終わりへの旅立ち
朝露が若葉に積もり、踏みしめる度にきらきらと宝石のように辺りに散る。
みずみずしい草の音と、どこかから聞こえてくる小鳥の鳴き声を耳に感じながら、シギは霧の立ちこめる森の中を歩いていた。
あたりが白みはじめてまだ間もない早朝、明らかに早くなっていく日の出の時間が、この寒い土地にも春が訪れようとしていることを示している。
森の中を歩くのは好きだ。
静かで、穏やかで、決して脅かされることのないその堂々とした森の中では、たとえ妙な力を持っている自分でも、とても小さな、なんでもない存在になったかのような気がしていた。
しかし自分が感じている森も、普通の人間の感じる森とはちがうのかもしれない。
自然に干渉することのできるこの力のせいなのか、シギには確かに森の息遣いが聞こえる。
音ではない。気配だ
氷のように冷たく、しかし清らかな、嗅ぎ慣れたその空気を思いっきり吸って、目の間の何もない空間を真っ直ぐに見つめた。
果てしない針葉樹と、その視界を遮る霧しか見えないはずのその景色に、シギは確かに違和感を感じていた。
いつもの森の息遣いとはちがう。まるで、無理矢理息を押し殺しているような、妙な静けさがその先の霧に溶け込んでいる。そしてそれを感じると同時、あの旅人に触れるときに感じるのと、同じ感覚。全身の血管が開いたような、大きく震えているような、気味の悪い感覚も共に、シギの肌をなでていった。
そんな悪寒を振り払い、また一方、シギは足を踏み出す。
一歩、一歩。
一歩踏み出すたびに、悪寒は増し、それに比例するかのようにおかしいほど霧も濃くなっていった。しまいには自分の足元さえ見えないほど濃くなり、まわりは真っ白の世界になる。
取り巻く濃い霧に目を細め、シギは一度足を止め、瞳を閉じた。
確信していた。
この先に、彼がいる。
血が騒ぐその感覚をもとに、シギは目を閉じたまままた数歩、進んだ。
すると。
閉じたまぶたの向こう側がやたら眩しくなった。まぶしい光に、シギはゆっくりと、目を開ける。
そこは見なれた湖だった。
森の奥深くにある湖で、こんなところまで歩いてきていたのかと、少し驚く。
森を歩きなれ、何度も訪れたことがある湖。
しかし今のその湖はいま、神の庭と化していた。
濃い霧が壁となり、湖の周りをゆっくりとまわり続けている。それはまるで夏に空に浮かぶ大きな積乱雲の中にでも来てしまったかのようで、さらには少しずつ顔を出してきていた太陽が、黄色い光を静かな湖面に注ぎ、わずかな波はきらきらと光る鏡のようにシギを照らす。
そんな見たこともない美しい光景。
その景色の中心にたたずんでいた天使が、ゆっくりと振り向いた。
「ああ、思ったよりも早かったですね。」
穏やかな声は静かな朝の森に染み渡るように響き、湖面に映る光よりもまぶしく輝く美しい微笑みに、シギは言葉を失ったまま固まってしまった。
彼は湖の真ん中に、立っていた。
文字通り、水の上に何事もないように、立っていて。
さらには小さな波紋を残しながら軽い足取りで湖面を歩き、ほとりに立っていたシギの目の前の岸部に戻ってくる。
やはり彼は普通ではなかった。
父と母と同じ。いや、それ以上の力を持っている。
消えない悪寒と、恐怖と歓喜に震える背筋を無理矢理おさえつけ、シギは真っ直ぐに彼の瞳を見つめて口を開いた。
「わかっていたかのような口ぶりですね。」
「はは、まあ、なんとなくですが。」
成長したシギは、彼よりも少し視線が高い。そんなシギを見上げて旅人は小さく笑うと、物珍しそうにつま先から頭までをゆっくりと観察してうなずいた。
「こんなに成長するもんなんですね。まあ、年相応、というところなんでしょうが。」
「呑気なことを言わないでください。どれだけ驚いたか。」
「あはは、そうでしょうね。どうです?身体は痛みますか?」
今まで冷静な面しか見せてこなかった彼が心配をするので驚きながらも、おかげで緊張が溶けたような感じがしてシギは息をついた。
「いえ。ただ、ほんの少しだるいのと、まだ慣れないことくらいです。すごく歩きづらい。」
「あははは。だるいのは成長に伴う一般的な痛みでしょう。3日もすれば慣れるでしょうね。」
おもしろそうにまた笑い、彼はほとりの草原に座って湖をながめた。シギは隣に座ることはなく、旅人の背後に立ったまま、ここへ来た理由を果たそうと小さく息を吸った。
「単刀直入ですが、僕はこの力を捨てる気はありません。残念だが、今は渡せない。」
強くそう言い放つと、意外にも旅人は声を荒げたりすることなく、湖を見つめたまま穏やかな声音で答えた。
「そうですか。」
「え?」
