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蚕のひと  作者: Hank Memory
2章 狼の呪い
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2‐4 初恋


 それから幾度と無く満晃はその少女と会った。

 学校が終わると爽太に遊ばないかと誘われることもあったが、なんとなく彼女と会えそうな日は誘いを断ったりを一年ほど繰り返した。

 上狼塚の女の子と会う、というのは同級生や上級生の女の子と二人きりになることよりも怖いことだった。

 なのに満晃は恐怖や世間の目といった事を極力気にしない様に努めて、放課後は山の入口にある朽木を訪れた。


 「今晩は、冷えそう」

 彼女が言った。

 季節はもう秋も過ぎ、冬になろうかというところだ。

 早朝に雨が降れば水溜りが凍るし、山の装いもすっかり心許ない。

 「温かくして眠ってね」

 太い木の根元に腰掛け少女は満晃に笑いかけた。

 足をばたつかせ地面に積もる枯れた葉を鳴らし上機嫌な様子だ。

 満晃は持ってきていた勉強道具と父が買ってくれた宿題とは別の課題を平らな地面に押し付けて黙々とこなしていた。

 「満晃はお勉強熱心なのね」

 「まあね。朔夜とは違って、僕が鳳の跡継ぎだから」

 「ふうん」

 興味あるのか無いのかわからない返事だ。

 「あなたは勉強しないの」

 「わたし? 一応、できるわ。たぶん」

 「たぶん?」

 なんて心細い返答だろう。

 残念だが満晃には彼女が学校に行って勉強しているようには見えなかった。

 憲法や法律では義務教育は必須だし、親権者は必ずそれを成さなければならないはずだ。

 最も彼女の親がまともであればの話だが。

 上狼塚に関しては謎が多く、あの青年にしろこの少女にしろ存在自体が秘匿されている。

 「文字くらい読めるでしょう」

 「読めるわ。……もしかして私が勉強できないと思ってる?」

 「ええ」

 「失礼ね!」

 彼女は心外だと言わんばかりに吠えた。

 それを受け流し、満晃は厚手のジャンパーのポケットからみかんを数個取り出しそれを彼女の方向へ投げやった。

 上手に受け取って「食べて良いのかしら」とわざわざ聞いてくるのは育ちの良さが表れている。

 「いいよ。……今度は熱いお茶を持って来ます」

 「気を遣わなくていいのよ」

 「今よりずっと寒くなる」

 そうね。

 彼女はそれきり言葉を切って、みかんを食べることに没頭した。

 「葵さんは元気ですか」

 「葵? ああ、兄のことね。元気よ、それがどうかしたの?」

 「最近臥せっておられるとか。父さんが、言ってたから」

 「ただの風邪よ。あの人、丈夫じゃないくせに動き回るし」

 ふふ。と微かに笑う声が後ろで聞こえた。今彼女がどんな顔をしているのかは容易に想像できた。

 あの美しい兄の妹なのだから。当時の満晃は彼の面影を妹に重ねて見ている節があった。

 また彼らはよく似た兄妹だった。まるで僕らのように。

 たったそれが性別という境界線があるだけで。

 だから。

 彼女が笑えばあの人が笑う。

 彼女が此方を見るとあの人の優しげな眼が此方を見る。

 「兄に、会いたいの?」

 「え?」

 「そんな顔をしているわ」

 どうして。

 満晃の背後にいるなら見えるはずがない。

 「そんな気がするの。兄も、満晃のことをたまに聞いてくるもの」

 「そう、ですか」

 それなら。嬉しいと、心底思った。

 あの人の心のなかには誰が住んでいるのだろう。

 いつも何を考えているのだろう。

 「今朝も、玄関先で言われた。満晃は今日、みかんを持ってくるはずだって」

 「は…? 予想通りでしたね」

 「ええ。兄もみかんが好きなの」

 満晃は漸く背後を振り返った。

 彼女はニコニコ笑って此方を見ていた。

 「最後の一個は、兄の分として持って帰るわね」

 そうしてください。

 満晃がそう言うと彼女は一瞬だけ、困った風になった。

