表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編小説

不快な記憶、ありませんか。

作者: うわの空

『さあさあ、本日紹介します商品はこちら、【ワスレール】です』

『ええと、これはお薬ですか? 風邪薬?』

『たしかに風邪薬に見えますね。しかしこの、一見何の変哲もないカプセルをひとつ飲むだけであら不思議! 今まであった嫌なことはすべて忘れられます!』

『えっ! それ、本当ですか?』

『本当なんです! これ一粒飲むだけで、いじめられていたことも上司に怒鳴られたこともリストラになったことも、全部ぜんぶぜーんぶ忘れられるんですよ』

『それはすごいですね。……けれど、記憶すべてがなくなっちゃう、なんてことは?』

『ご安心ください! 忘れるのはもちろん、不快な記憶ことだけ。楽しかったことはすべて覚えています。記憶力が衰えたりすることもありませんので、快適な毎日を送っていただくことができますよ』

『素敵! 私も一粒貰おうかしら。でも、お高いんでしょう?』

『それがなんと、今なら一粒三万円! 一粒たったの三万円でご提供させていただきます!』

『ええ!? それは安い!』

『数量限定早い者勝ち! 皆様今すぐお電話を!』




 そのコマーシャルを見たとき、今すぐ買わなくちゃって思ったのは覚えてます。『早い者勝ち』というのが単なるうたい文句だということは、頭の片隅で理解していました。けれどもしかしたら本当に、と思ってしまって……。薬の仕組みについて説明しているコマーシャルを無視して電話を掛けたんです。

 そのあとの対応は、普通の通販と何ら変わりありませんでした。注文して二日後くらいに、商品が届いて。

 ――はい、見た感じ普通の薬でした。白色のカプセルで、特徴といったものはありません。それを飲んだことは、今でもはっきりと覚えています。


 けれどどうしてその薬を飲もうと思ったのか、わからないんです。


 家族とはうまくいっていました。恋人とも。仕事だって順調でしたし、私生活も充実していました。なのにどうして、嫌なことを忘れる薬を飲もうだなんて思ったのか。それがどうしても思い出せないんです。


 ……もしかしたら本当に、その薬のおかげで不快な記憶は忘れてしまったのかもしれません。


 けれど、それだけじゃ終わらなかったんです。

 ある朝、目が覚めると手首にピリッとした痛みを感じました。見ると、左手首に赤い筋が一本走ってるんです。ベッドのそばには、血の付いたカミソリが投げ捨てられていました。


 ――自分がやったとしか思えない状況ですよね。けれど、そんな記憶ないんです。


 まるで自殺志願者じゃないかと、唖然としました。自分で自分の手首を切るなんて、そんな怖いこと私にはできっこない、とも思いました。だって、紙で指を切るのすら痛いんですよ?


 なんだか怖くなって、彼氏に電話を掛けました。彼には、変な冗談はやめろと言われました。『私が』手首を切ったという話を、信じたくなかったみたいです。私は自分で切ったんじゃないと説明したんですが、それはそれで信じてもらえませんでした。


 次の日、目が覚めると首にロープが巻きつけられていました。

 首には赤紫色の横線が入っていて、ロープで絞められたのだとわかりました。手首の赤い線も増えていて……。前日のそれよりも、明らかに深く切りつけられていました。

 一人暮らしの私の部屋に誰かが侵入したんじゃないか。そう思ったのはこの時です。もしかしたら、他人の体を傷つけるような趣味を持った人間が、この部屋に潜んでいるのでは……。そう考えるだけで、とてつもない恐怖に襲われました。


 そこで彼に電話をして、しばらくそっちに泊まらせてもらえるよう頼みました。彼がすんなりと「いいよ」と言ってくれて、本当に嬉しかったです。

 首の傷跡が目立つので、仕事を休むため会社にも連絡を入れました。……ああ、もちろん『風邪を引いた』と嘘をつきましたが。さすがに、首を絞められましたとは言えないので。


 その日の夕方、彼の家に行ったことは覚えています。彼の部屋は相変わらず汚くて、掃除してあげなくちゃと思いました。

 彼は何とも言えない表情で、泣きそうになっている私を出迎えてくれました。彼が何を考えているのかまではわかりかねましたが、私の左手首に視線を向けないようにしていることは、よくわかりました。


