ネズミと少女
「いいかリリアナ。ケンカはダメだ。どんなに相手が憎くても、争いからは争いしか生まれない。そしていつかひとりぼっちになっちゃうんだ。ひとりぼっちだと何もできない。でも、どうしても我慢できない時がくるかもしれない。その時は、後で絶対に後悔しないと決意できるならしてもいい。自分が争いのタネになることを背負うんだ。一生苦しむことを誓わないとダメだ。」
齢10ほどの幼き少女リリアナにむけて、その兄フレデリックはよく諭すように語った。リリアナは口数こそ少なく大人しそうな印象を周りに与えるが、一度怒ると相手を泣かしてしまうことが多かった。彼女の父親は傭兵崩れの街の衛兵。故に粗暴荒く酒癖も悪く、元娼婦の妻も子供2人を残して家を出て行ってしまった。リリアナの性格が陰鬱さと乱暴さを兼ねてしまうのも当然の環境だった。しかしフレデリックはそれを良しとせず、リリアナの面倒をよく見て、問題に率先して対処した。いつしかリリアナにとって兄は家族以上の存在となり、心の大事な支えとなっている。
ある日の朝、フレデリックはその日の食事を市場へ買い出しに行っていた。給与の殆どを商売女と酒に使ってしまう父親からは生活費を受け取れないため、買い物をするための金は彼が路傍の靴磨きで稼いだものだ。汚れた茶のハンチングを被り、よれた服を着ている。その日はリリアナのリクエストを受け、奮発してマトンを買うことにしようとしていた。そして買い物を済まして家へ帰ると、リリアナの姿はどこにもなかった。慌てて家を飛び出した。息をハアハアと切らして父親のいる兵舎に辿り着き、リリアナについて尋ねると兵舎の奥の倉庫に案内される。人気の全く無いところだ。父親は視線を気にするようにしながらフレデリックに耳打ちをする。
「リリアナならな、森へ捨てた。お前も知っての通り、帝国から家族税を課されることになったろう? 穀潰しはいよいよ必要無い以上に、邪魔になっちまったんだ。だから捨てた。俺は合理的なのさ。」
「ば、バカな、バカなことを!!」
フレデリックの顔は一瞬で青ざめ、怒りや恐怖で混乱し肩が震えた。
この男はここまで下衆だったのかと思った。殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、ここで彼を殴り飛ばしても事態は解決しないことにも気づいている。父親のことを直ぐに思考から捨て去り急いで森へ駆け出す。リリアナ、俺の大事な妹。悪魔のような男の娘に産まれてしまったばかりになんて不幸な。俺がちゃんとしていれば。待っていてくれ、直ぐに兄さんが助けてやる。フレデリックはリリアナとの思い出、愛しい妹が稀に見せる笑顔を思い出しながら、二時間ほどの道のりを走り切り森へ入った。成果は丸一日かけてもあがらず、惨めな気分で初日は日が落ちる前に退散した。森には野生動物や亜人が住んでおり、夜の森は大変危険だ。砦が随所に築かれているため、そこの衛兵に頼んで泊めてもらった。衛兵は大変同情し仲間に呼びかけて、小規模ながら捜索隊を組んでもらうことが決まった。二日目は10人ほどで捜索が行われた。とはいえ広い森で女の子1人を見つけるのは難しい。2日目も徒労に終わる。そして3日目は最悪だった。捜索隊に加わっていた衛兵3人が亜人の1種であるゴブリンに襲われ殺された。相当な大人数で襲い掛かり、原始的な槍投げや棍棒でメチャクチャに刺したり叩いたりしたような死体だった。ゴブリンの死体もひとつあったため犯人がわかった。フレデリックは捜索を続けるべきか悩んだが、死んだ彼らのためにも捜索を続けようとの声が幾つもあった。しかも更に大人数で捜索隊を組むことになった。同情した他の衛兵や傭兵が、人数が多ければ襲われにくいし捜索の効率も良いだろうと名乗りでたのだ。しかし4日目、今度は人間5人とゴブリン6人が死んだ。5日目は4人と11人。6日目は12人と8人だ。戦闘はどんどん規模が大きくなり、捜索隊の人数も増えていった。
