2‐3 某日
帰宅した。
家の中(といっても診療所の奥に自宅がある)に入るとちょうど診察を受けていたと思われる村人たちに声をかけられた。
満晃は愛想よく挨拶を一言述べ家に通じる扉を開けた時だった。
診察室からいつもの白衣にマスク姿の父が出てきて満晃にお使いを頼んだ。
「薬品庫のドアを閉めてきてくれ」
薬品庫は地下の手術室前にある部屋のことでこの間と同じだがすこぶる怖い場所にある。
父に悪気はないのだろうが満晃は内心毒吐いたし断れなくて素直に「はい」と頷くしかなかった。
地下室に通じる階段に明かりをつけ、懐中電灯を片手に地階まで降りるとやっぱり薬特有のつーんとした臭いで頭がくる感覚に襲われた。
その臭いが地階一帯を覆っていて満晃は妙な胸の高鳴りを覚えた。
手術室のドアは固く閉じられている。それをわざわざ開けるほど勇気が備わっていないし、開いたら思わず悲鳴を上げてしまうだろう。
手術室手前の薬品庫はというと意地悪にも扉が半開きになっていて満晃は唇を噛み締めた。
自分の家なのに落ち着きがなく、なおかつ恐ろしいというのはどうだろう。
「ホラー映画の観過ぎなんだろう、ああ。きっとそうだ」
自分自身を励ますように満晃は右手の拳を固く握って膝に叩きつけた。
よし。
勇み足になり薬品庫の扉のノブを掴んだ時。
かすかに耳打つ音に満晃は金縛りにあったように動かなくなった。
ひんやりとする。全身のあらゆるところから血の気が引いていって吐く息にも熱がない。
なんの音だろう。
確かめたいけど、そうしないほうが良い。しかし好奇心には抗えない仕組みなんだろう、人間というやつは。
なぜあの時確かめたのか。
「誰か、いますか」
すごく情けない限りだが、満晃の声は風の中をぐるぐる旋回する凧のように揺らいでいて今にも糸が切れてしまいそうなほどだった。
本当に地下室なんてところに幽霊やそれの類なんてものはいないんだ。
なぜそれまでにして満晃が信じていたかというと、単純に父の仕事場なので遊び場にされないように怖い話を言い聞かされていただけだったに過ぎない。
なにより鳳医院の地下より怖い場所などこの村にはたくさんある。
今にも泣きそうな満晃は、何もなければすぐにドアを閉めて地上まで駆け出そうと決意した。
薬品庫の中は薄暗く、たくさんの棚の中に薬瓶が整列されている。
「し、しめます」
満晃は瞼をぎゅっと瞑った。
「待って!!」
満晃の耳に届いたのは確かに人間の声だった。
甲高く、綺麗なソプラノだ。
目の前が真っ白になり、開いた口から声などは出ず風船から空気が抜けるように呆気なかった。
その刹那。
なにか重いものが満晃の体を覆い、そのまま床に傾れ込んだ。
鈍い背中の痛み。
灰色の天井と黄味がかった壁、そして蛍光灯の光が逆光となり黒い人型が満晃の腹の上にのしかかり、此方を見ていた。
永遠に時が止まったかのようだった。
満晃の頭のなかには常識だとか今日学校で習った確率の問題だとかそういったものすべてが無意味で無駄で無為な時間の積み重ねのようで、何一つ跡形もなく消えていく。
つまり、糸が切れてしまった。
「起きて、立って」
満晃は蛍光灯の逆光の中、その人型の輪郭を目で追いかけた。
華奢で、細く、矮小。
それが満晃の上から退く。
流れるような所作。
幽霊画のように蒼白で艶めかしく胸の奥底を持ち上げる感情に少年は戸惑いを隠せなかった。
色素の薄い髪、柔らかい色白の肌、心の中までも見通すような強い金色の眼光が起き上がることすらままならない満晃を貫いた。
「お前、…だれだ」
「お前? 私に向かってそう呼ぶのね、ひどいやつ」
満晃は口元を抑えた。
また余計なことを口走りそうになった事もあるが、なによりこの女の子とは初対面ではなかったことに気付いたからだった。
そう、思い出す。
祭の前日だ。
前日に、この女の子と出会った。
名前も聞けずに終わってしまったが、それが今よくわからない状況の中で再会を果たした。
女の子は相変わらず着物姿でそれは一見どこかの令嬢にも見える。
そして満晃は少女に対する既視感をあの青年のものだとも悟った。
「あなたは、…そう。上狼塚だ」
少女は図星なのだろう、躊躇いがちに頷いたが苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
「それじゃあ、あなたは満晃なのね」
「そうです。僕が、満晃だ」
なぜ満晃だと判ったのか。
そんなことは簡単だ、なぜなら毎日のように朔夜が上狼塚を訪れるのだから同じ屋根の下顔を合わせることもあるだろう。
「……いい加減立って、早く外に出ましょう。ここは寒いし、気持ち悪いわ」
少女は大層な力持ちなのだろう、満晃に手を貸すとあっという間に立ち上がらせた。
満晃よりも年上だとしても女の子にこんな事をされては面目ない。
地上へ出るまで二人は何も喋らなかった。
ただ繋がれたままの手と手が熱を持ち汗ばんでいくのをじっと堪えるだけだった。
どうして彼女はこんな地下にいたのだろう。
それが不思議で奇妙で恐ろしい。