「ただ、あなたも馬鹿じゃないでしょうから、何か考えがあってその道を選んだんでしょう?だからわざわざ私を待たずに、自分からここへ来た。それはなんです?」
本当になんでもわかりきっているようで、シギは自分が今考えている、両親には必ず説教でもされてしまうような選択までも見透かされているような気がして、身体を強ばらせた。
そんなシギの反応がわかったのか、旅人は首だけで振り向き、シギを真っ直ぐに見上げる。
「生半可な覚悟で決意を口に出してはいけませんよ。その選択は、決して楽な道では……」
「わかっています。」
言葉を遮り、シギは唇をきつく噛み締めた。
父の努力を、母の愛を、一族の命をすべて無駄にしてまで、選ぶこの道なのだ。
だけど。
「僕は、世界が知りたいんです。」
旅人が珍しく驚いたように眉を上げ、姿勢を直して上半身ごとシギのほうを向いた。一度唾を飲み込み、馬鹿みたいな自分の言葉をひとつひとつ、それらの言葉がひとつひとつたくさんの人間を裏切っていることを感じながら、吐き出した。
「……ずっと、この閉鎖された空間に生きてきて、不自由はなかった。優しい人たちに、穏やかな村の営み。ここの生活は確かに幸せだ。だけど、僕はもう、この力を持った人間として成長してしまった。わけがわからない、人を混乱させるだけの能力だと思っていたけど、どうやらそれだけではないらしい。僕はこの力ありきの世界で生きてきた。もう戻れないんだ。それに………」
そこでシギは目を閉じて少しうつむいた。それと同時に前髪がさらりと目に垂れるのがわかる。
紺色の、気高い母と同じ、髪。
今日、急激な身体の成長とともに伸びた長い髪も、胸の高さまで切ってしまった。今は首の後ろでまとめ、村の伝統的な赤い染色液で染めた髪紐で結んでいる。
父と母の血を引き継いだ髪と、村のものでできた髪紐。
ひどく、暖かい気がした。
「僕は、僕の一族が、僕の両親が、そしてあなたが。生きている世界を見たい。僕の一族がいったいどんな世界で、隠れて生きてこなければいけなかったのか。僕の両親が、いったいどんな世界で命をかけ、そして自らも犠牲にならなければいけなかったのか。そして、あなたはナニなのか。」
そこでなぜかおもしろそうに笑って、また背中を向けてしまう旅人に、シギは負けじと一歩踏み出して言い放った。
もう決めた。全部捨てたのだ。
「あなたに、あなたの旅に、着いて行かせてください。」
風もなく、霧が囲むだけの静かな湖に、自分の馬鹿みたいに早い鼓動と、息遣いだけがやたら大きく聞こえた。旅人は身動きしないまま、じっと湖面を見続けている。
そこで小さく、水の動く音がした。
「わからない。」
そんな旅人の声が聞こえたかと思うと、今までほとんど波のなかった湖面が大きく波打ち、その波から飛び出すたくさんの水しぶきが、まるで蜂のように鋭く正確にシギに向かって飛んできた。
「なっ!」
反射的に後ずさると、何がどうなっているのか、またも生き物のような地面の雑草が蛇のようにシギの足首にまとわりつく。下がった勢いのまま腰を打ちつけていると、水しぶきが顔のすぐそばを勢いよくかすり、地面にすごい音をたてて突き刺さっていった。凍る背筋を固まらせ、目の前の旅人を見上げた。
彼はいつの間にか立っていて、左手の平をシギに向けて軽く掲げていた。その手に抑えられるように彼の背後にはあの恐ろしい水しぶきが数え切れないほど空中で制止していて。
「まったくわかりませんね。」
ひどく冷酷な声音で、無表情な、いや、本当に理解できない無垢な子供のような無表情を浮かべて、旅人はそう言った。
「……え?いったい何を………」
「わからないんですよ。あなたのその決意の本質が。力を渡さないにしても、着いてくるのならば好都合です。しかし、あなたが私に着いてくる利点はそれしかない。あなたは弱く、無知で、正義感だけがやたらと強い。全部不合格です。あなたはいま私に反撃することができない。それどころか防御することもできない。しかしこれからあなたの歩む世界は、私のようなものばかりです。あなたは生き残れますか?無知は人間の世界で生きていく上で最も致命的です。私は影で生きていかなければならない。人を欺き、裏切って、足跡を残すことなく闇に消える。無知なあなたは、人にだまされる。正義感?そんなもの邪魔でしかない。この旅は、人の絶望ばかりを覗き、その傷口をえぐる旅なんです。ましてやこの世界というのは不幸な人間のほうが多く存在する。そんなものたちにいちいち同情していては、100年経っても終わらない。」
一気にそこまでを言う旅人に、シギは言い返すことはできなかった。
恐怖ではない。
悔しさではない。
すべて、事実だから。
黙り込んだシギを見下すように彼はため息をつき手を下げると、浮かんでいた水しぶきも、足に絡みついていた雑草も、もとの自然に戻っていった。
