氷海の海賊令嬢
冬の氷海には人間の言葉など通じない。叫び声も砲声も、嵐の咆哮の前ではただの雑音に過ぎなかった。
波が何もかもを平等に呑み込み、冷たい灰色の空は生きようとする者を嘲笑うように低く垂れ込める。
しかしエリン・アングンティルにとっては、この海こそが故郷だった。
「舵、三十度左、帆を半分! 急げ、ぼさっとするな!」
凍りついた甲板を靴底で蹴り、彼女は声を張り上げる。プラチナブロンドの髪が強風にほどけて顔に叩きつけられても、ライトブルーの瞳はびくともせず波頭を確かに捉え、風の方向を読み、敵船の動きを三手先まで計算する。
荒くれ者の船員たちが彼女の声に従って走り回る光景は、指揮官と部下というよりもひとつの生き物が複数の手足を動かしているように自然だった。
「お嬢、前方にノースティアの商船! アルガルの私掠船にやられてる!」
帆柱の上から見張り役のベルグが怒鳴る。エリンは素早く望遠鏡を覗き込んだ。
商船の側面に黒い旗を掲げた細長い船が二隻、食らいついている。白い帆に赤いサソリの紋章。あの海賊団のやり口はエリンも知っている。商船を痛めつけ、船員を人質にして身代金を奪う。荒っぽいが確実な方法だ。
「追うわよ」
エリンは一言で命じ、望遠鏡を折りたたんだ。
「お嬢、助けに?」
副船長のレイフが眉をひそめると、彼女は口の端を持ち上げた。
「まさか。横取りよ。あのサソリどもが荷を奪う前に、うちが先にもらうの。どうせ王国の商船なら、王立倉庫に収まるよりもフロストウルフの腹に入るほうが有意義でしょ」
笑いの波が甲板を走った。
そうして《スヌー・ビョルン号》は氷山の影を縫いながら獣じみた蛇行で近づいた。エリンは甲板から飛び上がると、帆柱の横木の上に軽々と立つ。革の長靴の爪先で細い横木を掴み、揺れる船の上でもまっすぐに立つ彼女の姿を、船員たちは「陸で踊る人魚姫」と呼んだ。
「連中に見えるよう、旗を高く上げなさい」
「お嬢、白旗じゃねえよなあ!」
「決まってるでしょ。《スヌー・ビョルン》の旗をやつらに見せつけなさい! 北の海で商売をするなら、まず礼儀を学べってね」
黒地に白い巨熊の紋章が風にはためく。たちまち敵の私掠船に動揺が走った。フロストウルフ島からやってくる海賊船、《スヌー・ビョルン》の名は、この海では死の宣告と同義だった。
砲声が轟く。エリンの号令ひとつで《スヌー・ビョルン》の砲撃が敵の船腹を削ぎ落した。威嚇である。殺しはしない。ただ降参しろという明確な意思表示。船を沈めてしまっては、荷を奪えない。
サソリの旗を掲げた船は思ったよりも早く帆を返して逃げ出した。拍手と歓声の中、エリンは帆柱から跳んで甲板に降り立った。するとレイフが神妙な顔で近づいてくる。
「お嬢。商船のほうに問題が」
「なに?」
「乗客のひとりが、興奮して甲板の手すりから落ちたようで」
拾い上げますかとレイフが聞くよりも早く彼女は走り出していた。船縁に手をかけ、身を乗り出して確認すれば、黒い頭が波間に浮いているのが見える。灰色の海に黒い点。まだ動いている。生きている。生きた荷は、フロストウルフのものだ。
エリンは躊躇わなかった。革のコートを脱ぎ捨てるとそのまま海に飛び込んだ。
極寒の海水が全身を刺し貫く。常人なら数秒で意識が遠退く温度だが、エリンはその冷たさの中を水が友人であるかのように泳いだ。白く泡立つ波をかき分け、目的に向かって一直線に。
男の腕を掴んで引き寄せる。微かに意識があるのか、彼はエリンの腕を掴み返してきた。その手の力が思ったより強くて、エリンは内心で驚く。
すぐさま船員たちがロープを投げ、エリンごと彼の身体を引き揚げた。
甲板に立ち、エリンは毛布で水を吸い取りながら男を見下ろす。黒髪に無精髭、粗末な服。しかしその顔つきは、どことなく――
「……船長さん、助かりました」
寒さに震えながらも男は静かに言った。海に落ちたにしては冷静な声であった。
「あなた、泳げるでしょ。船にも慣れてるわね」
「はい」
「わざと落ちた?」
男は少し困ったように俯き、口元に苦い笑みを浮かべた。
「落ちたら、あなたの船に乗れると思いまして。私はマグナスと申します。流れの傭兵です」
