ラカームの遺産
カーンがリリアナと出会って、3日が過ぎた。リリアナはカーンの住む家、カーンの営む工房に居つくことになる。カーンは腕の良い武具職人として有名で、金持ちを相手に割のいい商売をしている。裕福ではないにしても、貧しくもない。ネズミ人間たちの家や施設は、洞窟に穴を掘って広げた空間に作ることが多い。カーンの工房もそうだ。空間を二階層に分けており、1階が工房、2階が居住空間になっている。リリアナが暮らすスペースを作るのは簡単だった。ネズミ人間は寝る場所を選ばない。元々毛があるから、地面に動物の皮や藁を敷くだけだ。リリアナには巨大ネズミの皮を鞣したものを用意した。
そんな所で新生活を始めたリリアナだが、困惑することはなかった。それどころか実に素直だ。カーンが起きろと言えば起き、寝ろと言えば直ぐ寝る。食べろ、水をくんでこい、掃除をしろ、酒を持ってこい。言うことを何でも聞く。試しに「コロシアム出場は諦めろ」と言ってみたりもしたが、それだけは「イヤ」と即答されてしまった。しかしそれを除けば、少女はカーンに「わかった、ました」の返事だけで尽くした。指示を与えていない時は、読書かトレーニング、銃やナイフの取り扱いを練習する。どんな本を読んでいるのか覗くと、知らない言語のものが多くカーンは理解できなかった。幾つか混ざっているネズミ人間の書物は、兵法、体術、武具、そういうのに関連したものだ。真面目で、素直。少女なのに強く、根性もある。まるでコロシアムの戦士のようで、知れば知るほどカーンは何とも言えない気分になる。
だか薄々気付いてもいる。よく尽くしてくれるリリアナが、常にカーンの動向に意識を向けていることを。警戒しているようだ。彼女な名前は教えたが、ラカームの弟子だったことはまだ教えていない。どうやら現状、コロシアムに出るために利用されているようだった。
「けっ、俺も同んなじ気分だぜ。毛も無い気味悪いガキめ。」
カーンは胸中で、わざわざ普段よりも汚い口調で呟くことを、何度かした。命を狙われているらしい得体も知れない彼女を、早い所誰かに押し付けたい。刺客にここを知られたら、大変なことになる。カーンはこの3日間で、問題解決の手筈を整えた。
コロシアムで戦う時はもちろん1対1だが、この試合が成立するのは試合当日まで生きていたらの話だ。抗争、暗殺、買収、工作。何があってまおかしくない。それらに対応するため、私兵団が必要になる。試合当日まで戦士を守り、隙あらば相手を始末してくれる兵士が必要だ。もうリリアナに話はした。そして3日経った本日、カーンが掛けた募集で、たある酒場に大勢集まったと聞いた。これからそこへ出向き、私兵団結成、彼らにリリアナを任せる。以降、自分はこの件に一切関わらないように努める。これがカーンの今日の算段だ。
「もう出るぞリリアナ。下まで降りてこい。」
工房の入り口で、カーンは2階に向けて呼びかける。リリアナは指示した時以外は2階で時間を過ごす。しかしカーンの予想に反し、少女の声は外からやってくる。
「もう外!ます!」
珍しく大きな声をリリアナが出した。どうやら気合は十分のようだ。カーンは少しだけ、普段持たない気分を覚える。柄にもなく、俺に娘がいたらこういう気分なんだろうか、などと考えた。それを振り払い、工房を出る。ラカームの遺産は俺のものだ、と。
カーンはリリアナを連れて、市場と呼ばれる場所へとやって来た。市場。広大に掘り広げた空間に、粘土な木でできた出店、建物が乱立している。どれも簡素な作りだが、洞窟の中は雨も風も無い。道は四六時中人でごった返していて、ギュウギュウに詰まっている。カーンはリリアナが着ているローブの袖を掴み、その中へと押し入る。
リリアナは姿を隠す為にぶかつくほど大きなローブを着ている。フードを深く被る。リリアナの見た目は、ネズミ人間からすると余りにも普通じゃない。見た目の違いは差別の対処にもなり得るし、刺客がどこにいるかわからない。騒ぎを未然に防ぐためにこうしなくてはならない。もしものためのピストルはカーンが2丁持ち、リリアナにはナイフだけを持たせた。
人混みをかき分け、ついに約束の酒場へと辿り着く。扉を開くと、屈曲なネズミ人間の男たちが大勢いる。熱気がむわっと伝わり、汗と酒の臭いしかない。音も騒々しさしか無いとしか形容できないほどだ。集まった傭兵たちはカーンの姿を見ると、木製ジョッキを掲げ大歓声で出迎える。大盛り上がりだ。カーンは全員の前へと出て、話し始める。
「やあやあ皆の衆、今日はよく集まってくれた。皆に伝えた通り今日は、師ラカームが生涯最期まで密かに育てていたコロシアムの戦士を連れてきた!コイツの私兵団に加わるのはそれだけで栄誉極まる!」
カーンの言葉を真に受けて、傭兵たちはまたもや大興奮大歓声。ラカームは武神とすら言われた戦士だ。その最愛の弟子なら、どんな凄い者だろうかと!
