26
会社のロビーを出るとき、
自動ドアに映る自分の顔を見るたびに思う。
私はちゃんと笑っている。
隣にいる男は、ちゃんと私の彼氏だ。
何も間違っていない。
間違っていないのに、胸の奥がずっと静かに痛い。
鷲尾さんは少し前を歩いて、
振り返って「行くぞ」と言う。
それだけなのに、
その声に私は無意識に従ってしまう。
並んで歩く距離は近い。
手が触れて、指が絡む。
温かい。
その温かさに、ほんの一瞬だけ遅れて応える自分がいる。
躊躇。
自分で分かる。
触れたいのに、
触れた先に何かを期待してしまう自分が怖い。
「今日さ」
不意に落ちる声。
「なんですかぁ?」
もう反射だ。
軽く、柔らかく、いつもの私。
「夜、空いてるか」
ただの確認。
断る理由なんてない。
「空いてますよぉ」
即答する。
でも、答えた瞬間、
胸の奥に冷たいものが流れ込む。
また夜。
また近づく距離。
また、あの言葉が落ちる可能性。
好きだ、と言われるかもしれない。
でもそれが、また“そのとき”の好きだったら?
昼間に欲しかった言葉を、
暗い部屋で渡されたら?
私はきっとまた疑う。
疑う自分が嫌いになる。
それでも疑う。
その繰り返しが、もう怖い。
夜。
部屋の明かりは落ちている。
距離は自然と縮まる。
抱きしめられる。
強すぎない腕。
優しい。
優しいからこそ、苦しい。
「七瀬」
名前を呼ばれる。
その声は本気だと分かる。
分かるのに。
信じ切れない。
どこかで測っている。
今の声の温度は何度だろう。
この好きは何割だろう。
終わったあとも残るだろうか。
そんなことばかり考えてしまう自分が、醜い。
キスをされ目を閉じる。
体はちゃんと反応する。
でも心は、どこかで一歩引いている。
私は何を守っているんだろう。
傷つく未来?
それとも、裏切られる可能性?
裏切られるなんて、まだ何も起きていないのに。
それなのに。
「七瀬」
もう一度。
優しい。
それが、余計に追い詰める。
ちゃんと彼氏なのに。
ちゃんと選ばれているはずなのに。
なのに私は、
どこかで足りない何かを探している。
「……鷲尾さん」
声が思ったより静かだった。
自分でも驚く。
「ん?」
今なら、まだ戻れる。
何も言わなければ、
また曖昧なまま続いていく。
でも。
このまま続いたら、
私はきっと、どこかで壊れる。
信じきれないまま、
疑いながら、
それでも離れられないまま。
それが一番、苦しい。
「一回、離れませんか」
空気が止まる。
言ってしまった。
「……は?」
低い声。
傷ついた色が混じる。
そんな顔をさせたいわけじゃない。
「別れたいとかじゃなくて」
慌てて足す。
言葉がうまく繋がらない。
「ちょっと、整理したいだけで」
整理。
何を。
私の不安を。
疑いを。
信じきれない弱さを。
「……俺といるの、そんなにきついか」
静かな問い。
怒っていない。
でも、抑えているのが分かる。
違う。
きついのは。
「きついのは」
喉が締まる。
涙がにじむ。
「私です」
それが本音。
あなたじゃない。
私が、追いついていない。
好きって言われても、
抱きしめられても、
どこかで疑ってしまう自分が、きつい。
ちゃんと彼女になりたいのに。
ちゃんと信じたいのに。
足りないのは、あなたじゃなくて、
私の覚悟かもしれない。
でも。
それを認めるのが、怖い。
沈黙が落ちる。
重い。
壊れるかもしれない。
戻れなくなるかもしれない。
それでも、もう誤魔化せなかった。
私は今、
壊れかけている。