 そこまではちゃんと覚えてるんです。

 ここから、よく覚えていないんです。



 気づけば、目の前で彼が倒れていました。

 彼の体には無数の穴が開いていて、そこから血が噴き出ていました。

 私の手には、血濡れの包丁が握られていました。

 私の服は、返り血で変色していました。



 ……本当に、本当に覚えていないんです。どうして自分がそんなことをしたのか。いえ、自分がそれをやったのかすら、覚えていないんです。

 あの薬を飲んでから、何かがおかしくなった。確実なのは、これだけです。

 どうして、どうしてこんなことになったんだろう……。




 ――ワスレールの仕組みを、少しだけご紹介したいと思います。 

 これを飲めば、嫌な記憶はすべて『抹消』される……なんて都合のいいことを考えていませんか?

 ワスレールに、そういった効果はありません。


 この薬はまず、その人の記憶から『不快な記憶』のみを分離させます。

『記憶』から『不快な記憶』を引くと、『害のない素敵な記憶』のみが残ります。

 分かりやすい公式でしょう?


 さて、分離させた『不快な記憶』はどうするか。

 捨てる場所なんてもちろんないですよね。頭の中のことですからね。


 そこでワスレールはなんと!

『不快な記憶』をすべて担ってくれる人格を、新たに作り出すのです!


 服用者とは別の人格を脳内に生み出し、分離させた『不快な記憶』を丸々、その別人格に負荷させます。

 これで、ワスレールを服用した主人格おきゃくさまは、嫌なことをすべて忘れられるわけです。


 ただしもちろん、服用後は頭の中に別人格が存在し続けることとなります。

『不快な記憶』のみを植えつけられた人格がね。


 つらく、くるしく、かなしい思い出しか持たない人格。


『それ』が今後どういった行動を起こそうと当社は責任を負いかねますので、お買い求めの際は十分ご検討くさい――




 ――目を覚ました。自分が誰なのか分からない。

 何かを思い出そうとしても、嫌な思い出しか出てこない。

 

 子供の頃はいじめられた。中学高校は不登校だった。三年ほどニートとして過ごした。やっと見つけたパート先では、罵声を浴びせられる毎日――


 どうしてこんなにも、嫌な記憶しかないんだろう。楽しい記憶はないんだろうか。

 ……ない。ない。楽しい記憶も嬉しい記憶も何もない。

 いつも辛くて悲しくて、苦しいことばかりだったんだ。だって、そんな記憶しかないんだもの。


 こんな自分、嫌いだ。こんな世界、嫌いだ。


 手首を傷つけてみても、何も変われなかった。僕は僕が嫌いなままだった。

 自分の首を絞めてみた。死ねなかった。

 動脈に達するくらい手首を深く切る勇気もなかった。


 大体、この部屋は本当に僕の部屋なんだろうか。僕は、こんな部屋に住んでいたのだろうか。

 写真の中にいる『僕と同じ顔をした人間』は、どうしてこんなに楽しそうなのだろう。




 ある日、目を覚ますと居場所ががらりと変わっていた。自分の部屋ではなかった。

 部屋の持ち主らしい人は、僕の目の前で複雑な笑顔を見せている。


 その人を、僕は知っていた。


 僕のことを散々、殴ったり蹴ったりした。自分はろくに働かず、僕に金をせびってくる。僕に捨てられそうになれば、今までは悪かったと泣いて謝る。そんな気もないくせにいつか結婚しようだなんて言う。そういうひとだ。


 どうして僕は、この人の悪い面ばかり知っているのだろう。


「まあ、ゆっくりしていけよ」


 彼は笑う。僕は後退する。また僕を殴るつもりなんだ。そうに違いない。

 不敵な笑みを見せる彼は、悪魔のようだった。


 いやだ、いやだ。もう、苦しいのは嫌なんだ。


 彼の狭い部屋。玄関の近くにあるキッチン。そこに置いてある包丁。

 その包丁で、僕は、



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ああ、そういうことかぁ。というのが、読み終わったあとの感想でした。もちろん背筋がちょっと寒い状態です……。 今の自分が飲むとどんなもう1人が出てくるのだろう、そんな興味も。
[一言] 軽くホラーっぽい? ぞぞぞ、と来るものがあります やっぱり、そんな都合のいいものはないんですね 終わり方もホラー風味で素敵です あと商品名……ものすごく安直だ!(こういうのが好きなんですが…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