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61.今までの人生で何か後悔していることはありますか。
祖父が死んだ時の振る舞いですね。祖父は私が中学二年生の時、七十二歳で亡くなりました。ある時期から体の具合が悪くて、もうそう長くはないという病院の説明だったので私と父母は祖父母の家で待機していたのです。晩秋でした。まるでパソコンの絵描きソフトで着色したかのようなむらのない青一色の空の日のこと、私と父母はいったん病院から祖父母の家に戻って歯磨きなどの生活の身支度をしていました。その時電話があって、受けた母の声が切迫してすぐ色褪せたので、そばで聞いていた私にも何があったのかは凡そ見当が付きました。母は私に祖父が死んだと言いました。私はただ、うん、とだけ答えたように記憶しています。私の心は不思議と凪いでいました。
それから父の運転で病院に向かい「お悔やみ申し上げます」だったかそのような感じの言葉を看護婦にかけられながら病室で死んでいる祖父に対面しました。対面と言っても、正確には祖父はベッドの上で天井を見上げているのだから、私に見えるのは横顔ですが。その横顔は生前と変わらず、少し痩せた口元に機器がついていないだけでした。母が泣き出しました。続いて父が、一回だけ、鼻を啜りました。私は祖父をじっと見て、しかし涙は湧いてきませんでした。祖父の死。これは悲しい場面で、泣く場面です。なのに私の目はどうしても滴を零しませんでした。父母や祖母、看護師などが背後で動き回る中で私は佇立し、祖父の皺の寄った口元をただただ眺めていました。
それから通夜、お葬式、となったのですが、通夜で祖父の唇を木の葉で湿らせた際も、私は泣くことができませんでした。とにかく通夜という作業をきちんとこなさなければというよく分からない使命感でいっぱいでした。葬式は風の強い肌寒い日で、私も肌寒い思いでいっぱいでした。読経が乾ききって会場に響いていました。その時には使命感も特になく、ただなんとなく、といった漠然とした感覚で参列していました。そしていよいよ出棺という時、私といとこ三人の、計四人で棺の角を持つという運びになり私は配置につきました。その時私は、盗むようにいとこの顔を確認しました。いとこは泣いてはいませんでした。私は、ここは泣く場面ではないのだと思い、妙に安心しました。同時に、どう振る舞えばよいのか分からずいとこの顔色を確認して泣くか泣かないのかを決める自分を、心底嫌だなと思いました。
結局私は泣かずじまいでした。そんな自分を鮮明に憶えていて、いくらおじいちゃんが怖かったからといってそれは酷薄に過ぎると思い、それから、そんな時でさえ周囲を見回して振る舞い方の正解を探してしまう自分を情けなく思い、あの時素直に泣くことができていたら、私の人生も性格も、今と異なる方向に転がっていたのではないかと思います。私の人生上で祖父はとても重い地位を占め、もしかすると祖父の死に酷薄に対応してしまったことが現在の仕事に繋がっているのかもしれません。私が介護職を選んだのは、祖父との別れをもう一度きちんとやり直したいからなのかもしれません。
62.友達付き合いで気を付けていることはありますか。
友達と言っても両の手で足りるぐらいしかいないのですが、とりあえずの不文律として、なるべく出る杭にならないように気を付けます。出る杭は確実に打たれますから。出続ける杭になるには私は力不足だと思います。
出る杭と言えば、清子ちゃんがまさにそうでした。二年生を押しのけてレギュラーを獲得した一年生、ということで、清子ちゃんは一年生から尊敬を集める反面、嫉妬した二年生から陰口を叩かれていました。レギュラーじゃない先輩からどう考えても追いつけないパスが出ることがある、なんて、私にぼやいていることもありました。しかしスポーツは実力社会ですから力は自分を裏切りません、清子ちゃんはレギュラーの二年生から信頼され、かわいがられていました。ごく稀にチームメイトの中で、なんで私のような冴えない者と仲良く喋っているのか聞く者もいました。