王国の商船よりも《スヌー・ビョルン》に乗りたいのですと彼は続ける。嘘の色があることは分かっていたが、エリンはそれ以上追わなかった。過去を語らない者には訊ねない。それが海の掟だ。
「マグナス。うちの者たちがあなたを気に入らなければ、次の港で降ろすわよ」
レイフから受け取った火酒を飲みながら、エリンは言い捨てる。
「この海で生きるなら、法よりも波の読み方を知っておくことね」
***
すべてがうまくいった、とは言えない。《スヌー・ビョルン》の船員になるということは、極寒の洗礼を受けるということだ。マグナスは最初の夜に凍えながらそれを実感した。
割り当てられた寝台は甲板に最も近い船倉の端で、冷気が板壁の隙間から這い込んでくる。毛布は一枚、枕はなし。隣で豪快ないびきをかいているのは体重百キロもありそうな甲板員のエスペンだ。
マグナスは目を閉じ、揺れる天井を見つめて溜め息を吐く。
正体を偽って海賊船に乗り込む計画は成功した。しかしあの女性船長の目は最初から何かを見透かしているような鋭さがある。彼女に嘘を信じさせ続けられるか、正直なところ自信はなかった。
ノースティア王国王都の参謀室で描いた計画図は、海上では役に立たない。肌を刺す寒さと波の音と隣のいびきがすべての計算を狂わせる。
それでも彼は氷海に身を投げ出して、彼女が間に合った。そのことは明らかな幸運の徴であろうとマグナスには思われてならなかった。
翌朝、マグナスは夜明け前に起こされた。
「新入りはロープの結び方から覚えてもらうぜ」
副船長のレイフは白髭の巨漢だ。年齢はおそらく五十を超えているが、腕力は若者に引けをとらない。彼の教育は容赦がなかった。
凍りついたロープは指の感覚を奪い、重い帆の操作に肩の筋肉は悲鳴をあげ、甲板の掃除で膝の震えが止まらなくなる。王宮で行儀のよい剣術と外交を磨いてきたマグナスの身体は過酷な海の労働に慣れておらず、最初の三日は死にそうになりながら仕事をこなした。
文句はこぼさなかった。船上で弱音を吐く人間を誰も必要としていないことくらいは分かっていたからだ。
***
エリンは毎日、夜明けから日没まで船のすべてを見ていた。帆の状態を確認し、船員に指示を飛ばし、海図を読み、次の行動を考え続ける。それが彼女の一日だ。
マグナスが最初に「認められた」のは、嵐の夜だった。
急に天候が崩れ、《スヌー・ビョルン》は猛烈な嵐の中に呑み込まれた。帆が裂けロープが切れ、甲板では波に足を取られた船員が叫んでいる。
マグナスは誰かに指示されるまでもなく、裂けかけた帆を縫い留めるための太いロープを引き受けた。海水と風が殴りつけてくる中で身体を帆柱に縛りつけ、凍った指でロープを結ぶ。
嵐が去った後、レイフは黙ってマグナスの肩を叩いた。それだけだったが、充分だった。
そしてもう一つの出来事がエリンの見方を変えた。
冬の漁を終えた帰路のこと。エリンが漁網の確認のために海面近くで作業をしていた時、突然、強い底流に引き込まれた。マグナスは甲板からそれを見ており、彼女の姿が水面下に飲まれた瞬間、海に飛び込んだ。
ナイフのような冷水が全身を刺した。肺が締めつけられ、視界が暗闇に溶けてゆく。それでも必死に手足を動かした。エリンの銀色の髪が海流の中で揺れている。腕を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
水面へ――陸へ。
二人で甲板に引っ張ってもらった時、マグナスはしばらく動けなかった。隣でエリンが激しく咳き込んでいる。
「……馬鹿ね。傭兵ごときが、なぜ飛び込んだの。死ぬところだったじゃない」
「黙って見ているほど愚鈍ではありません」
エリンは返事をしなかった。濡れた髪の奥から、じっとマグナスを見つめた。血の代わりに酒が体内を巡るフロストウルフの住民ならば、極寒の海に落ちたとてすぐに冷えはしない。この男はそうではない。陸に慣れたやわな男。なのに、一切の躊躇なく飛び込んだのだ。
その夜からマグナスは夕食の後に船長室へ呼ばれるようになった。
「チェスは知ってる?」
「多少は」
「多少、ね」