「して、その男はどいつだ!」
傭兵の1人が、息を渦巻かせながら尋ねる。カーンは、コイツだ、と言ってリリアナを前に出す。リリアナの姿は傭兵たちに……とても弱そうな印象を与える。背丈は低い。体躯も小さい。しかも「リリアナ、です」という少女の声を聞いた彼らは、唖然としてした。顔を隠し、とても戦士とは思えない、少女。
どっ。傭兵たちは爆笑する。
「ハハハハハッ!面白いジョークだ!ハーッ……で、どいつだ?ジョークじゃねえなら、笑い事で済まなくなっちまうぜ。」
傭兵たちは睨みを利かせる。カーンは自分の思惑が甘すぎたと痛感、後悔する。あれだけ煽れば何とかなると考えていたが、流石に無茶だった。刺客に怯えて計画が雑だった。このままコケにしてると思われたら、どんな目に遭う事だろうか。カーンは何か言い訳しようと考えるも、バツ悪そうに黙るのが精一杯だ。だが、リリアがもう1歩前に出る。
「この中で私が1番強い、ます。」
ーーー その一言で酒場の中は凍てつく。そして次の秒には、傭兵たちは全員が憤慨して一気に熱くなる。なんだと!なめるなよガキ!女は引っ込んで変態の相手でもしてろ!怒号の嵐。それでもリリアナは引かない。
「ラカームが、弱い人ほど怒鳴る、言ってた、ました。」
「言うじゃねえか小娘!ならオレに勝てんだろうなあ!」
ガヤガヤ野次を飛ばす傭兵たちの中から出てきたのは、筋肉隆々、巨体だ。彼の背後からは他の傭兵たちが、いけ!殺せ!と囃し立てる。
「いや、殺しはしない。ココだとマズイ。その代わり……先に相手を地面に倒した方が勝ちとしよう。負けたら、ハー、どんなことしてやろうかあ。」
この大男、どうやら傭兵たちの中でも纏め役的存在で、騒ぎの中でも理性を働かせることができるタイプだ。この提案はカーンもホッとする。恐らく ーーー リリアナが相手を殺すからだ。彼女の実力は身を持って知っている。彼女が体格差を埋めるための技、筋力、冷静さを日頃から鍛えているのを知っている。リリアナも頷いて勝負を承諾する。
リリアナと傭兵の大男が対峙する。立てた木製テーブルのバリケード、リングに囲まれ、大勢の傭兵たちが熱を送る。傭兵たちは大男が勝つと思っているものの、意外や意外あの小さいのが勝ったら面白いとも思っている。大男も僅かにそう感じ始めている。勝負を受けて立つ者は、何かしらの策を用意しているに違いないはずだ。だから大男は決して油断しない。
そして、誰かの言い放った「始めろお!」の合図で、両者動き出す。大男は一気に駆け寄る。リリアナの身体を持ち上げ、抵抗もさせずに地面に叩きつける作戦だ。小細工があるなら、その前に潰す、と。
「アッ……!」
だが大男は、リリアナの直ぐ目の前で足を止める。銃口が、彼のネズミらしい鼻先に押し付けられたからだ。正面から強く!リリアナはいつの間にかカーンはからピストルをスっていた。迷いもなく、合図と同時にピストルを抜き、差し向けた。フードの隙間から見える毛の無い白い肌 ーーー 大男は骸骨にすら見えた。鋭い視線。迷いのない、親の仇を睨むような、殺害を決心した殺意満ちた瞳、視線。大男は殺し合いを稼業とする傭兵だ。小娘を恐れたのではない。死を実感させられ、覚悟させられ、唐突に緊張して、身が強張った。
「スキ有る。」
リリアナはくるりとピストルや回して銃身を握り、大男の頭の頂点へと持ち手の部分を叩きつける。一撃。無防備な急所への、たった一撃で、大男は地面に倒れ伏す。静寂が酒場に満ちる。誰しもが、カーンも含めて、常識を砕かれた気分になっている。殺しが無いなら銃は使わないのがスジというか、こういう喧嘩に武器を持ち込まないだろう、という一般的思考。それが破壊された。何よりもの問題は、リリアナがその感覚を知らないということだ。
「勝った、ました。」
ぽつ、と一応の事実を伝える。この一言のお陰で、傭兵たちは混乱から何とか自我を取り戻す。
「こんな勝負が通用するかあ!」
傭兵たちの怒りが爆発。全員がカーンと小娘にコケにされたと確信した。武器をぞろりと構え揃える。しかしそれよりも早く、その兆候に気づいたカーンがリリアナの手首を掴んで酒場を飛び出す。少しでも遅れていたら、今度こそお終いだっただろう。
「お前!小細工や卑怯な手を使うなとは言わないが、始まって直ぐはダメに決まってるだろう!小賢しい手は、盛り上がってからじゃないとシラけんだ!」
シラければ観客全員の反感を買う。コロシアムでは常識的な感覚だ。コロシアムはただの殺し合いをではない。ネズミ人間たちの娯楽、エンターテイメントだ。
「……勝った、ました。」
リリアナは、少し不満そうにつぶやく。カーンはラカームの言葉を思い出す。「気に食わないヤツは、勝って黙らせりゃいい。手段を選ぶな。」だからカーンは、ラカームの弟子を止めたのだ。ラカームは誰よりも強く、人気者で、そうじゃない人たちの気持ちを知らなかった。
「そいつは、お前の師匠、師ラカームにだけ通用する理論なんだよ。ヤツほど強いヤツは、もういない。」
リリアナの面倒を見て、コロシアムに出すという行為は、ラカームとぶつかるということか。カーンは気がつく。ますます、リリアナを遠ざけたいうと思う気持ちが強くなる。