2‐5 彼女の名前
梅の花が咲く頃になると、朔夜のその反抗的な態度が日常にしばしば陰を落とすようになった。
家の中、外、学校でも二人きりの空間に於いて、表面はなめらか、だけれども鋭利な切先がそっと首先に宛てがわれるような言葉で朔夜は満晃を詰った。
「僕は上狼塚の人間なんだぞ」
朔夜の口癖だった。
だから、満晃は上狼塚に従わなくちゃならない。
選ばれたのは、朔夜。
選ばれなかったのは満晃。
かわいそうな、満晃。
はじめのうち満晃も目には目を歯には歯をと言った様に反撃の機会もあった。
しかし彼の言う通り、満晃は鳳満晃で、朔夜は鳳朔夜では無くなっていた。
いつもの朽木前に彼女はいた。
あの人によく似た、女の子。
女の子の名前は聞いたことがなかった。
どうしても耐えられなくて、しんどくなった時、一人になりたくてもなれない時はこうして彼女の元を訪れた。
少女はいつもこの寂れた殺風景な世界に佇んでいた。彼女には悪いが。彼女はその風景によく馴染んでいた。
そして今日も、満晃が来ると母のように優しく微笑んでくれる。
「いらっしゃい、満晃さん。今日は焼き芋を持ってきたの、まだ温かいわ。食べて」
彼女の隣に一人分ほどの距離をおいて座った。
新聞紙に包まれた芋を半分に割って差し出して、満晃が慎重に受け取り「この芋甘いのよ、とっても美味しいの」と朗らかに笑う彼女。
「満晃さん、甘いモノ好き?」と愛くるしい子猫のように首を傾げた彼女に素っ気なく「そうかもね」と返事をした。
一口、二口。
皮はパリッとしていたが中は柔らかく、甘く美味しい。
「やっと笑ってくれた」
じゃあ、私の分も食べていいわ。
せっかく半分こにした芋を一口も食べずに満晃にくれた。
「いいんですか?」
「ええ。……さ、食べて食べて! 家にまだたくさん残ってるから、食べ切らないと」
「そんなに? お裾分けとかしたらどうです」
「……そうよね」
彼女は苦笑した。
貰ってくれる家があれば、嬉しいわ。
「満晃さんがたくさん食べてくれたらいいの。……兄が芋を焼いて、私はそれを届けるから」
「葵さんが焼くんだ」
枯れ葉、木の枝を集めて庭で一人火の番をする。そんな情景が思い浮かぶと、笑みを禁じ得ないではないか。
「ね。おかしいでしょう。……日がな一日それをやってるの」
楽しいのかしら。彼女も袖で口元を抑えそのシュールな絵面を浮かべて笑った。
やがて降り落ちる沈黙。
肌を刺激する冷風が満晃達の間を掻い潜り木の葉を打ち鳴らす。
「ゴミ、どうしよう」
「私が持って帰るわ」
「ありがとうございます」
あっという間に食べ終えてしまった。
手元に広がった新聞紙を手毬ほどの大きさにぎゅっと丸めて彼女に手渡すと左の手の甲と手首の隙間から包帯が見えたらしく、彼女は不安そうに満晃を見つめた。
「なあに、これ?」
「ちょっとした怪我だから、心配しないでください」
「心配しない方が難しいわ」
この怪我は、ただの怪我ではなかった。
手首から十センチ程の切り傷が二辻あって、朔夜に歯向かった際のお仕置きの跡だった。
今にしてみれば尋常でない精神状態にあった事は確かなのだが、だが朔夜も満晃も同じくらいおかしかったし誰にもそれは止められなかった。
「自分でやったの?」
「……はい」
「本当に?」
「はい」
彼女はすぐに見破っただろう。
しかし当時の彼女は思慮深く、敢えて深入りを避けた。もう一度問い質すような事はしない彼女のその優しさに満晃は甘えた。
数日後の学校帰り、満晃は馬宮修と一緒に夕日照る中を歩いていた。
長く伸びる影を追う。