彼女は盤に駒を並べながら、探るような目をマグナスに向ける。
「傭兵がチェスを多少知ってるって、どういう育ちをすれば身につくのかしら」
「旅の中でいろんな人に教わりました」
「上手な嘘ね」
マグナスは彼女の手を眺めた。革の手袋が常に嵌まっていて、その下には傷跡があるのだと船員から聞いていた。銛を使う時の古傷だという。
「負けたら、ひとつ本当のことを教えること」
エリンは盤を挟んで座り直した。
「私は嘘つきが嫌いじゃないけど、嘘しか言えない人間はつまらない」
「分かりました」
マグナスは初手を指した。エリンが素早く応じる。最初の三手でマグナスは彼女が自分を試していることに気づいた。単純な攻撃に見えて、実は三手先を誘導しようとしている。海賊の首領が独学で磨いた戦略は、荒削りではあるが本質的に鋭かった。
「船長。なぜ島の外に出ないんですか。あなたの腕なら、もっと広い場所でやっていける」
「フロストウルフが私の場所よ。あの島に百三十七人の家族がいる。私が島を離れたら、誰が守るの」
「家族ですか」
「父が島の首領で、私は彼の代理として《スヌー・ビョルン》に乗っている。父は足を患って、もう船を操れない。だから私が海に出る」
チェックメイト、とエリンが静かに告げた。マグナスは盤を確認する。予定した通り、二十二手で詰められていた。
「ひとつ本当のことを教えてくれる約束でしょ」
「……私は、傭兵ではありません」
「それだけ?」
「ひとつ話しました」
強かにそう言ってみせたマグナスに、エリンは笑った。
「わざと負けたわね?」
「……どうでしょうか」
グラスに注いだ火酒を二人で飲む。波の音が船底で唸っていた。もう一局、の声はどちらからともなくいつまでも続いた。
***
異変は、フロストウルフ島が近づいてきた頃に始まった。帰港の三日前、見張りのベルグが叫んだ。
「軍艦だ! 軍艦が見える! 旗は……隣国のアルガルだ!」
アルガル帝国。南の巨大な帝国で、近年北方への勢力拡大を目論んでいる。ノースティア王国にとっての敵国であり、同時にフロストウルフ島にとっても脅威だった。
島はノースティアの目の届かない絶海にある。帝国が先に手を伸ばせば、誰も守れないのだ。
「何隻いるの」
「五隻……いや、七隻! 島に向かってる!」
甲板に張り詰めた空気が走った。《スヌー・ビョルン》一隻では太刀打ちできない。島に残っているのは小さな漁船と戦に向かない者たちばかり。
船縁についたエリンの両手が、革手袋越しにも分かるほど震えているのを見た時、マグナスの中で覚悟が決まった。
「エリン、明日のチェスの分、本当のことを。私は今すぐ王国海軍を呼べる権限を持っています」
「何を言ってるの」
「マグナス・ギスリ・ノースティア。私はノースティアの第三王子です。王族印が入った書状を持っています。それを使えば、王国海軍の分艦隊をここに呼び、あなたに指揮権を与えられる」
誰も声を出さなかった。エリンは目を伏せる。彼女の震えは止まっていた。
「……レイフ、知ってたわね」
「あー。お嬢が海で引き揚げた日から、まあ何となく」
育ちのよさが隠しきれてなかったんで、とレイフが続け、ついでに「この新入りはチェスが強すぎましたから」と付け加えた。わざと負けていたことをさりげなくばらされ、マグナスが苦い顔をする。お嬢を騙した報いというわけだろう。
「裏切り者の言葉を、なぜ信じられるというの」
「信じる義務はありません。ただあなたの家族が今、敵に囲まれている。そしてやつらは王国にとっても敵。それだけのことです」
エリンの声に怒気はない。だからといって怒っていないわけではないと、マグナスもすでに知っている。《スヌー・ビョルン》が波に揺れた。
「何がお望み? 条件のない取引などあり得ない」
「王国の私掠船団として契約を結んでほしい。フロストウルフ島は海賊のねぐらではなく、氷海の守護者になる。あなた方は合法的な立場と報酬と、王国の庇護を得る」
「つまり私たちに、王国の犬になれと」
「いいえ。我らが王国を守護する気高い狼です」
「陸の者が考えたにしては上等の文句ね」
エリンは彼に背を向けてメインマストに向かった。
