第5話 間に合った代償
目を覚ました瞬間、最初に探したのは赤い瞳だった。
けれど、視界にあったのは白い天井だけだった。
薄い光を宿した治癒術式が、一定の間隔で天井を流れている。
ルビアはいない。
その事実を理解した直後、全身の痛みがまとめて戻ってきた。
左腕と右肩を中心に、身体のあちこちが自分のものではないように重い。
膝にも鈍い痛みが残り、息を吸うたび、
熱を吸い込んだ喉から胸の奥まで焼けるように痛んだ。
「……っ」
声を出そうとすると、喉が引きつる。
消毒薬に似た薬草の匂い。
白い天井。
壁面へ刻まれた治癒術式。
見覚えのない部屋だったが、場所は想像できた。
シルン魔導学院の治療室。
試験場で負傷した受験生を運び込むための場所だろう。
俺は、首を動かさずに目だけを巡らせた。
左腕には包帯が巻かれている。右肩も固定具で軽く押さえられ、
焦げた上半身の服は脱がされたらしく、代わりに治療用の白い布が掛けられていた。
身体を起こそうとした瞬間、肩から脇腹へ鋭い痛みが走る。
「動くな」
治療室の奥から、声が飛んできた。
白い長衣を纏った女の治癒師が、こちらを睨んでいる。
片手には、複数の治癒術式が刻まれた薄い板を持っていた。
「左腕に裂傷と火傷。右肩には強い負荷がかかっている。膝にも軽い打撲。胸の痛みは、熱気を吸い込んだ影響でしょう」
「……生きていますね」
「それを冗談で言える状態ではない」
「冗談のつもりはありません」
「なお悪い」
治癒師は深くため息をついた。
俺は黙る。
怒られている理由は分かっている。
あの赤い光を正面から受けていれば、おそらくこの程度では済まなかった。
普通なら死んでいた。
いや、俺であっても、剣の角度が少しでもずれていれば死んでいたかもしれない。
赤い光へ刃を差し込んだ瞬間の感覚が、まだ腕の骨に残っている。
重かった。
魔法のはずなのに、光のはずなのに、
まるで巨大な鉄柱を斜めから受けたような圧力だった。
低位の直線魔法なら、外縁へ短剣を差し込み、
長剣の背へ乗せて軌道を逸らすことはできる。
無傷で済むとは限らない。
出力や距離、角度を読み違えれば失敗する。
それでも、今回のように腕が動かなくなるほどの衝撃ではない。
ただ吸収した魔法を撃ち返しただけとは思えなかった。
何が起きていたのかは分からない。
それでも、刃へ伝わった重さだけは、
これまで受けた低位魔法とはまるで違っていた。
少なくとも、クラス4級に近い出力だったのではないか。
瞬間的な圧力だけなら、それ以上だった可能性すらある。
あくまで、俺の身体に残った感覚からの推測でしかない。
正式な判定は、学院の調査を待つしかなかった。
「何を考えている」
治癒師の声で、意識が現実へ引き戻される。
「怪我の原因です」
「原因は無謀だ」
「否定できませんね」
「分かっているなら、次からはやめろ」
「肝に銘じます」
できるだけ軽く返した。
社交的な嘘だった。
治癒師の目が、わずかに細くなる。
「……君は、またやりかねないな」
「信用がありませんね」
「信用の話ではない。診断だ。そういう目をしている」
俺は答えなかった。
見抜かれている。
次に同じことが起きても、俺はたぶん飛び込む。
いや。
たぶんではない。
必ず飛び込む。
治癒師は何かを言いかけたものの、結局は諦めたように肩を落とした。
「治癒魔法自体は効いている。ただ、どうも深部への定着が悪い」
「魔力がないからですか」
「おそらくは」
治癒師は術式板へ目を落とした。
「普通の患者と同じ経路を使えないようだ。傷口は塞がる。裂けた肉も繋がる。けれど、肩の奥に残った損傷や、胸の内側へ残った熱には術式が届きにくい」
「治らないわけではないんですね」
「時間がかかるという意味だ。断定はできないが、想定より長引く可能性がある」
治癒師の視線が、俺の左腕へ落ちる。
「元になった攻撃そのものも、試験用ゴーレムが発生させる通常の反撃とは規模が違ったらしい。君の体質と、受けた魔力攻撃の強さ。その両方が重なっている」
「なら、治るまで待てばいいんですね」
「簡単に言うな。表面が塞がったからといって動けば、内部の損傷が残る。無理を重ねれば、後から悪化することもある」
「動けないわけではないんでしょう」
「君は人の話を聞いているのか?」
