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「七瀬」
いつもならすぐ振り向く。
今日は、ワンテンポ遅らせる。
「はーい」
距離、取る。
声は変えない。
笑顔も崩さない。
——七瀬は七瀬だろ。
だめだ。
思い出すだけで、胸が勝手に熱くなる。
これ以上好きになったら。
終わる。
「これ、総務に回しといて」
「了解ですぅ」
必要最低限。
業務連絡だけ。
近づかない。
雑談しない。
視線を向けない。
鷲尾が少しだけ眉を寄せるのが見える。
気づいた?
気づいて。
でも、気づかないで。
昼休み。
いつもなら同じテーブルに自然に混ざる。
今日は違う部署の女子の隣に座る。
笑う。
いつも通り。
でも内側はざわついている。
——まだ間に合う。
まだ、ただの先輩。
まだ、ただの上司。
まだ、ただの会社の人。
好きって言ってない。
好きって言われてない。
今なら戻れる。
鷲尾が遠くでこっちを見ている。
気のせい。
気のせい気のせい。
午後。
コピー機の前でばったり会う。
距離、近い。
心臓うるさい。
「……資料、ありがとうございます」
敬語。
きちんと。
一歩下がる。
鷲尾が少しだけ目を細める。
「なんか今日よそよそしくね?」
「そうですかぁ?」
笑う。
完璧。
「いつも通りですよぉ」
嘘。
全部嘘。
「……ふーん」
それだけ。
それだけなのに。
少しだけ、寂しそうに見えた。
やめて。
そんな顔しないで。
仕事終わり。
エレベーターの扉が閉まる瞬間。
鷲尾が乗り込んでくる。
二人きり。
逃げ場なし。
沈黙。
七瀬はスマホをいじるふりをする。
見てない画面。
「七瀬」
低い声。
「……はい?」
顔を上げない。
上げたら終わる。
「俺なんかした?」
——なんで聞くの。
やめて。
「してませんよぉ?」
軽い声。
完璧。
でも。
「…してないです」
二回言う。
声が少しだけ小さい。
鷲尾は何も言わない。
エレベーターが止まる。
「おつかれさまです」
七瀬は先に出る。
足が速い。
心臓も速い。
——これ以上好きになりたくない。
まだ間に合う。
まだ、戻れる。
そう思ってるのに。
“なんかした?”って聞いてくれたことが。
嬉しい。