「何故、何故、こんなことに……なぜ?」
そして誰かがとある情報筋からゴブリンが大挙して砦に押し寄せようとのしてると聞いたと話した。連日の騒動で捜索隊員たちの怒りは高まっており、これは爆発の引き金となった。ただちに砦の周りにダイナマイトが数箇所に設置され、倉庫から埃被った水冷式の機関銃が引き出された。今や砦にいる衛兵たちは戦闘の準備を整え終え、夜となった。フレデリックは頭を抱えた。数日経った今ではリリアナが生きてるのは怪しく、しかもいつの間にか戦争に発展しかけている。衛兵たちは帝国軍に電信を飛ばし、防衛に失敗した際は帝国陸軍を派遣してくれとまで頼んだ。事は余りにもスケールが大きくなりすぎている。ただ妹を探したいだけなんだ、彼は呟いた。
森の奥深くで渦巻く闇から、ホロロロロローという声が響き渡ってきた。ゴブリンたちの声だ。彼らが攻撃を始める時の合図だ。
「野蛮人共が来やがったぞ!!」
「全員配置に付け!全火力で迎え撃て!一生分の弾丸を使い切るつもりでいけ!!」
そして彼らは闇に金色の目を光らせ、巨大なネズミに跨り闇から飛び出してきた。手には槍か棍棒、松明を持っている。直ぐに機関銃がフラッシュを瞬かせ、怒涛の弾丸の嵐を展開する。次々と血を吹いて転がり落ちるゴブリンたちだが、数が余りにも多い。他の衛兵たちもライフルで応戦するが全てを撃ち倒し切れなかった。槍が投擲され、これまた次々と人間が倒れた。棍棒で頭蓋を割られ、槍が内臓を貫く。銃剣で反撃し、見事騎馬ネズミから引き摺り降ろして刺し殺すことができるものもいる。とにかく乱戦状態となり、銃声と血飛沫と悲鳴が鳴り止まなかった。フレデリックは……フレデリックは、気づけば口から血を吹いて地に伏せていた。血塗れで、明らかに致命傷を負っている。激痛と死の恐怖が彼を襲う。彼は最初は泣きながらリリアナの名前を呟き続けていたが、気づけば自分が死にたくないことばかりを考えていた。
「神は、俺を、嫌ってるのか……?」
死にたくない。こんなところで、こんな風に死にたくない。そして死の直前、彼はそんな自分を惨めに思った。
時を同じくして、ある場所では大歓声が沸き起こっていた。それはこの円形コロシアムの席全てを埋めるものたちによって成されていた。誰も彼もが毛むくじゃらで、背中を前に曲げ、細長い尻尾を持っている。頭はネズミ、手足は人と獣の間のような歪な形をしている彼らは、自らたち種族のことを単にネズミ人間と呼んでいる。そこに毛の無い猿のような姿見をした者は誰一人していていない。このコロシアム自体に青空は無い。そもそもコロシアムの外は洞窟であり、光は各所に設けられた松明の光だけだ。それ故にコロシアムに入場する時は食料(彼らは雑食性だが、主にキノコや苔の塊のようなもの、普通のサイズのネズミ)や黒くドロリとした手触りの油を支払わなくてはいけない。金や銀でできた通貨と呼ばれるものも存在するが、そういうのはもっと裕福な人々の間でしか払われない。コロシアムを観覧して熱狂に耽るのは大概が日々の陰鬱とした仕事を忘れようとする貧しいネズミ人間ばかりだ。
コロシアムの中央では2人のネズミ人間が戦っている。戦場には粘土や紐で縛られた石の塊が幾つか置かれてあり、彼らはそれを盾にしながら戦う。片方のネズミ人間の両手にはフリントロック式(火打ち石式)のピストルが1丁ずつ握られ、両脇の下にあるホルスターにはもう2丁控えている。対してもう1人は片手で薙刀を振り回し、もう片手に同じ様式のピストルを持っている。薙刀を持ったネズミ人間の名前はラカーム。ネズミ人間たちの言葉で「コケの生えた大男」という意味を持つ。ラカームはその名の通り身長190cm半はある大男で、曲げた背中と鼻先を上に伸ばせばもっと高くなる。平均して160cmほどの大きさ(前述通り、背伸びをしたら数十cmは伸びる)のネズミ人間たちの間では、対峙しただけで威圧感を与える大きさだ。当然ヤームラカームの方が観客たちからの人気があり、コロシアムには付き物の賭博では一番人気だ。そして人気の理由にはもちろん、彼の実力もある。