ある休日、近くの中学校とバスケの試合がありました。清子ちゃんはスタメンで、私は当然のように体育館の端っこで立って応援でした。いわゆる三軍、試合に出れない人です。試合は、最初はシーソーゲームだったのですが、途中から引き離されて、第四クオーター開始前には十点以上の差がついていました。それがどういう意味を持つのか部員のくせに私は分からなかったのですが、他の部員の落胆ぶりを見るにどうやら私たちが勝つ見込みはかなり薄いようでした。そんな中。
清子ちゃんは開始早々、スリーポイントシュートを決めたんです。まるで水中に沈めてから手を離した板切れのようにふっと浮き上がって清子ちゃんは、ジャンプの最高到達点でボールをリリースし、ボールは綺麗な弧を描いて枠に当たることもなく、スパッ、とゴールマウスを通過しました。まるで居合斬りの達人が真剣で竹を切るような、清澄なゴールでした。清子ちゃんの体の動きとシュートの軌道を見ていた私は思わず、「おー」と声を上げていました。反転攻勢への一矢だとか決めるべき場面で決めたとかそういう話ではなく、理屈抜きで、何と言いましょうか、言葉が悪いかもしれませんが、まるで阿呆のように、美しいものを単純に「美しいなあ」と私は思ったんです。私は、あんなシュートが打ちたいだとか、清子ちゃんみたいに活躍したいだとか思ったのではなく、男の子が昆虫やら乗り物に惹かれるように、純粋に清子ちゃんを好きだと思ったのです。たしかに私は清子ちゃんを邪険にしていましたが、なんだかんだで私は清子ちゃんを好いていたようです。その後も清子ちゃんが大活躍して、一時は逆転までこぎつけたのですけど、清子ちゃんがガス欠したのか動きが鈍るにつれ点差もまたどんどん開いて結局試合は負けてしまいました。その後の片付けで、清子ちゃんは一年生と談笑しながらボールを拾い集めていました。そこからは聞こえないところで二軍だった二年生が陰口を言っていました、清子のせいで負けた、と。私は聞き流してやはり後片付けを手伝っていたのですが、清子ちゃんのせいで、というのは違う、チームとして負けたのだ、と心の中で繰り返していました。談判に行くことはなかったのですが、ずっとそういう思いを頭の中で繰り返していました、たしかに。悔しかったんです、無性に。今考えるに、実は私も、後片付けぐらいしか貢献できること、なくって、という清子ちゃんの台詞は、肩身の狭さから来ていて、やはり肩身狭そうにしている私と自分を重ね合わせて、それで私を慕っていてくれていたのかもしれません。私は清子ちゃんのことを、少なくともあの試合後から間違いなく好きだったのに、妙な勘繰りで遠ざけてしまっていたのだと思います。
麻衣ちゃんに関しても、麻衣ちゃんもちょくちょく私に話しかけてくれていたのですが、私はクラスの人気者による表敬訪問だとしか思っていませんでした、疑り深いもので。もしかしたら私が思っているよりも私に対して好意的な人は多かったのかもしれません。
63.今までに何か大きな病気や怪我をされたことがありますか。
特になく健康体で生きてきたのですが、強いて言うならば高校二年生の体育祭の時でしょうか、騎馬戦の際、余り者で組んだ騎馬が、余り者なのだから当然と言えば当然ですが、やる気がなく、敵と対峙する前に瓦解してしまって、上に乗っていた私は地面に落下して右半身を強打したんです。痛みに動けずうんうん呻いていたら、ひょいっと体が持ち上がって、薄目を開ければ男子生徒の顔が見えて、どうやら私、俗に言うお姫様抱っこというのをされたみたいで、しかもその人が当時私が漠然と好意を抱いていたクラスで一番人気の男の子で、当然その頃の私は男子と接触したことなんてなかったので体がびくっと震えるぐらい驚き狼狽してしまって、でも、降ろしてだの大丈夫だの言える余裕もなくて、肉体的にも精神的にも、それで、その子にされるがままにしたんです。