深い眠りと覚醒
ーーーーーー。
『ーーーーーっ!』
また、あの声だ。
また………
『……………ししょうっ!』
やっぱりだ。
やっぱり、だれかが、呼んで………
『師匠!!!』
ひどく、まぶたが重たい。
目を開けたいのに、泣きそうなその声に、答えてあげたいのに、何度脳に命令しても、まぶたが持ち上がらない。
『師匠……………』
待ってくれ。
だれなんだ?
この声は、だれの…
そこで、うっすらと目が開き、ぼやけたわずかな光が闇を照らす。
あなたは、いったい…………
『師匠………すみません………………』
幼い、その金髪の少年は……………
「シギ様!」
やっと開いた重たいまぶたの隙を塗って、まぶしい光が目を襲う。
ゆっくりと目を開け、そこに金髪の少年の姿がないことをまず認識した。
さっきのは…………夢?
「シギ様……心配しました………。」
長いため息とともに聞こえたその声のするほうに頭をわずかに動かすと、そこには額に汗をかいたノルがいた。
「ノル………」
「ああ、ほんとによかった………。」
また安堵の息をついて、ベッドの横の棚に置いた桶の水に布をひたすノルをしばらく見つめ、自分がまたベッドに横たわっているのを意識する。ただ、さっきまでのようなベッドの縁ではなく、真ん中にきちんと寝て、布団をかぶり、ふわふわの枕に頭を沈めていて。
「………ノル。」
寝起きだからか、自分の声がわずかに低い気がする。
「あ、いえ、あの、シギ様。先に私からお話をさせていただいてよろしいですか?」
「?」
少し気まずそうに口ごもるノルに不思議に思いつつ、寝すぎたのか、ほんの少しだるい体を上半身だけ起こす。
そこで。
肩からこぼれた紺色の自分の髪が、やたら長い。いつもなら少し垂れてくるだけのはずなのに、今は肩から垂れて、さらにまた背中に戻るほどの長さ。それがおかしくて髪を触ると、その髪に触れた色白の手もやたら大きかった。
「え…………」
急に冴え渡った頭は一気に回転を早めた。
よく考えればおかしい。
自分の視線とベッドまでの距離もいつもよりずっと遠い。
骨ばって大きな手。
長くなった髪。
低い声。
「………!」
思わずノルが気まずそうに差し出した樽を勢いよく受け取った。中の水が大きく揺れ、ほんの少しベッドにこぼれる。しかしそんなことは、気にしている場合ではなかった。
「嘘だ………。」
揺れる水面に写っているのは、明らかにいつもの見なれた自分の幼顔ではなかった。
もっと、年をとって。
ちょうど、15、6歳の……
「……シギ様が長くお休みになってましたので…夕食をお持ちしたのですが、扉をノックしても返事がありませんでしたので、失礼ながら勝手に入らせていただきました。そうしたらシギ様が倒れてらして………」
「……………」
あまりの急な出来事に頭が混乱するが、しかし驚いたことに意外とすぐに冷静を取り戻した。
心当たりなら、あるから。
あの旅人が、シギの額に触れた途端、身体から何かが根こそぎ吸い取られるような感覚に陥り、そして気を失った。旅人が、あの成長しない体の根源を、吸い取ったとでも言うのか?
いったいどうやって?
かすかな記憶の端で、旅人の腕が青白く、不気味に輝いていた光景が浮かび上がってくる。
あれは、明らかに人にない力。それもシギとは違う。もっと禍々しいものが感じられる。
もう一度自分の右の手のひらを見て、閉じたり開いたりしてみる。
旅人が何者であれ、自分が本来の姿を取り戻したのは事実であり、また彼に会わなければならないこともまた事実。
「あ、あの、私がシギ様を見つけたときにはすでにそのお姿になられてましたので、何がなんだか………具合はいかがですかな?」
心配げにそう聞いてくるノルに微笑んで、樽を返す。
「ああ、心配ない。何も辛くないよ。ただ、驚かせてしまったな……すまない。」
「いえ……シギ様がご無事なら私はそれで。」
ノルはそれ以上何も聞こうとしなかった。
なぜ急に成長したのか。
この部屋でいったい何があったのか。
あの力は、まだ使えるのか。
それが今のシギには本当にありがたかった。
自分でもわからない状況、説明できないもどかしさ、自分の正体、旅人。いろいろなことが起きて、どこか現実味がなくて浮き足立っていたシギを、ノルは物言わない冷静さと寛容さで現実に引き留めていてくれているようだ。あの旅人も浮き世離れした存在であることは確かだが、ノルもある種の仙人のような、生きてきた年月のぶんだけ積み上げられた徳や、義のようなもので包まれた人間の父のような気もする。
「ありがとう、ノル。」
「なんのことですかな。」
そう言って笑うノルに、温かく溶けた心が心地良く全身に流れていく。
「いや、なんでもないよ。いま何時ごろかわかるか?」
「ちょうど夕食どきです。何か食べられますかな?」
「ああ、頼むよ。」
ノルは持ってきていたらしい夕食のスープを、部屋の暖炉にかけて温めていたらしく、ポケットから取り出した手袋をつけて鍋を火から離しに行った。
その背中を眺めながら、静かにまた頭を回転させた。
一晩。
旅人は、一晩と言った。
つまり、明日の朝には答えを出して、旅人に伝えなければならない。
両親や一族の意志を汲み取り、力を手放してただの人間として、幸せに生きるか。
力を持ち続け、旅人の言う『絶望』に溢れた世界とやらに足を踏み込むか。
おそらく、後者を選んだとしたらおそらくあの旅人のような、人間ではないモノたちに出会うことになるのだろう。
そんな中で、生きていけるのだろうか?
いや、まずこの力は本当にルミナ族だけのものなのだろうか?
もしかしたら、ルミナ族のような異なる存在がもっといるのではないだろうか?
旅人はそれを探している。集めている。
旅人は、僕の知らない世界を、旅している。
両親も歩んだ世界を。
温かいスープの入った皿とパンを乗せたお盆を運んでくるノルに微笑んで、シギは遠い、どこまでも遠い様々な存在に想いをはせた。
「ほんと、勘弁してほしいですよね。」
針葉樹の森の中。小さな湖のほとりに座って、空を見上げていた。
人間たちの作る灯りはなく、高い山脈の冷たい空気は、星の光をこれでもかと言うほど地上に運んでいる。もう春になるというのにまだ寒いこの大気に吐く白い息は、真っ暗な空にしっとりと溶け込んでいった。
そんな光景を見つめる彼の瞳は、星の光をすべて吸収したかのような輝きを放っていて。
『あの許されし子のことでしょうか。』
脇の草原に転がった光り輝く小石が、彼に静かに語りかけた。
「そう。あなたも見たでしょう?どう思いました?」
『不可。我にはなんとも申せませぬ。ただ、器量はあるかと。』
「ですよね。やっぱり………」
『親の血を継いだ、と?』
「……………。」
その言葉に長いため息をついて、彼は目を閉じた。
「ああ………参りましたよ。」
『あなた様にはもはや先は見えておいでなのでしょう?』
「はは、買いかぶり過ぎですよ。」
『あなた様はいつも一歩先を見ていらっしゃる。ならば答えは見えているはず。何にお悩みなんです?』
「そうだな………なんなんでしょうね……」
わずかな風の音を耳に感じ、彼の小さな笑い声だけさが風に乗った。
「先は、先ですよ。」