 「あなたは、優しいわ」

 「どういう事ですか」

 「……優しすぎる。……なんでもないわ! 今のは、忘れてね」


 それじゃあ、そろそろ帰るわ。

 彼女はゆっくりと立ち上がってカサカサと音を立てながら山道を歩いた。

 満晃も慌てて身支度をして彼女を追い、並んで歩いた。

 「送っていきます」

 「大丈夫よ、わたしは」

 「でも」

 「……じゃあ、家まで送っていってちょうだい」

 上狼塚の家は村の外れにあるが山を経由すれば直ぐだった。

 途中から懐中電灯をつけ足元に気を配っていると彼女より五歩先に歩いていることに気がついて満晃も足を止めた。

 「どうしました?」

 満晃の呼び掛けに対して、彼女はなにか言いたそうに口を開けたり閉じたりを数度重ねたが、結局何も言わないでまた微笑んだ。

 「いいえ。行きましょうか、満晃さん」 



 上狼塚家の玄関先。

 野巫に次ぐ家なだけあって豪奢な門に圧倒された満晃は何度も彼女と家を見比べた。


 実は上狼塚に訪れたのはこれが初めてだった。

 普段ここへ来るのは父や野巫さん、爽太や修の父親たちで各々の家の当主だけだ。

 急に緊張が募り、寒いはずなのに背中に汗が伝った。

 「ここで良いわ。ありがとう」

 「は、はい。……では」

 門を開け中に進む彼女の背中を見送って、満晃も家を目指そうと歩き出した時。

 「満晃」

 彼女と入れ違いに出てきたのは朔夜だった。

 声に元気がなく俯きがちなので満晃は「大丈夫か?」と言葉をかけ優しく労った。

 「大丈夫? はは、そう見える? そんなふうに見えるのかなあ」

 「朔夜、……どうしたんだ、その顔」

 「……顔? わかんない、満晃僕どうなってるの?」

 朔夜の顔。

 朔夜の左頬には大きな痣ができていた。

 「家に帰ったら冷やさないと」

 「……怒られちゃったんだ、僕が悪いんだけどね」

 「誰が?」

 誰がこんなことをしたんだ。

 「……オオカミ様」

 「あおい、さん?」

 「葵? へえ、あの人……葵っていうんだ。すっごく怖かった」

 葵さんが朔夜を打ったのだろうか。

 本当に?

 満晃には到底信じられるわけもなく、「本当に?」と何度も訊いた。

 「満晃しつこいよ。……でも、その様子だと知ってるみたいだね、葵さんと何処かで会ったの?」

 「まあその、うん。一年前くらいに……」

 「そうなんだあ……、満晃は腑に落ちてなさそうだね、葵さんっていつもは優しいのかな」

 「やさしいよ」


 そうだ。

 満晃の知る葵はこんなことをしない。

 だから少し、悲しい気持ちになった。

 彼にはためらいは無かったのだろうか。

 真に上狼塚葵がどんな人物であるかなど推敲に及ばない、これは勝手な少年の願望に過ぎなかった。

 満晃はまるで自分自身が打たれたかのような衝撃を味わい、その痛みは頬だけでなく、胸の中の弱い部分すらも蹂躙する。

 思わず涙がこぼれた。

 「泣いてるの満晃」

 何の色もない、抑揚のない声音だった。

 「泣いてなんか……ない」

 聞いているのか聞いてないのかそれとも興味が失せたのか近くに感じていた片割れの気配は僅かに遠ざかった。

 朔夜に心の中が知れてしまっただろうか、もし知られたらどうしよう。満晃は途端に恥ずかしくなって追い縋るように「朔夜!」と叫んだ。

 「あんまり大声出さないでよ、ここ上狼塚だよ」

 「わかってる。わかってるよ、でも!」

 「変な満晃。顔真っ赤だよ。……誰にも言いっこないよ泣いてたなんて」

 暗闇の中でもわかる朔夜の笑みはとても残酷に見えた。

 朔夜は満晃の半身で感情的な部分だからこそ怖くて怖くて堪らない。


 「好きなんだね」

 その言葉が、半身の、片割れの、朔夜がそう言った。

 「誰が」とは言わない。

 それが朔夜なりの反抗的な姿勢であり、満晃の弱みを握った愉悦、そして勝利宣言だった。


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