2丁のピストルを持ったネズミ人間の男が遮蔽物を飛び越え、一気に勝負を決めようとラカームに向けて両腕を伸ばし、2つの銃口を向ける。ラカームは咄嗟にピストルを発砲したが、狙いが逸れて近くの粘土の壁を吹き飛ばしたに留まる。
「動きがわるいぜ、人気者!」
隙を突くように放たれた2つの弾丸の内1発がラカームの左肩に命中し、肉と骨を爆ぜさせる。痛みでピストルを落としてしまうラカームだが、弾丸の込められていないピストルにはもう用は無いと言わんばかりに臆さず片足を前へ踏み込み、薙刀を突き出す。しかし相手は薙刀の攻撃に晒されない距離を取るのを忘れておらず、横へと飛び退いた。そして古いピストルを手放し、素早く新しいピストルを持ち直す。新たな銃口2つがラカームを睨み付けた。好機を見逃すまいとネズミ人間の戦士は、歯軋りをしながら2つの銃声を響かせる。今度の射撃は近距離、しっかりと相手を見据えてからのものであるため、彼は確実に彼の胴体に2発の極めて致命的な弾丸をお見舞いできたと確信した。しかし視界を遮る発射光と硝煙を切り裂くように突き出てきたのは、薙刀の矛先。彼の顔面を鼻先から後頭部、背骨まで突き刺した。
「目が悪いぞ、気取り野郎。」
その薙刀を持っていたのは当然、ラカームだ。観客誰もが驚いたことに彼は無傷だ。だがそれを信じていた人たちもいた。彼はネズミ人間たちの崇める武闘の神の加護を受けていると誰もが噂しており、実際幾つかの試合で直ぐ間近で発砲された弾丸から無傷でいる。
コロシアムの盛り上がりは最高潮となり、ラカームを大歓声が包み込む。そんな彼を見て尊敬の眼差しを向けるものや、恐ろしさを覚えるもの、色々な声と視線が存在している。やがて今回のコロシアムの優勝者となったヤームラカームにはある1つの権利が与えられることとなる。それはどんな望みでも24存在するネズミ人間部族全てが協力して叶えてくれるというものだ。誰よりも強く、賢く、狡猾で、冷静、残忍であることを求められるネズミ人間社会は10年に1度、誰が本当にそういった理想の人物なのかを証明するためにコロシアムを開く。彼らはグラディエーターを職業としているのではなく、自分の野望を果たそうとするものたちだ。過去にはこの願い事1つで全ての部族のリーダーになった男すらもいる。もちろんその男を倒す人物や集団が直ぐに現れたため、彼らの部族史上に残る願い事の失敗例とされた。そして、ラカームの望むことは ―――― 。
砦ででの事件の7年後、ネズミ人間たちの住む洞窟に幾つかしかない巨大な広場では、とあるネズミ人間の男の葬式が行われていた。彼の名前はラカーム。ネズミ人間たち最大の伝統、祭り、娯楽、野望であるコロシアムで過去に優勝したことのある男だ。ネズミ人間は全長2m10mもあるが、身体の構造的にいつも前のめりになってしまい、実際地面からの高さは180cm前後だ。しかしラカームはそれでも2mを優に越す巨躯で、薙刀とプリントロック式のピストルを扱う優れた戦士だった。数多くを語らないタイプだったが、クールな雰囲気が人気を呼んだ。彼はコロシアム優勝後は寂れた田舎で隠居していたが、先日病気で亡くなったためかつての弟子たちが大々的に葬式を開いた。今日は多くの参列者が集い彼の死を嘆き悲しんでいる。だが弟子たちにはある1つの心配事というか、問題を胸に抱いていた。ラカームの一番弟子であるカーンという男が未だ葬式に顔を出していないからだ。連絡は弟子の1人が直接会って伝えたためにミスがあるとも思えない。そしてカーンは誰もが知る通り、とてもラカームのことを嫌っていた。だからカーンが葬式に訪れないのではないかと弟子たちはヒヤヒヤしながら待ち続けている。一番弟子のカーンは腕もよく立ち、一度戦いで左足を失ってからは優秀な武具職人としての仕事をしている。誰よりも師のことを知っている彼からラカームの感動の話を聞ければ、この葬式も大成功を収めれるに違いないと思ったのを弟子たちは後悔しつつある。