「分かった。王国海軍を呼びなさい。この件が片づいたら、あなたをこの船から降ろす。そして二度と顔を見たくない」
「……分かりました、船長」
マグナスは書状を取り出し、使鳥を飛ばした。王国の分艦隊が現れるまで一日かかった。その間、エリンは一言も口を利かなかった。
***
エリンの《スヌー・ビョルン》はひたすら帝国の艦を遅らせるのに専念し、やがてノースティア王国海軍の旗艦が次々に現れると、アルガル帝国の船は一斉に退いていった。エリンは甲板の先頭に立ってそれを見ていた。
彼女の故郷、フロストウルフの民は、いつの時代も孤高の海賊だった。時に王国と小競り合いをし、時に彼らと同じ敵を奪い合った。
時代の潮目が変わりつつあるのかもしれない。そう知りながらも、容易には認めたくないものだ。
上陸するとマグナスはエリンの父親、老オーラヴと対面し、国王の書簡を以て彼に男爵位を与えた。
「オーラヴ・アングンティル男爵。フロストウルフ島を王国の領地として認定し、その住民に王国民としての権利を保障する」
老オーラヴは片足をなくしていたが、まっすぐに立ちマグナスを見つめ返した。彼女にそっくりだと思いながらマグナスは視線を受け止める。
エリンはその儀式の場にいなかった。
船の舳先に腰かけて、エリンは帰宅を喜ぶ皆の姿を眺めていた。
「エリン」
「二度と顔を見たくないと言ったはずだけれど」
「あなたが振り向かなければ見えません」
相変わらずの物言いにエリンの表情が思わず微笑みそうに緩んだが、彼女は慌てて唇を引き締めた。
「王都に行かなきゃいけないの?」
「できれば。私にできるのは簡略化された式のみです。本来、王都で正式に陛下に剣をいただく必要があります」
王宮のやり方は回りくどくて厄介なのです、と。傭兵だと名乗った時よりもずいぶんと正直な言葉に、エリンは耐えられなくて笑ってしまった。
プラチナブロンドが潮風に揺れ、ライトブルーの瞳が沖合に向けられる。怒りでも、悲しみでもなく、ただ静かに何かを受け入れようとしている、そういう顔だった。マグナスは彼女の横顔から目を離せなかった。
***
王都はフロストウルフ島とは何もかもが違った。石畳の道に建ち並ぶ高い家々。花で飾られた大通り。そして目も眩むような人、人、人の波。
エリンは長いドレスの裾を踏まないよう全神経を足元に集中させながら、たどたどしく王宮の廊下を歩いた。
布の質感は確かに高級で、今まで着たどんな服とも比べ物にならない。動きにくい。裾が重い。胸元が締めつけられる。コルセットは最初、呼吸するたびに肋骨が悲鳴をあげた。そのくせ海上の強風に一秒も耐えられると思えなかった。
「エリン、顔に出てますよ」
マグナスが小声で囁く。隣を歩く彼は今夜は軍礼服を纏っている。金糸の肩章と胸の勲章が、見慣れた船員姿とは別人の貫禄を纏わせていた。
「出て当然でしょう。鎧を着て戦うより、この衣装のほうが窒息しそう」
「じきに慣れます」
「慣れたくない」
「鎧が変わると戦えないのですか?」
挑発を含んだ叱咤に、エリンは口を噤んだ。少なくともこの盤上においてはマグナスのほうが名手であった。
夜会の間は篝火と蝋燭の光で昼間のように明るく照らされている。宮廷の貴族たちが色とりどりの衣装を纏い、笑い、踊り、杯を傾ける。その場にいる誰もが品定めするような目をエリンに向けた。
「新しい男爵令嬢ですって。あの野蛮島の」
「それらしい所作ですこと」
「ずっと王国に刃向かっていた海賊でしてよ」
「どうして男爵位を?」
「殿下が連れていらっしゃるなんて」
聞かせるための陰口は、荒れた海の上で叫び合いながら育ったエリンの耳にありありと届く。正直、それらが気に障るわけではなかった。波の咆哮に比べれば貴族たちの囁きは眠気を誘う子守唄だ。
むしろエリンを困らせたのは、杯をどこで受け取ればいいか分からないことと、誰に何を話しかけるべきか分からないことと、この靴がいつ自分を転倒させるか予測できないことだった。
「マグナス。いつ帰れる?」
「一刻後に鐘が鳴れば中座できます」
「一秒が永遠みたいだわ」
「恋する乙女のような台詞ですね」
