2‐10 夏を越えられない蝉
千宵子の名前の文字を知ったのは上狼塚喜一の強姦未遂から以降、数ヶ月が経った日のことだった。
片割れの朔夜とは疎遠な日々が続いていたが、ある一通の手紙が満晃のもとに届いたのがきっかけでそこからまた交流が始まったのだ。
手紙の内容は十五の年月を祝う【春祝言】という儀式の事だった。
春祝言とはその名の通り春に祝言が執り行われることを意味する。新年度の幕開け、新たな出発として結婚する。
上狼塚の家のしきたりの一つだった。
「もうそんな時期なのか」
父はため息混じりにそう言い募り、嬉しいような悲しいような複雑な顔をした。
満晃と朔夜には表からはわからない、だけれども深い溝があり断絶されている。形式上の手紙のやり取りにもいつ何時、鬱憤や皮肉を込めて書くかわからない。
上狼塚の祝言の儀式はその十五のとき、そしてふたりともが成人以上になったときの二度、祝言が行われる。
満晃はこの数ヶ月の間に上狼塚葵を村の外へ連れ出す計画を進めていた。
たった一度、一日でいい。中学生の満晃が出来ることなんて限られている。村の因習を否定することも父を超えることも出来ない。
未熟で不完全でも精一杯出来ることを実行に移してみることにしたのだ。
上狼塚の家にひとりで入る勇気も相当要る。
八月の最後の日に決行することにした。
行き先は上狼塚葵の行きたい場所で良いだろうし、朝に出て夕方になる前に帰ってこられればいい。
最悪、上狼塚家に問い詰められても全て責任を負うつもりでいる。しかし、そんな満晃のあさはかな計画はやはりすぐに粉砕されてしまう。
「君は優しいね。ありがとう。……きっと、私のこの間の言葉のせいだね。あれは、口にするべき願いではなかった」
八月最後の三十日の朝は、憎々しいほどの晴天で雲ひとつ無く、吸い込まれそうな群青が上狼塚家の裏門まで続くがひまわり畑たちの影を作っていた。明日の誘いをかけに上狼塚の裏門に来ると偶然にもそこには目当ての上狼塚葵が芝生の上の日陰の中でくつろいでいた。
「葵さん」と、無意識にそう呼んだ。
計画は失敗したし、上狼塚葵からはしっかりと謝罪の言葉も受け取っておきながら、未練がましく縋るように何度も何度もその名をループさせた。
「落ち着いて、満晃。なぁに、そんなに青ざめる事じゃない。十分嬉しいよ。君が誘ってくれる外の世界は広くて美しくてここよりも幸福なんだって。ちゃんとわかってる」
それならどうして。
満晃の初恋のような純粋な愛を上狼塚葵は知覚していただろう。どこまでも優しいその口調は少年の心を傷つけまいとする気遣いしかないが、それが余計に苦痛を与える。
「満晃ならよくわかっているよね。私は一生をここで過ごす」
そんなことは頭でよく理解できている。彼の人生は彼だけのためにある。言葉や気持ちは偽れないけれど精神は既に屈服してしまっている可哀想な人だ。
どうしようもなく可哀想なこのひとを満晃は好きになってしまった。
助け出してみたいと、願ってしまったのだ。
「……君は、もっと現実をみたほうがいい」
「外に出たことのない葵さんに、言われたくないです」
とっさに出た台詞に満晃は狼狽えた。
上狼塚葵は傷ついた素振りも怪訝な顔もせず、にこにこと笑っていた。
「私は聖人君子でも何でもない。料理も芋を焼くことしか能がないし、歌が特別うまいわけでもなければ文字も上手でない。無職で日がな一日家に居るだけの男だ」
「そんなこと!」
「そして向上心がない。……君のように稼業を継ぐための勉強をして未来への投資をしているわけでもない。私はとんでもなく怠惰で堕落した生活を好む輩なんだ。そんなやつに君が優しさを与える必要なんてどこにもないんだよ」
「……それでも僕は、僕……」
上狼塚葵の自己評価は正しいだろう。
そうであっても、恋は盲目と言ったように、満晃少年には認めたくなかった。
「僕は、貴方が……好きなんです。……そう、好き、で……え、えぇっと」
何を言っているのだろう。口を滑った告白にもう後の祭りである。
視界の端から世界が白くなっていく気がした。
首の裏から背中にかけて冷たい汗がつうっと滑り落ちていく感覚が胸の鼓動を早くさせる。
「私が」
私が好きなのかい?