そしてそのカーンはというと、ただ今酒場で4杯目の安酒をすっかり平らげてしまったところだった。酔いは悪いくせに水増しされて量ばかりがある不味い酒だが、今の彼にはピッタリだ。とにかく酔い潰れたい。カーンはそう考えながら5杯目を注文する。
「師は……ラカームのヤツは、最後までクソッタレだ!ネズミ人間の悪しき風習や価値観を主張し、それが当然大衆受けして一躍有名になったに過ぎねえ!俺はあんなクソ野郎にはならないぞ。他人の命を何とも思わないようなクズ、弱肉強食とかほざくが結局弱者は死ね強者は豪遊しろだ!俺はいつか革命を起こすぞ……このネズミ人間社会を、いや、洞窟の外の森までに響き渡るような大革新を起こすぞ!」
興奮の余りガンッと音を立てて木のコップを机に叩きつける。彼は普段はちびちびと酒を飲みながら黙っているタイプの飲み方をする男だったが、今日は酷い荒れようでいる。特別な革命思想ですら思い立ったのはたった今だ。日頃の彼の口癖は「なるうようになるさ」で、自分から大変革を引き起こそうなどと考える性質ではない。彼の荒れ具合に遂に酒場の常連客である彼に対して店主が、いい加減にしろと言いながらコップを取り上げる。
「ラカームが死んだから荒れるのは構わないが、ココで荒れるのはよせ。そんなに嫌いなら顔を拝んで愚痴を吐き捨てるなり、してくればいいだろう。」
「バカッ!そんなことしたら袋叩きにあっちまうぜ!」
だが待てよ、とカーンは顎に手を当てて考える。師ラカームは大勢を比較的避ける傾向があり、隠居した時も家を集落からずっと離れた小さなほら穴にしていた。だからその家の所在を知っているのは弟子たちの中でも数人しかおらず、一番弟子だったカーンはその場所を知っている。つまり人気なんて殆ど無い場所で、空き巣をするにはピッタリなことこの上ないのだ。あれほどの名声を持った人物なのだから、何か金目のものを持っていたかもしれない。彼が使っていた銃や薙刀が見つかればきっとマニアにいい値段で売ることができるだろう……。カーンは他に同じ邪な考えを持ったものが現れる前に行動することにした。代金の洞窟キノコ引き換え木札を机に置き、愛用のスカーフを首に巻いて足早に酒場を後にする。少しばかりの罪悪感も覚えていたが、何を今更そんなこと、俺とヤツとは犬猿の仲で、カーンだって弱肉強食手段を選ばぬ冷血漢だったではないか、と胸中で吐き捨てた。
幸いにもカーンがラカームの家へと足を踏み入れた時、中は誰も手をつけていないような綺麗さを保っていた。整理整頓の行き届いた室内で、家具の数も道具の数も少なかった。空き巣の本命であるラカームの武具は探してもどこにも見当たらなかった。恐らくは他の弟子たちが葬式に持っていってしまい、一緒に土に埋めてしまうのかもしれないと考えた。となれば残るは……しかし彼は何も思い浮かばなかった。ラカームはとても質素な生活を好み、金に全く執着していなかったのだ。とんだ無駄足だったと落ち込みかけた時、家の外から声が聞えてくる。ここを知っているのは他の弟子たちくらいで、2人組らしくここへ向ってきている。カーンはかなり焦った。ラカームの葬式にも出ず仲も悪い自分が1人でここにいるのがバレたら、邪な企みがバレてしまうかもしれない。腕に覚えこそあるものの、ただの鉄の棒に置き換えてしまった左足を引き摺りながら戦うのは大変分が悪い。どこかに隠れる場所はないだろうか。慌ててタンスやら机の下やらを荒らし始める。足音はどんどん近づいてきている……もうダメだと思った矢先、机の下に紙が貼り付けられているのを見つける。剥がして広げると、そこには「我が弟子カーンへ」と書かれていた。それに続く本文も読んでいく。