胸がきゅうと苦しい状態で保健室に運ばれたのを憶えています。それまでずっと彼の顔を見ていたのですが、彼は保健室のベッドに私を降ろすまではずっと前を向いていました。その顔がかっこよくて、昔はよく、寝る前などに、抱えあげられてからベッドに降ろされるまでを脳内で反芻していました。保健室の先生曰く単なる打ち身で、ずいぶん大仰な対応だったのですが、ちなみに後日、女子数人にわざとだの役得だのやっかまれたのも、ちょっとした華と言えるのかもしれません。私の高校生活にもそんな華やぎが、記憶を掘り返せばあったみたいです。
64.お風呂は湯船にじっくり浸かりますか、それともシャワーですか。
昔は湯を張っていたのですが、一人暮らしを始めて以降はシャワーで済ませています。
65.割と一人で行動しますか。
仕事以外では一人でいます。いつからか、他人を頼る、ということができなくなってしまったのです。何をするにも、迷惑じゃないか、という気持ちが先立つんです、同僚を誘ってもし忙しかったらどうしよう、昔の友達を誘ってもあまりに久しぶりすぎてお互いぎくしゃくするからやめておこう、とか。昔、近所で親しかった女の子に、ある時から距離を取られてしまって、もしかすると学校での私の暗いキャラが影響しているのかなと思い、イケてない子に分類されると申し訳ないので私も連絡を取らなくなったことがあって、結局向こうからまた声をかけてくれるようになったのですが、そういう、迷惑、申し訳ない、恥ずかしくないか、という感情を私はけっこう気にするので、余計に気疲れしないよう単独で行動することが多くなりました。ラーメン屋にも一人で入れます。
66.身体は強いほうですか。
虚弱体質とまではいきませんが、昔から身体は弱いほうで、風邪をひいて数日寝込む、ということが多かったです。一度、祖父母の家で発熱してしまって祖母を慌てさせたことがあります。おばあちゃんがタンスの奥から「効くから」と言って薬を出してきて、ありがとうと言って飲んでからやることがなかったので薬の外箱を検めていたら数年前に消費期限が切れていたことが分かって、それをおばあちゃんに言ったら慌てて新しい薬を買いに出てしまって。父と母は笑っていましたが祖父はむっつりと黙り込んでしまい、悪い予感は当たって、戻ってきた祖母に直接何かはしないものの祖父は無言の非難の圧力をかけ、私は新しい薬を飲みながら、余計なことを言わなければよかったなと後悔したことを憶えています。少し見方を変えればおじいちゃんが私の身を案じてくれたとも考えられますが、たとえそうであれもう少し表し方があるんじゃないか、と。
67.健康には気を付けていますか。
身体が弱いくせに特別何もしていなくて、別れた恋人には、女性はもっとサプリメントだとかに興味があるものだと思ってた、などと言われる始末で、実際世の女性たちはサプリメントや健康食品を日常的に摂取しているものなのでしょうか。私の基準が大多数の基準とずれてはいないか、気になってはいます。
68.何をやっている時に幸せを感じますか。
最近幸せだと感じたことがありませんので、幸せになる方法を知っているのであれば教えてほしいのですが、過去の経験に則せば、やはり裁縫だと思います。型紙を作っている時などはそれほどでもないのですが、ミシンや手縫いをしている時、没我とでも言いましょうか、頭の中から過去の痛苦の思い出や今日すべきことや明日やらねばならないことが溶け落ちて、ただ縫うという行為のみに専心できるのです。それがとてもとても心地よくて、なんせ憂いから完全に脱するのですから仏教の解脱の感覚に近いのかもしれません、などと言えばお坊さんに怒られるかもしれませんが、実際、在るのは布とミシンで、縫うという作業だけ、という透徹した感覚になります。なっていました、裁縫をやっていた学生時代は。ただ、今現在は完全に仕事で疲れ切ってしまっていて、何かを始めようという気すら起きないのです。そのエネルギーがあるならごろごろして、場合によっては眠ってしまうことのほうが優先されてしまうのです。結果痛苦が溜まる、寝る、溜まる、という、別に生きる目的なんて求めていませんが何のために生きているのだかわからない状態になりますね。やはりまずは何か簡単な物から手縫いでもしてみるべきなのでしょうか、幸せを感じるためには。
