薬とか……」
「大きさは3cmほどだと思います。今は生検の結果待ちではありますが、十中八九そうでしょう。この大きさまで育つと、手術で全摘することが好ましいと考えます。ただ、他の部位に移ってはいないようなので、手術で取ると、大丈夫だと思います」
それだけが、私たちがホッとできる事柄だった。
1か月後、私は手術を受けた。
摘出してもらい、そして、私は子供が産めなくなった。
手術で分かったことなのだが、卵巣以外にも、子宮や卵管にも癒着していたらしく、摘出せざるを得なかったらしい。
ただ、手術前に、妊娠ができなくなるといわれていたから、心構えはできていた。
それでも、実際に私がそうなると、とてつもない不安があった。
今からだいたい3年ぐらい前。
私たちは眠っていた。
午前3時くらいだったと思う。
急に寒気を覚えて、夫婦同時に起き上がった。
「こんばんは」
菅笠かぶったお地蔵さんのような人が、私たちの足元に立っている。
枕元じゃないだけ、まだましだ。
「……誰だ」
旦那の第一声はそれだった。
まずは強盗と思ったのだと思う。
私だって警察に連絡を入れるべきかどうかを、頭の中で逡巡した。
携帯は遠く、地蔵もどきは、私たちへと掌を上に掲げて、万歳のようなポーズをしている。
敵意がないということだろう。
「わかっていただけましたか」
何一つわかっていない状態にもかかわらず、その人はそう私たちに言う。
ダブルベッドで私たちは眠っている。
そのベッドサイドに私たちは腰かけて、その人の話を聞くこととした。
手を下げて、手を横に自然に垂らして、その人は立っている。
「『カタイ』と言うのを知っていますか」
「なんだね、それは」
「仮の胎児と書いて、『仮胎』と言います。本来であればこの世界に生を受け、育ち、そして子孫を残していくはずだった子供たち。その子供たちの魂を、一時的に預けるということです。どのように育つかは、あなた方次第ですし、そもそも信じるかどうかも、あなた方次第となりますが」
「どういうことか、全くわからんな……」
「おや、わかりませんか」
本当は知っているでしょう、と彼は話した。
知っているも何も、本当に訳が分からない話の連続だ。
「仮胎は、仮魂とも書くことがあります。要は、未分化の魂、ということです。だから、仮の魂。本来であれば、ここから別れていくというところ、母親を通していないので別れられないのです。そこで、あなた方のようなご夫婦、すなわち、子供が欲しいご夫婦に協力をしていただきたいんですが……」
「……してみたい」
「えっ」
私のつぶやきは、旦那を驚かせるのに十分だったようだ。
今まで見たことがないほどの驚きようを見せる。
「奥様は、してみたいのですね」
旦那様は、と顔を旦那へとむける。
すこし考えさせてくれと言いつつも、もう心は決まっているようだ。
「わかった、お前がそう言うのだったら、やろう」
「ありがとうございます」
男は、この子です、と丸い球を私の掌に載せた。
「本来、十月十日かかるものを、省略します」
なにやら呪文のようなものを唱え、彼が球を右小指でなぞる。
「はっ」
最後に気を入れると、一瞬で赤ちゃんが泣いていた。
「ああ、最後にご注意を」
言い忘れていましたと、わざとらしく話す彼が、消え失せそうになっているところ、戻ってくる。
「本物の子供ではありません、そこはご注意ください。食べて、寝て、笑って泣いて。それでも、人間ではないです。せいぜい1歳、よくても7歳までが寿命だと思ってください。これは、閻魔様が考えた、子供への救済措置の一つなのです」
そう言い置いて、彼は消えた。
文字通り、その場所で影が消え、姿が消え、それから存在が消えた。
私たちのところには、泣いている赤ちゃんが残された。
信じてはもらえないことは分かっている。
私たちだって、信じてもらえないと思っているから。
ただ、分かっていることはいくつかある。
騒いでいても、その声は実際に見ていないとわからない。
一歩部屋から出たら、どれだけ騒いでいても静かだ。
上に引越しの弁護士さんがきたそうだが、その物音の方がよっぽど大きい。
そして、何より、時折透ける。
分厚い氷を通すような、それに水をかぶせたような、濃い青色が影になることがある。
氷河の色によく似ている。
それが、この子が本物じゃないと私たちに再認識させてくれる。
いつの日か消えてしまう、その瞬間は怖い。
でも、それまでは愛情たっぷりに、育てていきたいと思っている。
もう、子供は産めない体だけど、代わりにこの子が来てくれたのだから。