『お前がこの手紙を読んでいるということは、俺は死んだということだ。生きてる内は会いに来ないだろうからな。そして机の下に貼ったこれを見つけたと言う事は、俺の家を漁り回ったということだ。下らんものしか残ってないように見えるかもしれないが、タンスの後ろに秘密の抜け穴がある。綿の掛け軸で覆っているがそれもどかせ。そしてその先にあるものは全て受け取るがいい。ただし、受け取るからには全てだ。全て受け取れないなら1つも取らず、他の弟子にこの手紙を回せ。ズルはできないと思えよ。俺がバカじゃないのはお前も知っての通りだ。全てを受け取ったなら、俺の出来なかったことをお前に託す。』
何点か府に落ちない部分のある手紙だったが、彼は正に今のカーンにとって僥倖だ。タンスを全力で押してずらし掛け軸をめくると、そこには更に地下へと続く階段があった。急いで中へと入りタンスで入り口を隠す。これで一先ずは安心だろう。それから彼は師が残したらしい遺産を目にしてみようと階段を降りていく。大層な言い方をしたからにはきっと凄い何かだろうと彼は思う。秘技の巻物とか、優れた武具とか、もしくは財宝、もしかしたらもっと凄いものかもしれない。彼はラカームの一番弟子だったことを8年ぶりに嬉しく思い、舌なめずりをしてから階段の最後の段を降りる。目の前には木製のドア。ここを開ければいよいよ英雄ラカーム、師ラカームの遺産とのご対面だ。彼は扉の止め具を外し、ゆっくりと開いていく。
「ラカーム!」
木椅子に両足を抱えて座り、来訪者を彼の師の名前で出迎えようとしたのは、彼が見たこともない生き物だった。黒い毛を頭頂部だけから生やし、顔の真横から出た丸い耳を覆い被らせている。ネズミ人間よりも丸くくりっとした黒い瞳がカーンを見据えている。体毛は殆ど無い。顔にも毛は無く……体は小さく、背を彼のように丸めていない。体長は160cmほどしかないように見える。少なくともカーンが今までに見てきた生物ではなかった。強いていえばゴブリンに似ていたが、ゴブリンのようにゴツゴツとした印象ではなく、肌も緑ではない。声からして女性であるように思えた。一応の形からして自分たちと同じ人型の人種だというのはわかった。
「お前は……なんだ。見た感じ子どもだ。ラカームのガキか?シャーマンの呪いか何かで変なガキが生まれてそれを隠し、俺に押し付けようとかいう魂胆……。」
彼は思わず口に出してぶつぶつと考え込んでしまったが、とてもそんなことがあるとは思えなかった。そもそもカーンもラカームも呪いの類いの存在を信じていない。しかしこの状況を説明できるだけの情報を彼は持っているか自分ですらわからない。少女はじっとカーンを見つめた後、瞳にうっすらと液を溜めて足の間にうつ伏せてしまう。カーンは彼女が自分をラカームと勘違いしたのだろうと察することはできた。幼い故に未だにラカームの死を受け入れきれてないのだろう。余計に手を出して面倒な自体になる前に彼は部屋の中を物色することにした。部屋の中には実際、もう色々なものがあった。棚を開ければピストルやマスケットがあり、弾丸も豊富だ。それに食料も大量にあることがわかった。保存の利く乾燥したものばかりで、ネズミ社会では食べ物は量と価値さえ見合えばあらゆるものと交換することができるほどに貴重で重要だ。そして何より驚いたのは、ラカームの着ていた革の鎧が見つかったことだ。洞くつの外に住む牛という動物の革を用い、特殊な製法で強固に硬くされ、各所には動きやすいように配慮がなされた鎧だ。その横にはカーンが着ていた漆黒のローブもある。これは高く売れること間違い無しの正しくお宝だ。カーンはそれに手を伸ばが、その時いつの間にか立ち歩いて距離を詰めていた少女がカーンの手を叩いた。少女とは思えぬ強い力で、最近大分だらしない体になったとはいえ昔はコロシアムの戦士だったカーンでも体勢を崩しかけた。少女はカーンを下から睨み付ける。