69.掃除は得意ですか。
得手でも不得手でもないです。ただ、仕事でやっているので家ではシンプルに行えば簡単にきれいになるよう極力観葉植物や置物といったものは排除しています。そのためか部屋の中は殺伐としていて、部屋にやって来た母が、殺伐としているというより生活のためでしかない部屋だ、という評を残していきました。
昔、中学生までですが、実家にある私の部屋は母が買い与えた品でいっぱいで、不必要にファンシーでピンク色に包まれていました。比較対象がないので私はそれが当然だと思っていたのですが、ある日友人を部屋に招くとドアを入ったところで「うわぁ」と感嘆したのです。どうしたのか聞くと、ちょっと少女趣味すぎて吐きそう、とのことでした。私はそれを聞いた途端、恥ずかしくなってしまいました。まるで裸を見られたような感覚でした。友人はその後普通に振る舞っていたのですが、私はもうそわそわとまったく落ち着かなくて、早く切りをつけて友人を帰らせられないかとそればかり考えていて、友人が帰宅するなり真っ白な紙を取り出し部屋の見取り図を描き、どこをどう改造するか頭を捻りに捻りました。何が『普通』なのか分からないのですが何が何でもみんなと同じになろうと四苦八苦したのです。私は、恥だの、普通だの、みんなと同じだの、そういったものに価値観を見出していて、今思うとそこまで重要でない価値観ですがその時の私には切迫した、それこそ平安貴族にとって歌が下手くそなぐらいに深刻な価値観だったのです。その背景にはやはり人見知りという私の変えがたい性格があったのだと思います。『金閣寺』の主人公にとってのどもりが私の場合は人見知りで、私はずいぶん小さな頃から苦しんできたのだと思います。
70.料理は得意ですか。
得意です、自分で言うのもなんですが。小学四年生で始まった家庭科での調理実習に向けて私は家で練習を始めたのですが、母が言うには呑み込みが早いらしく、どんどん上手になっていると言うので私は土曜日の夕飯を担当するようになり、父も毎回美味しいと言ってくれました。やがてその話が祖父母に伝わって、一度作ってくれないかという話になって、小六の時帰省した際に晩ご飯を作ったんです。その前に献立を立てなきゃならないので、おばあちゃんに祖父の好物を聞いておいたんです、祖父が何かと祖母の料理に小言を言っているのを見てきたので。
祖父の好物は魚の煮つけということで、私は父に車でスーパーに連れて行ってもらい、目が濁っていないだとか目が鬱血していないだとか教科書で予習しておいた知識を基に新鮮な魚を選び出し、他のおかず用の食材も献立通りに購入して帰宅後下ごしらえして調理しました。おばあちゃんが時々心配そうに顔を出したのですが私は助力を断ってすべて独力で盛り付けまでやりました。
食卓に着いた祖父は、特に不平も感興もなさそうな顔つきで煮魚をじっと見、それから箸に手を付け、ゆっくり、まるでクラゲが泳ぐような緩やかな動作で魚の肉を口に運び運び、他のおかずも食べて食事を終えました。私は緊張しました、料理に自信はありましたが祖父が何かを褒めている姿を見たことがありません、怒鳴り散らしている姿は見たことないですが不満そうな姿はよく見てきました、祖父にはたぶん料理を褒めるという思考がないのだと思っていました。それが。