また怒られた。
だが、治るなら問題ない。
今すぐでなくても、いずれ動けるようになるなら、それで十分だった。
俺は包帯の巻かれた左手の指を、ゆっくりと動かす。
痛みはある。
それでも、指は動いた。
右手も握れる。
そこまで確認してから、部屋の隅へ視線を移した。
壁際の台に、鞘へ収められた双剣が置かれている。
左の短剣。
右の長剣。
取り上げられたわけではないらしい。
「剣は、そこに置いてもらえたんですね」
「没収はしていない」
「助かります」
「礼を言う相手が違う。君が気を失った後も、柄から指が離れなくて職員が苦労したそうだ」
「剣がないと眠れない性分で」
「ぬいぐるみか何かのつもりか」
「似たようなものです」
「まったく似ていない」
治癒師は呆れたように言った。
それでも、張り詰めていた部屋の空気が少しだけ緩む。
俺はベッドから動かないまま、双剣を見た。
鞘に収まっていても、損傷がないわけではない。
短剣の鞘には、刃に生じた欠けが引っかかったらしい細い傷がある。
長剣の鞘も、背の歪みに押されてわずかに浮いていた。
鍔元には、拭き取りきれなかった黒い染みが残っている。
俺の血だ。
誰かが勝手に磨き上げた様子はなかった。
最低限、血と煤を拭き取っただけで、刃の状態には手を加えていないのだろう。
思っていたより持ってくれた。
だが、次に同じ規模のものを受ければ、折れる可能性が高い。
少なくとも、今のままでは足りない。
鍛冶屋には、何と説明するべきか。
変な注文をしたと思われていたが、今度は変な壊し方をしたと言われるだろう。
俺は小さく息を吐いた。
笑ったつもりだったが、胸が痛み、顔がわずかに歪む。
「何がおかしい」
「剣が、思ったより働いたなと」
「君の身体より、剣の心配か」
「俺の身体より、次に間に合うかの方が大事です」
治癒師は、今度こそ露骨に呆れた顔をした。
「君、友達が少ないだろう」
「これから入学して、たくさん作るつもりですよ」
「その前に、友達へ心配をかけない方法を覚えろ」
「善処します」
「それも嘘だな」
俺は返事をしなかった。
友達。
そんなものを持つ余裕は、これまでなかった。
この8年、考えていたことは1つだけだ。
彼女を見つけること。
彼女の近くへ辿り着くこと。
彼女へ向かう死を、今度こそ逸らすこと。
そのためだけに、俺は死ななかった。
今度は、彼女へ向かう死に手が届いた。
けれど。
届いただけでは足りない。
次も同じように間に合うとは限らない。
あの赤い光が、あと半歩早ければ。
刃へ触れた角度が、ほんの少しずれていれば。
俺もルビアも、今ここにはいなかったかもしれない。
ルビア。
胸の内でその名を呼ぶと、試験場の光景が鮮明に蘇った。
長杖を半端に持ち上げた彼女。
赤い光へ気づき、わずかに見開かれた赤い瞳。
悲鳴も上げず、逃げることもなく、迫る光を正面から見ていた横顔。
あの目に浮かんでいたのは、恐怖よりも、動けなかった自分への苛立ちに見えた。
赤い光には気づいていた。
長杖も上げようとしていた。
それでも、身体がほんのわずかに追いついていなかった。
炎を放った直後だったこと。
指先に赤みが残っていたこと。
浅くなった呼吸。
それらが関係しているのかもしれない。
けれど、今の段階ではまだ分からない。
何がルビアの身体で起きていたのか。
単なる疲労なのか。
あれほどの炎を放った反動なのか。
あるいは、俺が知らない別の何かなのか。
分からないからこそ、見落とすわけにはいかなかった。
俺は右手を額へ乗せ、治療室の白い天井を見上げる。
「……厄介だな」
声は、ただの疲労に紛れた呟きに聞こえたはずだ。
治癒師がこちらを見る。
「痛むか」
「少し」
嘘ではない。
ただ、それだけではなかった。
まだ、そんな色になるな。
そう思った。
彼女の銀髪の毛先に宿った、淡い薔薇色。
美しい色だった。
前の世界でも、何度も見た。
けれど俺は、あの色を手放しで綺麗だとは思えない。
前の世界であの色が現れた時、彼女はいつも自分の限界を顧みずに炎を使っていた。
今のルビアにも、同じ意味があるとは限らない。
同じだと決めつけるべきでもない。
それでも、あの呼吸と指先の赤みを見れば、不安を消すことなどできなかった。
今のルビア自身も、