修は何度も隣の満晃をちらちらと見たので痺れを切らし「どうしたの」と口を開くと「ああ、その」とか「えっと」とかはっきりしないまま修の家の前まで来てしまった。
ついに出た言葉は、「僕、春からここから引っ越すことになったんだ」という別れの報せだった。
「この村から?」
「うん。……父さんが、そうしろって。何があったのかはわからないけど」
「………」
「怒ってるよね、ごめんね。こんなこと」
修の言葉が白い吐息のように空気に溶けていく。満晃は怒っていなかった。ただ言葉にならない切ない心持ち故の無言を呈しているだけだ。
「最後の一年くらい、ここにいたかったなあ。…………満晃と卒業したかったんだ」
「僕も、……修ともう少し一緒が良かった。この事、爽太たちには言ったの?」
「うん。二人とも満晃と同じだった」
「そりゃそうだよ」
山の方からカラスの鳴き声が聞こえてくる。差し込む赤い夕陽が目に染みて痛かった。
「朔夜には?」
満晃はそう続けた。
修は唇をきゅっと結び顔を横に逸らした。
「言えなかった。……だって、すごく……怖くて」
「何かされたの」
「……満晃と同じだよ。だって、おかしい! おかしいんだよ! 最近の朔夜ったら……!」
修が言うには、満晃に対するような事と殆ど同じことをするらしい。満晃は修の背中を擦って落ち着きを促した。
「変なんだ。去年の祭の後からおかしいとは思っていたけど、今はもっと……っ!」
頭の中にはいつものあの暗闇が浮かぶ。黒に紛れて佇む朔夜が此方を猛獣の目つきで見据えている、さしずめ自分は喰われそうになる剥き出しの生肉のようなものだろう。
まさか修にまで危害が及んでいるとは思わず、全くの想定外で満晃ができることは彼への謝罪しか無かった。
「きっと、オオカミ様のせいだ。オオカミ様の、上狼塚の呪いなんだよ。だからっ……おかしくなったんだ! 朔夜はあんな子じゃなかったのに!」
「オオカミ様の、呪い」
「毎日毎日、あの家に行って何してるの? 満晃にも教えてくれないんでしょ?」
そんなはずはないと。それを認めたくないもう一人の満晃が庇うように言った。
「満晃助けて。朔夜を。できるのは、君しかいないんだ……!」
「修……僕は」
満晃は普段滅多に取り乱さない修に戸惑いの余りなにも言えなかった。よく知った人がオオカミ様で、その人のせいで朔夜が豹変し攻撃的な性格になった事実を受け止めたくなかったからだった。
狼狽える満晃の背後に何かがやってくる。
幽玄的なまやかしでも幻覚でもないそれは、満晃たちと同じ夕焼けから生み出される陰の中にいた。
「よお」
端的に発せられた呼び掛け。
黄昏の逢魔が時から現世へと誘うのは一人の少年だった。爽太ほど細長くは無く爽太よりは野性味ある風貌で、その当時の風東村の村社会においての異端児は鳳満晃と馬宮修を見つけると冷笑を浮かべた。
その少年は満晃たちとは違う価値観を持つ村の外側からやってきた子供だった。春から同級生となる満晃は複雑な気持ちに襲われた。修と入れ替わりに転入してくるのだから、満晃と同じ気持になるのは何も彼だけではないだろう。
「似鳥……」
「怖いよ鳳くん。よそものに厳しいのは大人だけだと思ってた」
修は赤くなった顔を隠すように似鳥八尋とは反対の方を向いた。似鳥八尋と鳳満晃が対峙し異様な雰囲気を醸し出すなか夕日はどんどん傾いていく。
「父さんは研究者なんだ。なんていうか、こういう古臭い場所とかの」
「物好きなんだね」
「だから去年祭で選ばれた鳳朔夜の事が気になってるみたい」
また自分を片割れと間違っているのだと満晃は思った。たった今し方の少年二人の会話さえ聞いていなければ。