祖父は、「うん。なかなか美味しい」と言いました。その明瞭な声に緊張に締め付けられていた私の胸はふっと弛緩して、ふうと大きな息が漏れました。大げさかもしれませんが、時限爆弾を止めたような感覚でした。一緒に食べていた祖母と父母もため息をついて後、堰が決壊したかのように喋り始め、祖父はいつもの通りやかましいぞか何か言ったように思います。それ以降祖父は特に喋らなかったように記憶していますが、楽しい食事だったように思います。祖母に料理の腕で勝った、という妙な高揚感さえ抱いていたように思います。以来、魚の煮つけは勝負料理と言いましょうか、絶対の自信を持って出せる料理になりました、何せあの祖父から好反応を得たのですから。祖父からの承認。あんな怖い人は嫌だ、と避けながら、私は祖父をすごく身近に感じていたのかもしれません。
71.泳げますか。
泳げなくはないです。小学校の授業で、二十五メートル泳げない子は夏休みを削って水泳の練習を義務付けられて、運動のできない私は見事その補習を受けることになったのですが、いつまで経ってもクロールの息継ぎができず十八メートルぐらいで止まってしまうんです。それで業を煮やした先生が、見本と指導を合わせて行うためにクラスで上手な子を呼び出してしまったのです。それが麻衣ちゃんでした。麻衣ちゃんはとても泳ぎがうまく、それゆえさらに周囲の尊敬と人気を集めていて、そんな彼女が補習にいるはずがありません、夏休みを削っての呼び出しです。私はもう、申し訳なさでいっぱいでした。麻衣ちゃんはクラスのみんなと接するのと同じように、明るくにこやかに対応してくれて、私はその笑顔が眩しくて眩しくてとにかく自分が恥ずかしくてつらかったです。どうして私はこんなにどんくさいんだろうと、筋違いですが父と母を恨みました。でも、恨み言を一番言いたいはずの麻衣ちゃんが爽やかにしかも熱心に教授してくれるので、私は必死に頑張りました。けれども息継ぎしようとするとどうしても体が沈んで口の中に水が入ってしまって、そうなると咳き込んでしまいもう泳ぐどころではありません、私は足をついて立ってしまい、ひたすら麻衣ちゃんに謝ることしかできませんでした。麻衣ちゃんは特に気にする様子もなく、それから三日間、私の駄泳に付き合ってくれました。
麻衣ちゃんがコーチを買って出てから三日経ってもやはり私は息継ぎがうまくできず二十五メートルが泳げず、先生でさえ「もうこれでいいかな」と匙を投げようとした時、麻衣ちゃんは「背泳ぎでいきましょう!」と、当時の私からすればむちゃくちゃな提案をしたのです。しかし麻衣ちゃんは本気でした。無理だと尻ごむ私に仰向けになるように言い、背に手を添えるからと言い、私はもう泣きそうな気持ちで麻衣ちゃんの言うことに従って背泳ぎもどきを泳いだんです。すると、徐々に麻衣ちゃんの手が離れがちになり、でも私の体はそのまま浮いているのです。ある瞬間、麻衣ちゃんの手の支えがなくなりました。それでも私はぷかぷかと浮き続けることができたのです。「その状態で、足はバタ足、腕はイカが泳ぐみたいに動かして」と麻衣ちゃんが言うのだから私はその通りにし、すると、ものすごく遅いのですが進むことができました。「これなら息継ぎの心配がないでしょ」と麻衣ちゃんの声が聞こえました。私は真夏の青空を眺めながら、まるで笹船のように進みました、たしかに進みました。
その日、そのインチキ背泳ぎで私は二十五メートルを泳ぎ切りました。先生も麻衣ちゃんも、私も、大いに喜び合いました。数少ない成功体験です。喜びながら私は麻衣ちゃんに、付き合わせて申し訳ない気持ちと、疑り深い性格からこれだけ世話かけさせてだいぶ怒っているだろうなあという考えを持っていましたが、今思うに、彼女は別段怒ってなどいなくて、この面倒見のよさこそが麻衣ちゃんをクラスの人気者たらしめる要素だったのだと気付きました。私は私の非社交性から、麻衣ちゃんの超絶な社交性を羨んでいた面があったのだなと思います。今会って話せば、また違う係わり方ができるような気がします。
72.好きなうどんは何ですか。
きつねうどんです。面白い質問ですね。
73.いわゆるゲテモノを食べられますか。
苦手です。父が時々買ってきていたのですが、私も母も食指が動かず、結局は父一人でほぼ食べている状態でした。