「これは……触ったら、怒る、……ます。」
脅し文句にしては小さな声で、ネズミ人間の言葉も上手くはない。カーンは一瞬彼女を脅威に感じたがこれによってそれを改めた。ただ偶然バランスの悪いところを叩かれただけだ。それに油断もしていたし、俺も随分腕がなまったなと心の中で言い訳する。
「アー、怒る?ハ、そりゃいい。じゃあテメェが怒ったら俺もマジギレするぜ。言っておくがこれでも昔はコロシアムに出場したんだ。」
そう言って半ば笑いながら鎧をその手で掴む。そして気付けば彼の手首を少女の手が少し痛いくらいに掴んでいた。彼はいつ少女に掴まれたのかわからなかった。
「テメッ、あんまりおじさんを怒らせると、痛い目見るぜ。お前みたいな変なガキとヤリたがってる連中だって知ってるんだぜ。」
凄みをかけて脅し返すカーンだったが、少女はじっと彼を睨みながら手を離そうとしない。これが遂にカーンの堪忍袋の緒を切らせてしまうことになった。彼は鎧から手を離すと流れるような動作で少女の服の胸倉を掴もうとする。8年前に比べると大分劣化したが、それでも彼の動きは戦士さながらだ。だが結果は伴われなかった。少女が逆にカーンの手首を更に掴み返し、ギュッ、と捻り上げる。カーンは思わず呻き声を漏らし、それは隙が生じた合図となった。少女は足で彼の踵を蹴飛ばして簡単に転ばし直ぐに馬乗りになる。あっと言う間に懐に隠していたナイフを逆手に持ってカーンの首に刃先を押し当ててしまい、彼を無力化してしまった。
「怒った、ました。詫びろ。」
少女の目が確かに殺意を含んでいるのをカーンは見て取る。そしてそれは、今は亡き師ラカームの持っていた瞳の鋭さに似ているように感じてしまった。その鋭さは彼がラカームの中でも一番嫌いな部分だ。弱者を切り捨てる瞳だ。ただひたすらに強さを求める愚者の瞳。カーンはそういう風に思っている。
「わかった。悪かった。すまん、謝る。だからどいてくれ。鎧にももう触らん……。」
触りたくてもこんな少女がいたのでは触れない。ラカームの言っていたのはこの事だったのかとようやく理解する。となるとこれらの遺産を受け取るには、全てを受け取らなければならない。恐らくはこの少女も含めている。しかしこの少女を受け取るということは、死ぬまで面倒を見ろということだろうか。基本的には大人しそうな少女だから意外と手もかからないかもしれない。そうと決まれば……どうやって受け取ればいい。彼は少々戸惑いながらも立ち上がり、少女の肩に手を置く。
「お前、今日から面倒見てやる。だからここにあるものは俺のものだよな?」
「……イヤ。」
少女はキッパリと断った。予想よりも素直じゃない少女にまた苛立ちを覚えたカーンだったが、扉の方から物が倒れる音が響いてくるのを感じた。ここがバレてしまったか!と慌てて隠れ場所を探す。丁度よく銃の入ったタンスが中々の大きさだったため、銃を適当に外へと取り出して中に隠れて戸を閉める。少女はそれを止めるようなこともしなかった。そして扉を開ける音がする。小さな隙間を開けてタンスの中から外を見てみると、全く知らない2人の男がいた。少女を見つけるとお互いに頷き、唐突に少女へと拳を放った。少女は突き出された拳を横から殴りつけて逸らすが、相手は2人だ。直ぐにもう1人が少女の腹に抱きつき、抱え上げ、地面に叩きつける。体躯が小さい少女では簡単に浮いてしまう。呻きながら地面で荒く呼吸をする少女を見下ろしながら、片方の男が外へと出る。カーンには今がどういう状況かまったくわからなかったが、とにかく今外へ出るのはマズいということはわかる。見殺しになってしまうが、恐らく自分とは関係無い揉め事だろう。むしろ自分の追っ手とかではなくてラッキーだ。