満晃はぎゅっと目を瞑った。
自分は男で、彼も男で、十年と少しだけの人生の中でも、それは正しくない感情であるような気がした。
校舎裏に隠れて煙草や飲酒を繰り返す不良たちよりも、ずっと悪いことをしているような絶望に似た悪徳。
純粋な、悪徳。
「葵さんはご自分を過小評価するかもしれませんけど、僕は好きです」
「……そう」
そうなんだ。
驚いている、嫌悪する、もう二度と会ってくれないかもしれない。引き戻せない所まで来た。何の覚悟の定まらない心がビクビク怯えてる。
満晃は涙を必死に、必死に堪えて歯を食いしばるので精一杯だった。
「ねえ満晃。お願いがあるんだ」
蒸し返される草のにおいが鼻の奥をくり抜く。満晃は今までそらしていた顔を葵に向けた。木の葉のうすい影が、風が吹く度、美しい顔に映える。
葵は満晃を確かに見ていたが満晃はわかっていた。この人は自分を見ていない、自分より遥かに近くて遠いあの少女を見つめているのだ。
満晃の足元から這い寄ってくる恐怖は、強烈な嫉妬。そして敗北だった。
「私を好きと言ってくれた君にしか出来ないことがある」
「僕にしか?」
「うん。いいかい?」
満晃は当然のように頷いた。
そして誓いのキスを送られた。
永遠の愛も報われないと知りながら、この人と自分は決して交わることのない運命にあると知りながら、純粋な悪徳を帯びながら。
葵は好意を持つ満晃に口づけをくれる。相容れぬ運命の下。餞別に違いなかった。じっくり、じっとり。満晃は繊細な心と体で上狼塚葵との契約を受け入れた。
計画を当の本人に台無しにされた事は諦めるしか無かった。
それに真夏の炎天下でどうにかしていた。満晃は上狼塚葵の使い駒になることを受け入れ、さらに同性の上狼塚葵とキスをした事は、個人的に大きなスキャンダルで、言い換えれば弱みを握られたことにほかならない。
肝心の使い駒の役目についてはまだ教えられなかったが以前よりもずっと上狼塚の家に行く事が容易になった。ということは片割れの朔夜とも会う機会が増えるのも自然の理だろう。
「また来たのか」という言葉は屋敷に来る回数分聞いている気がする。朔夜が明らかな嫉みを満晃に向けていることは、満晃が上狼塚千宵子に抱いているものとよく似ていた。
「満晃さんいらっしゃい」
今日は村の会合だから兄さんいないの、と葵の部屋の真ん中で足を崩して座る上狼塚千宵子がいて、満晃は部屋に入ろうか入らないかで僅かに悩んだ。
千宵子と話すことは実はたくさんある。彼女自身に問うことで納得して充分な葵の糧になりたいとすら思えるのに、いざ彼女を前にしてみると、嘘をつきたい気持ちでいっぱいだった。
「入って。おやつ食べる?」
「おかまいなく。………それよりそっちの怪我は?」
「これ? たいした怪我じゃないわ」
千宵子の左手甲は包帯に巻かれていた。
怪我を指摘されて俯いたかと思えば顔を逸した。あまり触れてほしくない話題だったのだろう。
「よく気付きましたね」
「え?」
「なんでもありません。葵さんがいないなら、ちょっとだけ机借りてていいですか」
「いいよ」
双子を見分けるのは難しい。特にどちらか一人だけでいる場合は。
満晃が学校帰りで制服を着ているから見分けがついたにしても扉を開ける瞬間に声がかかったのだから、この少女は気配に敏い所があるのだろうと思った。
家に帰って手を付けるはずだった勉強や宿題などを机に広げていると千宵子は「お茶淹れるね」と小声で言った。