74.特技は何ですか。
私、耳を動かせます。それで、私は父と母の前で耳を動かして見せて好評を得たので祖父母の前でも動かしてみました。すると、祖母は大喜びだったのですが、祖父はきつい目で「やめなさい」と怒ったんです。私がまだ幼稚園生の頃だったと思います。私はびっくりして、呆け顔で動けなくなってしまいました。祖父は続けました。そういうのは見せて回るものじゃない、見世物じゃないんだから。逐語で憶えているわけではありませんがそのような意味のことを祖父は言いました。私は、ごめんなさい、と言いました。祖父は何も言わずに、どこかへ行ってしまいました。以来私は耳を動かさなくなったのですが、父と母以外に怒られたのはそれが初めてで、ましてや自分をちやほやしてくれるのだと思っていた親類親戚に否定されるとは思ってもみなかったので、その時の私には多大なショックでした。いいえ、もしかするとその出来事が親戚、あるいは他人に寄り付かない習性、他人を警戒してしまう人見知りを強化したのかもしれません。生まれた時から私は非社交的だったかもしれませんが、他人に対する苦手意識と、祖父への恐怖感の発症は、そこにあるのかもしれません。考えるにそれは祖父なりの配慮だったのかもしれません、私が馬鹿にされたり特技を無理強いされないための。ただ、私の中で未だにしこりとして残っているように思います。
75.寿司ネタは何が一番好きですか。
いくらです。味も触感も好きです。
76.どんなケーキが好きですか。
マロンケーキです。子供の頃に味覚は固まると言いますが、それが本当なのか俗説なのか知りませんけど私は昔から家の近くにあったケーキ屋のマロンケーキが好きで、誕生日の度にそこでホールのマロンケーキを買っていました。母が言うには、私が幼稚園生の頃ケーキ屋さんを志望したのも、同じようなケーキを作りたかったからで、作れるようになったら幼稚園の先生に渡すんだと鼻息を荒くしていたそうです。まぎれもない稚児の発想なのですが、昔は今よりもだいぶ積極的だったのかもしれません。世の中というものが分かっていなかった、とも言えますが。
77.過去に戻れるとして、いつに戻りますか。
やはり後悔のある祖父の死周辺ではないでしょうか。あの時一度でも泣けていたら、という思いは根強く、人生って、そんな大仰なことをせずとも、涙一つ流しただけで変わってしまう、波打ち際に作った砂の城のように柔く安定しないものだと思います。
人生はやり直しがききません。だからこんなふうに過去を掘り下げても意味がないのかもしれません。でも、見失っていた物事や、真っ暗のように思われた私の記憶が、思い違いも含めて実は私の羨望してやまない普通人たちと同じようなひそやかな喜びに満ち、満ちは言い過ぎかもしれませんが、数は少なくとも私にもふっと微笑んでしまうような人生の切片があったのだと気づきました。
78.英語は得意ですか。
得意、とは言えないかもしれませんが、学校教育で習う程度は読むことはできます。高校時代、教師が熱心で、問題集を解く宿題が出たのですが、私は周囲に優等生と見られていたのか答案を写させてくれと言う人がけっこういて、そのおかげか話しかけてくれる人が増えたのですが、それは結局のところ利用されていたのと同じで、私の社交性が上がったのでもないし学校でのポジションが変わったわけでもありませんでした。
この話にはちょっとしたオチがあって、私の答案をほぼコピペした山根君が、私よりいい点を取っていて、なんかごめんね、と謝られました。ちょっとした笑い話です。
79.贈られて嬉しかったプレゼントは何ですか。