「だが、それでいいのかカーン。」
彼は自問自答をする。彼は汚い男だ。殺人だってするし、してきた。アルコール中毒で、師に逆らい続けの男だ。それを彼は自覚している。だがここで少女を見殺しては、師の遺言通り全てを受け取ることはできなくなってしまうのではなかろうか。師が生きている間ですら意に反し続けてきて、死んでからも反し続けるのか。確かに昔はカーンも彼を尊敬し、慕い、憧れ、弟子にしてもらうために大変な苦労をした。師に失望させ続けるのか俺は。カーンは考えた。しかし考え過ぎたために刺客の男はピストルの装填をし終え、少女の首を掴み上げ、口に銃口を押し込んでいる。彼女は師ラカームの、彼の尊敬した男の遺産だ。カーンは遂に決心する。
銃剣付きのマスケットを両手に持って戸を蹴破り、目を血走らせて一気に男まで駆け寄る。敵が振り向く時間すら与えぬ内に首に銃剣を突き刺し、横に切り払う。首がほぼ千切れかけた死体はどさりと床に音を立てて倒れ、血飛沫が撒き散る。階段のほうから足音がする。音をもう1人の男に聞かれたらしい。カーンはマスケットを腰に据えていつでも銃剣を突き出せるように構えて相手を待ち、ドアが開いた瞬間に勢いよく突き出した。しかし急な動きに義肢が付いていけず、義肢と肉の接合部分が悲鳴をあげる如く激痛をカーンに齎した。思わず左膝が落ち、その隙を突くように男が踏み込んできてカーンの胸倉を掴む。素早くピストルを取り出してカーンの顎にグッと押し付けた。銃声が響き渡った。だが顔の半分を爆ぜさせたのはカーンではなく刺客の男の方だった。少女が先程の男のピストルを拾い上げ、コメカミ目掛けて発砲したのだ。カーンは顔にへばりついた血をローブの袖で拭い、少女に小声で礼の言葉を伝える。
「さて、コイツらは一体何だってんだ。たまたま入ってきた強盗ってのは虫が良すぎる……お前、何なんだ?」
少女の正体がこの刺客たちの素性を知る手掛かりになると期待して尋ねたが、少女は「リリアナ」とだけ答えた。返答のズレに溜め息を吐き、彼女から情報を得るのは一旦諦めることに彼はした。まだ他の刺客が来るかもしれない。早い内にここから退散したほうが身の為だ。できれば出来る限りの遺産を受け取ってだ。そのためにはまず、少女を受け取らなければならない。
「リリアナが名前だな。よしじゃあリリアナ、俺の家にこい。ついでにここにある高価そうな物品も一緒にな。」
「……イヤ。」
少女は首を横にふるふると振って拒否する。カーンは舌打ちをしてから、じゃあどうすれば、と尋ねると、リリアナは一歩前に踏み出てから言い放つ。
「コロシアムに出場、したい、ます。」
カーンは目を見開いて驚き、それからアーと気の抜けた声を出して少女の取り扱い難さを痛感した。コロシアムは生半可な強さで勝ち残れるものではなく、ましてや出場することすら様々な面での強さを問われる。腕力や武器の取り扱いはもちろん、試合前の暗殺を防ぐための私兵団やそれを率いる人望、コネ、それに冷酷さと狡猾さ。この少女にその要素があるようにカーンはとても見えなかった。腕は多少立つようだが……、とも心の中で付け加える。それにコロシアムに出るということは、少女には生死を賭けるほどの願望があるということだ。それはそれで気になる。しかもここで揉めている内に次の刺客がきたら流石に危うい。かといって少女を無視して遺産を手に入れるのは難しい。手ぶらで帰るなんてのは考えたくないことだ。正に背に腹は変えられないといった具合だ。
「アーアー!わかった、コロシアムだな!別に俺が命賭けるわけじゃねえから、幾らでも出してやるよ!クソッ、だからここにあるものを持ち出すのをとっとと手伝え!」
リリアナはカーンの快い返答を聞いて少しだけ口元を緩めて、「ありがとう」と感謝した。