「僕のことが、気になるの?」
満晃は満晃にしかわからない片割れである朔夜独特の癖を真似しながら言葉を発した。彼は言葉のブレスを行うと次に来る音が少し弱くなる。舌足らずになってしまうどうしようもない癖があった。
背後に立っていた修が身じろぎした、が口を挟むことはなかった。
「そう。だから友だちになっておけって」
「そんなこと言ってしまっていいの?」
「言わないほうがみんな俺たちを疑うだろ」
「そうだね」
満晃は迷った。朔夜を演じる事も彼が何を考えているのかも、それを口にだすことも。
「この村は狼が出ることが有名だけど、噂にすぎないんじゃないかな。僕は一度も見たこともないし、だから君のお父さんが狼目当てで村に住むなら早くやめたほうがいいよ」
「俺は一言も、狼目当てなんて言ってないけど」
「大した村じゃないよ、こんなところ」
似鳥八尋の父、似鳥努は市内の大学で民俗学を研究していた。
そういう話を噂で知ったに過ぎないが八尋が昨年の祭で正し子に選ばれた鳳朔夜に近付くことも至極当然といえた。狼目当てでない、というなら似鳥の目的は別なところにあるのだろう。
「オオカミ様」
「え?」
「みんな口を揃えて言う。村には狼じゃなくって、オオカミ様がいるんだって。上狼塚って家にいるらしいから気になってるんだ」
「オオカミ様が、知りたいの?」
似鳥は何処までこの村のことを調べ、知ってしまったんだろう。
修が満晃の右肩を掴むと「もうやめようよ」と叫んだ。
「君も何か知ってる? 馬宮修くん」
「いや、僕は……僕はなにもしらないよ……」
弱々しく修は言葉を濁した。しかし似鳥八尋の視線は亀裂が入りそうなほど鋭く厳しいものだった。
「さっき聞こえたんだ。馬宮くんがオオカミ様!って大きな声で言っていたね」
「ひっ……あ、う」
「知っているね、馬宮くん。オオカミ様の呪い? だったっけ、そうとも言っていた」
「そんなこと」
修は必死に声を振り絞り抵抗を試みた。けれども一度足りとも彼の耳に入ってしまった言葉は取り消せなかった。
「似鳥には関係のないことだ」
「み、満晃……! あっ」
世界が終わったような静けさが辺りを包み込み、永遠に明けない夜がすぐそこまで来ている。忸怩たる思いをそのままに修は打ち震えた。
「うそつきなヤツなんだな、お前」
「朔夜に手を出すな」
「なんでだよ? 朔夜は……そっちの馬宮みたいに口が軽いの?」
「そんなじゃない」
危険なんだ。今の朔夜はとても。片割れの満晃でも止められないくらい。
「危険なんだ」
「キケン? どうして」
「それは」
修の言った、オオカミ様の呪いという言葉が脳裏を掠めた。
オオカミ様は悪く無い。
オオカミ様はこんな事をしないし、でも朔夜がおかしくなったことは呪いのせいにでもしないと説明できないくらい不可解なことだった。
上狼塚は村社会のヒエラルキー上位に君臨するがそれもあくまで、この村限定だ。そんな粗末なものに魅入られてしまった彼への失望。それに似た感情が満晃の心を巣食う。
「ああ、そっか」
似鳥はまた意地の悪い笑い方をした。他人なのに彼のほうがよほど朔夜に似ている。
「これがオオカミ様の呪いなんだな」
その言葉を聞くやいなや満晃はその場を飛び出した。風に紛れて後ろから修の声が聞こえた。そんなことはお構いなしに能動的に、本能的に走った。
坂を越え、農道を越え、神社の境内を越え、そしていつもの朽木の前にやってきていた。
もう夜だ。
寒い寒い夜に被さる星の粉が散りばめられた空が少年の心を余計に虚しくさせていった。