「あなたは馬鹿じゃない。すべてわかっていたんでしょう?なのにその選択をした。覚悟は、あるんですか?」
さっきのような冷酷な声音から少し穏やかさをとりもどし、彼は立ったままシギをじっと見つめた。
「あなたのご両親は本当に強く、賢く、おそらく世界で一番の戦士だった。でも彼らも、最後には命を落とした。彼らの意志ででしたが、それでも運命に負けたのは事実。それほどの世界だとわかっていて、選んだのですか?」
いつの間にか登りきった太陽が、旅人の背後から煌々と大地を照らし、暗くなった彼の顔はシギにはまったく見えなかった。その影だけの彼と、実際には会ったことのない両親がなぜか重なる。
彼は両親のことを知っている。
その生き様も、戦い方も、そしてきっと、死に様も。
だからこそ彼は僕を試しているのだ。
強さだけでは越えられない世界。賢さだけでは越えられない世界。
選ばれた者だけが踏み込み、選ばれなかった者は知ることすらなく、光を見出すための旅でありながら、その先は保証されていない。
運命というものの残酷さも、選択というものの大きさも、きっと彼が一番に知っているのだ。
「僕は・・・・・・・・・」
見えない旅人の顔から目をそらし、まるで平和しか存在しないかのような光り輝く若葉の草原を見つめた。
「僕は………未来に希望なんか求めてない。求めているのは、真実だ。世界の真実が希望であれば、それに越したことはない。真実が絶望ならば、受け止める。」
立ち上がり、やっと旅人の表情が見えた。シギの瞳の奥の、考えという塊の中のそのさらに奥を覗き込んでいるような深い目をしていた。
「用はそれだけなんです。覚悟なんて、この力でしか証明できない。この力を持ち続けることで、僕は一族の意志や命を無駄にすることになる。それでも、の選択です。この重みは、あなたならよくわかるはずでは?」
旅人は、しばらく黙り込んだままだった。でも、いつの間にか、ここに来たときのような恐怖感や跳ね上がる鼓動はおさまり、ひどく落ち着いている。
それが自分の変化なのか、彼の変化なのか、それは今はわからなかった。
「あなたは、本当に……」
静かに聞こえた声に、我を取り戻して旅人の目を見つめ返すが、そのときにはもう彼はシギに背を向けて右手を大きく振るった。それに合わせるようにあたりの霧が一気に消え、いつもの慣れ親しんだ森の光景が戻ってくる。
「いいでしょう。」
振り向きながらそう言う旅人に、シギは思わず目を見開いた。驚くシギがおかしかったのか、小さく笑ってから彼は穏やかな微笑みを浮かべてシギに向き合う。
「かまいませんよ、着いてきてもらっても。しかし、あなたの命の保証はしませんし、あなたが死にかけようが私は助けたりはしません。そんなことまでしていたら邪魔でしかありませんからね。」
「わかっています。」
強くうなずくシギにもう一度微笑んだ旅人が森の片隅に目をやると、隠すように木の枝においてあったらしい彼の荷物が風に乗ってやってくる。それを受け取りながら、
「さて、とは言ってもこのままではあなたはすぐ消えてしまうでしょうから、ある程度の必要な力の手解きはしましょう。」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん。こんはときに備えて、ここを訪れたあとにはある程度の期間が取れるように、一応の余裕は作って来ましたからね。数ヶ月はどこかに籠もります。」
と言うと、手早くコートを羽織り、乱れた輝く髪を書き上げた天使は、美しく笑ってコートの隙間から色白の手を差し出した。
「わたしの名前は、レイシア・リード。これは契約です。あなたを現世から切り離し、終わりへと向かわせる、契約。あなたがわたしの手をとるそのときから、はじまる。」
それは悪魔の契約に見えた。何よりも美しいはずの彼が、悪魔に見えた。
なぜか母の存在を感じる。
父の存在を感じる。
一族の血が騒ぎ、駆け巡る温かい血が、自分の意志よりも強く身体を突き動かした。
悪魔の手を取ったその瞬間、身体が吹き飛ばされそうな感覚と共に、血に刻まれた一族の歴史と命が、僕の意識を彼方に飛ばして勝手に喉を震わせた。
「……………シギ・サン。神より授けられしこの力と誓いにかけ、契約を交わそう。」
自分の身体と声を遠くに感じながら、ひどく近くに感じるレイシアの存在がゆっくりとまた微笑んだのを身体が認識した。
『契約は交わされた。
ハクメの導きが、そなたにあらんことを。』
確かにレイシアの声なのに、鐘のように世界に鳴り響くような深い音が、心地よくシギの意識を震わせた。
世界が、変わった気がした。




