2‐6 瞬く星の下
淡い星空の下だった。
両親が探しに来るだろうか、と冷め切った頭の片隅で考えたが今は家にも帰りたくない気分なので現実的な思考を放棄した。
冬の寒空、染まりきった闇の世界で満晃はひとりぼっちになった。両親がそろそろ帰りの遅い息子を心配し出す頃だろう。そんなことを頭の片隅で考えたが、今は家に帰りたくない気持ちでいっぱいだった。
人がめったに寄り付かない朽木は切り絵のようにくっきりと黒いシルエットになっていた。
得体の知れない魔物のような、今にも迫ってきそうなソレは昼間以上に不気味だったが満晃は怖いと思うよりも馴染み深い安堵のようなものを覚えた。
ここまで来たのだからもう少しだけいようと満晃は思い、剥き出しの冷たい土の上にすとんと腰を落としランドセルから一枚だけ予備に入れていたカイロの封を切って身につけた。今は冷たいが直にマシになるだろう。
胸の中には大きな隕石が孔を空け、頭の中には考える隙間がなくなるほど不安の海水が揺れていた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
膝を抱え込んだまま下を向いていた頭を持ち上げ漆黒を仰いだ。
「帰らなくちゃ、いけないんだろうな」
本当は帰りたくない気持ちでいっぱいだった。家に帰るといつもの時間が、日常が回り始めて、負いたくもない傷をつけられて。そして縛られてしまうのだ。
ぎゅうぎゅうに締め付けられて圧されて、すり潰されたブルーベリーのように体から心から、魂から血が滴るのだ。
「ばかみたいだ」
自嘲気味に温かい吐息と一緒にその言葉が外に出て、内なる心をまた責めた。
満晃はもう一度頭を抱えて下を向いた。どこか遠くへ行って、あわよくば消えてしまいたいと思った。
その時、少年の傍らに温かい気配が寄った。
「ぼくは、帰らない」
この場所を知っているのは、あの女の子だけだ。
「帰らない、あっちいって」
動く気配のないそれを左手で叩くと、それは違和感を伴い満晃は驚きのあまり飛び退いた。指の腹を掠めたのは人肌でもなく繊維のぬくもりでもなく、獣の外皮だった。
「い、いぬ…」
ドーベルマン?シェパード?
満晃は犬が怖い質ではなかったが暗闇に紛れて鎮座するそれには言い知れぬ恐怖を抱いた。
触れると噛まれそうだと伸ばしかけた手を引っ込めて、まじまじと目を凝らしそれが現実の世界なのかを確かめた。
「野良犬? そうだよな、首輪がついてないし。腹が減ってるのか?」
手持ちには何もない満晃は困惑した。もしかすると自分が喰われてしまうかもしれない。家には帰りたくないがここで死ぬのも違う気がする。
「……ぼくは逃げてきた。どうしようもなくなって。どうしたらいいのかわからなくなって」
野良犬は静かに少年に寄り添った。人ではない温もりに慈悲すら感じられる気がした。
「ぼくも、お前みたいに自由になれたら」
堪えていた感情がこみ上げてきて眼の奥や目頭を熱くさせ、血を濾した体液が頬を滑る。野良犬は僅かに唸ってみせたが凶暴な性格ではないので、それっきりだった。
「家にも、この村も関係ない、誰もぼくを知らない場所に行きたいんだ。でもそれってとっても簡単なことで難しいことなんだ」
おかしな風習や家の関係、ましてや片割れすら社会の餌食となった。憤りは感じない、あるのは自分もこの環境に順従し大人たちのように仮面をつけながら生きていく事への絶望感だけだった。
そして家を継ぎ適当に結婚し、村のために尽くす人生となる。
「朔夜がおかしくなったのはオオカミ様のせいだって」
葵さんは非道いことをしない人だけど、悪いことを都合よくするには誰かのせいにしなくてはいけない。だから村人は事あるごとにオオカミ様の呪いと口走るのだろう。
満晃の言葉を犬は傾聴し、金に輝る瞳が少年を見つめた。
認めれば楽になるのだろうか。オオカミ様の呪いを信じたくはないけれど、それが辛いのは上狼塚葵の存在のせいなら諦めたほうが楽になるのではないだろうか。
「……僕もそう思う」
そう思うことでしか、心の中のわだかまりは消化しない。
心の弱い少年の戯れ言が煙草の煙のように空中を彷徨う。言葉とは言霊の力というものを秘めている。
「この村の変なことも、大人たちもみんなおかしいのは、全部オオカミ様のせいなんだ……! 上狼塚がいるから、いけないんだ」
胸の中の肺や心臓が痛くなった。
上狼塚と口にしてはじめに現れるのはやっぱり上狼塚葵だった。あの人の存在を、出生を否定する言葉は使いたくなかったけれど。
満晃は背中に貼ったカイロが熱くなっていくのを感じた。それが胸の痛覚を紛らわせるのには十分だった。
「あれ……」
いつの間にか空が白み始めていた。
空腹も寒さも忘れて眠っていたということだろうか。凍死してもおかしくなかっただろうに。もしあの野良犬が気を失った満晃を守り温めてくれていたとするなら。
「あの犬に助けられたのかな」
透き通る空気、濃紺が青白い光に混じって夜明けを知らせる。
夢を見ていたかのような朝。もう傍にあの犬はいなかった。