成人女性にも幼い少女にも見える少女が、この村の畏れを一身に引き受けまいとしてその兄が庇っている。
美談だろうか、可憐であろうか。それとも畏れることだろうか。――それでも胸の奥底に眠る引っかかりが拭えなかった。
葵のほうが勇敢で儚く美しいと満晃は沈思した。
「ただいま。待たせたね」
どれほど時間が経ったのだろうか。外は程々に暗くなり星が煌めいている。
そんなことに気が付かないほど満晃と千宵子の間には一切会話がなく、葵が帰ってきたことによって部屋の張り詰めた空気が和らいだようだった。
葵は満晃の隣に腰を下ろし、千宵子がさっそく淹れた熱い茶をすすった。
「今日は大事な話をしようと思う。………千宵子も、ここにいていい」
千宵子は部屋から出ようとしていたところだった。
ぎこちなく彼女は満晃と葵の近くに座り込み「なにか企んでるのね?」と葵を疑った。
妹を一瞥し「まさか、そんなに身構えないで」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
葵は笑みを崩すことはなかった。
「君たちもいい年ごろだから、考えたことがある話だよ。――人はいつか死ぬんだ」
死。
それは何も古びたことでも真新しいことでもない。人が当然のように享受する終焉である。正しい人であれ、悪人であれ、どんな人にも平等に訪れる。葵は「僕も例外なくね」と付け加えた。
「だけれど、世の中には不思議な事がたくさんあるんだ。例えば、不老不死の人間、とかね」
「兄さん?」
葵の発言は何がいいたいのかがわからない。小首を傾げたのは満晃だけではなかった。
「僕もその人に会ったことがあるわけじゃないけど、恩人なんだ。僕だけじゃなく、君たちも、ね」
「兄さん、何の話?」
「彼女は長い旅を続けている。でももうすぐ旅が終わる。その時、きっと会えるんだ。―――君たちには、彼女にお礼をして欲しい」
葵は会ったこともない人間を恩人と言った。さらにその人間にお礼をして欲しい、などとちぐはぐな答えである。満晃は葵を愚弄する気など微塵もないが、彼の言葉はつぎはぎだらけのガラクタに過ぎないと、そのときは思っていた。
「満晃。――君は、村の外で生きるんだ」
「え?」
突然はっきりとした物言いに変わった。満晃は言葉に詰まった。なぜなら、この村の御三家であり唯一の診療所の跡継ぎである。そんな未来を突然捻じ曲げられたのだ。中学生はまだまだ子供かもしれない。しかし満晃の心の中には既に将来への展望が、一筋の道を編み出していたのに。
「なに、医者になるな、なんてことは言っていないよ。そうじゃない、君はここで生きるより、外の世界に出るべきなんだ」
「葵、さん……」
「この間、君は僕を諭してくれたね。それの返事だよ。君こそ、ここより可能性を試す場所がある」
ちっぽけな村だ。若者は都会に出ていき、いずれは過疎地となる。村の因習がなんとか縛り付けてきた一面もあっただろう。しかし、その言葉の意味では――この村は、風東村は終わってしまう。
「僕はここから離れることはできない。だけど、もし君に善意が備わっているなら、僕の望みはこの村と終わることなんだよ」
葵の望み。あれだけはぐらかしておきながら、それが答えだ。
「ゆっくり、ゆっくり終わるんだ」
葵は千宵子の茶を含み、一度息を吐いた。
「口先だけではなんとでもいえるね。そうだな、………まず手始めに―――」