それと、と彼は少し躊躇ってから言った。
「今夜は私の隣を離れないでください」
「どういう意味?」
「意味はそのままです」
会場の中央で、老齢の侯爵がエリンに近づいてきた。社交的な笑顔を貼りつけて、優雅に礼をしてみせる。
「殿下、こちらがフロストウルフ男爵令嬢ですか。なかなかの器量ではございませんか。やはり野性的な美しさというのは、磨けば化けるものですな」
エリンもまた微笑んだ。完璧に愛想のいい、マグナスを真似た微笑みで、彼が答えるよりも早く割り込む。
「ありがとうございます、おじいさん。そちらこそ人前に出ても差し障りのない見た目でいらっしゃいますね」
侯爵の笑顔が引き攣り、周囲の貴族たちが凍りついた。マグナスが小声で「エリン」と窘めたが彼女は知らないふりをした。
それを見てとり会場の空気が微かに変わった。誰かが声をあげたのだ。
「魚臭い野蛮人が王都の夜会に紛れ込むなど、笑える有様だ」
エリンは声のしたほうを振り返った。あまりにも素早く居場所を捉えられて面食らったようだが、声の主である若い貴族は友人らしい数人と笑い合った。
蔑みの色がはっきりと表れ始めてから、マグナスが手を挙げる。楽団の演奏が止まり、夜会に集うすべての人々が彼を見た。
「フロストウルフ男爵令嬢は先の氷海の紛争において、アルガル帝国の軍艦七隻からフロストウルフ島を守り抜いたた実績の持ち主です」
あまりにも大袈裟な言い様にエリンは顎を落としそうになった。《スヌー・ビョルン》がやったのは海軍が到着するまでの遅延と嫌がらせであり、指揮権が預けられたといっても、実際には何もしていない。それはマグナスが一番よく分かっているはずなのに。
「またフロストウルフ島は代々我が王国の要衝として帝国との最前線に幾度も立ちはだかってきました。彼らこそ我が国の盾であり、彼女こそ私が最も尊敬する勇者である。そのことをマグナス・ギスリ・ノースティアの名のもとに宣言します」
エリンは自分の耳が正しく機能しているか確認したくなった。
静まり返った会場に、折よく鐘の音が響く。マグナスはどこまで計算しているのだろうか、こいつは天性の嘘つきだと指差したくなった。
「テラスに出ましょう、エリン」
「……今の、必要だった?」
「必要でした」
「私が自分で言い返せるとは思わなかったのね」
「思っていましたが、私にも見せ場がほしかったので」
エリンは噴き出しそうになったが、癪なので必死に抑えて彼が差し出した手をとった。
テラスに出ると夜風が頬を撫でた。その冷たさにようやく慣れた空気と再会した心地で、エリンは呼吸を深くした。
街から視線を外して夜空を見上げれば、フロストウルフ島とさして変わりない。輝く星、氷のような月、時折揺れるオーロラ。あの島から見上げたのと同じ景色がここにも浮かんでいる。
「……自分でも不思議だけど。空を見て故郷を思い出すなんて、そんな感傷的な女じゃなかったのに」
「旅の空にあれば故郷を思い出すのは自然なことです。それが海でも陸でも。この契約は私掠船団としての協定であり、あなたを王都に縛りつけるためのものではありません」
「分かってるわ」
テラスの柵に両手を乗せる。革の代わりに絹の手袋。ところどころささくれが立つ《スヌー・ビョルン》とは違う、磨いた大理石の縁の感触。
「エリン。本当は、分かってほしいことが、もう一つあります」
急にマグナスが彼女の前に膝をつく。テラスに沈んだ一瞬の沈黙の中でエリンは息ができなくなった。コルセットのせいではなかった。
「これは政略です。あなたの家系を王室に繋ぎ、氷海を安堵するための、外交的に合理的な選択肢でした。そのために私が派遣されたのは事実です」
宮廷を渡り歩いてきた策士の目とも、黒髪に無精髭の残る傭兵の目とも少し違う、奇妙な表情を浮かべていた。
「だが、俺の心はあなたに掬い上げられた。エリン、俺の相棒になってくれないか。せめてしばらく……陸に留まってほしい」
いつになく弱気な言葉だった。普段なら唾棄すべきそんな男の泣き言が、なぜかエリンの胸に優しく落ちてきた。