炎を使うたびに身体へ異常が出ることくらいは気づいているのかもしれない。
けれど、あの態度を見る限り、それを弱点とは認めないだろう。
少なくとも、俺にはそう見えた。
自分の炎が自分を傷つけるなど、
フォルテア大公家の令嬢である彼女は容易に認めない。
認めれば、自分がそこで立っている意味まで揺らぐと思っているのかもしれない。
あの子は、いつもそうやって自分を追い込んでいた。
今のルビアも同じだと決めつけるべきではない。
それでも、あの目を見ていると、どうしても重なった。
「今度は、遅れなかった」
俺は、あの時そう言った。
今思えば、かなりまずい言葉だった。
今のルビアにとって、俺は初対面の受験生でしかない。
そんな相手が突然飛び込んできて、血を流し、意味の分からない言葉を口にする。
怪しすぎる。
怖がられても仕方がない。
警戒されて当然だ。
それでも、あの時は言わずにいられなかった。
本当に、間に合ったと思ったから。
前の世界で失ったものへ、今度こそ手を伸ばせたと思ったから。
けれど、届いただけでは足りない。
次は、身体を投げ出さなければ守れないような間に合わせ方では駄目だ。
もっと速く。
もっと正確に。
彼女だけではなく、俺自身も生き残れる方法でなければならない。
俺は、まだ弱すぎる。
無意識に右手を握り込む。
指先が掌へ食い込んだ。
「……動かすなと言ったはずだが」
治癒師の声が低くなる。
「腕は動かしていません」
「屁理屈を言うな。身体へ力を入れるなという意味だ」
「確認しただけです」
「何を」
「まだ、握れることを」
「握れても、壊れることはある」
その言葉に、少しだけ笑いそうになった。
壊れることはある。
そんなことは、とっくに知っている。
身体も。
剣も。
世界も。
幸せでさえも。
どれだけ掴んだと思っても、壊れる時は一瞬だ。
だから、壊れる前に間に合わせなければならない。
「しばらく休め」
治癒師は術式板へ何かを書き込みながら言った。
「学院側から事情聴取がある。王家からも呼び出しが来ている。だが、今日すぐに君を動かすことは認めない。少なくとも、私の治療室にいる間は」
「王家から?」
「ディアクラウン王女殿下からだ」
予想はしていた。
驚きはない。
イリスが何も見ていないはずがなかった。
観測と報告を命じられた人間が、
王家へ確認するより先に、監視対象を守るため独断で飛び出した。
それを見た彼女が、黙っているはずはない。
「行きます」
「行かせないと言った」
「ですが――」
「今の君が行っても、まともに話せない。途中で倒れる。王女殿下の前で床へ血を吐きたいなら別だが」
「それは……避けたいですね」
「なら寝ていろ」
正論だった。
俺は、仕方なく黙った。
王女との話は、いずれ避けられない。
だが、今すぐでなくてもいい。
今考えるべきことは、ルビアだ。
彼女が無事だったこと。
彼女が俺を見たこと。
そして、彼女の身体が、あの瞬間だけ炎へ追いついていなかったこと。
そのすべてを、忘れるわけにはいかなかった。
◇
その後の数日は、慌ただしく過ぎた。
治療室から出られたのは、俺が思っていたよりも遅かった。
表面の傷は治癒魔法で塞がったものの、肩の奥に残った痛みと、
熱を吸い込んだ胸の違和感がなかなか抜けなかったからだ。
治癒師の見立てどおり、俺の身体は普通の患者より治癒術式の定着が悪いらしい。
日常生活を送るだけなら問題はない。
だが、剣を振り、高い衝撃を受けることは、しばらく避けるよう言い渡された。
学院側の事情聴取。
ディアクラウン王女殿下との短い対面。
破損した双剣の応急処置。
どれも、完全に終わったとは言い難い。
王女との対面では、必要最低限の報告しか交わさなかった。
それでも、あの金の瞳が俺の説明をそのまま信じていないことだけは分かった。
試験場で起きた異常は、まだ事故とも事件とも決まっていない。
俺が任務の範囲を越えて独断で動いたことを、
学院と王家がどう扱うのかも正式には決まっていなかった。
双剣も、戦える程度の応急処置こそ施されたが、完全に戻ったわけではない。
いずれ本格的な修復が必要になる。
それでも、時間だけは進む。
そして数日後。
まだ痛みの残る左腕を、新たに支給された黒紺の制服の袖へ隠しながら。
俺は、シルン魔導学院の入学式に立っていた。