贈られて、とは厳密には違うように思いますが、高校生の頃、幼稚園生時代に一緒に遊んでいてその後疎遠になってしまった男の子が、私の誕生日に唐突に「もういらないから」と押し付けるように渡したゲームソフトが一番嬉しかったです。いわゆるロールプレイングゲームのように戦闘しながら物語を進めていくスタイルのゲームだったのですが、私はゲームの世界の中でさえ消極的で、未開拓の地、ましてや敵の強くなるダンジョンに行くのは私にとって気疲れする行為で避けがちゆえに物語は遅々として進まず、やがて中途で放り出してしまう、というのが定番だったので嫌々プレイし始めたのですが、そのゲームは出てくる物や人物や町やら何やらがすべて角の取れたファンシーなものにデフォルメされていて、とにかく愛らしいのです。しかも、途中から庭で果実を栽培したり商人として武器防具を売り買いできたりして、別にストーリーを進めなくとも十分に楽しむことができるのです。私は幼稚園の頃、帰り道に咲いている花を収集したりノビルやヨモギの葉など食べられる野草をかき集めて母に、あるいはその男の子に売りつける真似事をするおままごとで遊んでいました、そういう気性の子だったのでしょう、そういうことが本然より好きな私ですからすぐそのゲームに夢中になり、インターネットで果実の栽培法を調べたり本屋の普段は立ち寄らないコーナーで攻略本や設定資料集を探したりと、そのゲームを窓口に自分の世界を広げることができたのです。もともと狭い世界に暮らしていたものですから何もかもが新鮮な体験で、私はまるで少女用の読み物に出てくるような、深い森の中に一歩一歩、足場を確かめながら踏み進んでいく情景を頭に思い浮かべながら日々新しさへの期待と不安とで心を高鳴らせていたように思います。あの頃の、人生をちょっと飛躍させる行動がなければ、私は狭い世界に閉じこもり、今頃自宅に引きこもり何もできない子になっていたかもしれません。
それにしても、米田君、その男の子の名前ですが、彼は長い間没交渉だったのにどうして私にそのゲームを渡そうと思ったんでしょうね。私との遊びを憶えていてくれて、そんな私にぴったりだからと思ったのでしょうか。その理由に関しては想像するしかないですね。
80.インドア派ですかアウトドア派ですか。
運動からっきしの私は当然インドアで過ごすことが多いのですが、唯一バーベキューは、料理が上手なせいか得意でして、小学四年生の頃学校で一泊のキャンプがあり、その時の飯盒炊飯で、私、ずいぶん活躍したんです。男子は火で遊ぶことしか頭になくて協力してくれず、女子には一緒に野菜を切ってもらったのですが二人とも手つきがたどたどしくて、一人は皮むきの際勢い余って爪に軽く切り傷を入れてしまって以降ほとんど切っているんだか包丁で野菜をこすっているだけなのか分からなくなってしまい、そこで私がジャガイモやニンジンの皮むきを受け持ち、他二人にはより簡単な玉ねぎのカットを頼んで、私はするすると野菜の皮を剥きました。他二人はまるでマジックを見るように私を凝視していました。恥ずかしいですが私は、他の注目に酔っ払ってしまいました。他者に何かを期待されることは、両親以外ではこの時が初めてだったと思います。承認。それが人間の原動力になるのです。
具材を切り終えた段階で女子二人には「ししょー」と呼ばれる状態になり、それで私は指揮を執って煮込み味付け盛り付けまで済ませてカレーを完成させたんです。私の班の料理が済むと今度は情報を聞きつけた他の班から助っ人の依頼が来て、私は満足にカレーも食べずに他班の料理に勤しんだのです。それがためにキャンプ中は「カレーのししょー」なんて珍妙な称号を拝領してしまい、元来人見知りの私は興奮とこそばゆさに目が潤んでしまうような心持ちでした。輪の中心にいる。私のような隅っこに貼りついて生きている人間に、主人公の栄誉が与えられる日なんて来ないと思っていました。芸は身を助けるとはよく言ったものだと思います。
キャンプ後帰宅すれば私は母に出し抜けに「カレー作る!」などと宣言した記憶があり、しばらくはナルシシストのように自分に陶酔していました。結局、キャンプ後には普段の隅にいる私になってしまったので、単におだてられてうまく使われただけの可能性も無きにしも非ずですが、それでもいいやと思った記憶があります。