風が吹き、彼女の髪が揺れる。プラチナブロンドが月明かりの中で静かな水面のように揺蕩う。王都の流行の型に編み込もうとするメイドを制したのはマグナスだった。「フロストウルフの形でいい」と彼は言った。
氷のように冷たい海から最初に彼を引き揚げた時のことを思い出した。彼が嘘をついていることなど嗅ぎ取っていたが、その目の奥に嘘ではない何かがあることも見えていた。
同じ船に乗り、同じ夜を数え、同じ朝陽を浴びた。エリンが海流に呑まれた瞬間、考えるより早く飛び込んできた男の手の力を覚えている。
火酒を飲みながら何度もチェスをした。いつもエリンが勝っていた。そのつもりでいたのだけれど。
そしてエリンは静かにやわらかなドレスの裾を掴み、そして思い切り、破り捨てた。邪魔な裾が床に落ちる。膝下まで短くなったドレスで、エリンは動きやすさを確かめるようにステップを踏んだ。
「いいわ」
「……本当に?」
「ただし、王子様。私が王宮に飽きたら今度はあなたが私の船に乗るのよ」
膝をついたままのマグナスを見下ろし、彼女は優雅に微笑んだ。女海賊らしい優雅さではあった。
「今度は雇われ人じゃなく、船長の夫としてね」
「エリン!」
マグナスが勢いよく立ち上がり、そのままエリンを抱き上げて回り出した。陸の貴族というのは高揚すると何をするやら分かった物ではないとエリンは内心で冷や汗をかく。
船員たちを見慣れた彼女には細身の優男に見えていたが、案外、力強かった。
「君が波を操るなら、俺は君の羅針盤になろう」
「その気障ったらしい詩はちょっと気に入らないけど」
しかし信頼する副船長いわく、マグナスは最初からチェスが強かったらしい。ある程度の負けを織り込んで儲けを出すのが海賊のやり方だとエリンは自分に言い聞かせた。
***
結婚の儀は春の初め、まだ雪が残る王都で執り行われた。
白いドレスを着たエリンは美しかった。それは貴族たちも認めた。ただしドレスの裾が短く仕立てられていたことと、腰のベルトに小さなナイフを差していたことは、式の後に話題になった。
マグナスは「フロストウルフの伝統です」と片づけた。
式の後、二人はフロストウルフ島を訪れた。港で百三十七人が出迎える。老オーラヴが珍しく目元を緩ませて笑い、娘にとっておきの火酒を飲ませた。《スヌー・ビョルン》の船員たちが口々に祝いの言葉を叫んだ。レイフは何も言わず、ただマグナスの肩を強く叩いた。
「お嬢! 王子様を連れてきたんですか!?」
ベルグが仰天すると、エリンは「マグナスよ。ずっといたでしょ」と呆れる。
「だって見張り台からじゃエスペンと区別がつかねえんだもん」
「お前はもう、水平線で顔を出すアザラシだって見つけるのに、足元は全然見えてないんだもの」
島の中央広場でみなは夜通し歌い、しこたま飲んで、踊った。お上品な陸の貴族がよく馴染めたものねとエリンが零すと、マグナスは「王宮で野蛮さには慣れたものだよ」と笑って妻をますます呆れさせた。
***
北のノースティア王国、フロストウルフ男爵領は孤島にある小さな領地。王家の紋章を掲げた帆船が氷山の間を縫うように走る。舳先に立つのは長いプラチナブロンドを風に任せた女性だ。彼女は嵐の中でも優雅に微笑み、波が高いほど目が輝いた。
そして彼女の隣には黒髪の男が剣を持って並び立つ。かつては傭兵のふりをした王子だが、誰も殿下とは呼ばない。船員たちは彼を「お嬢の旦那」と呼び、彼自身もそれを最高の敬称だと思っている。
後世、王国の外交文書には「フロストウルフ私掠船団、王国貿易路の安定に多大なる貢献」と記録された。だが、それよりも長く語り継がれたのは、もっと小さな話だった。
ある嵐の夜に《スヌー・ビョルン》は荒れ狂う海にいた。誰もが帆を畳んで嵐をやり過ごそうとする中、彼らの船だけは帆を張ったまま進み続けた。なぜかと問われれば、副船長はこう答えた。
『お嬢が、向かい風のほうが早く進めると言うから』
『旦那が、お嬢を信じると言うから』
それだけの話だ。波を読み、風を読み、互いを信じる。ノースティアの氷海ではそれ以上のことなど必要なかった。
氷海の海賊令嬢と彼女の羅針盤になった王子の物語は、そうして冬の海に溶け、今もどこかの波間に語り継がれているという。




