(第8章 繰り返される愛憎劇)
ある夜、ドアが開かれ、そこには鬼の形相をした父・俊一が立っていた。ヒトミは小さな悲鳴のような声を上げた。悠一は父にベッドから引きずり降ろされ、殴られた。蹲っても、容赦なく蹴られた。
なぜか、別人格の凶暴な隼人は消え、父の暴力から助けてはくれなかった。そう、きっとこうして父に殴られたかったのだと、悠一は消えゆく意識の中で思った。贖わなければならない罪というものがある。いつか、こうなることはわかっていた。祖父と母の分まで償うべき命なのだから。早く罰して、終わらせたかったのが正直なところだ。痛みに耐えながら、このまま死んでしまった方が清々するとまで思い、安堵さえしている自分に驚いていた。
昔、どこかでこんなシーンを見たことがあったような気がした。泣き叫び、許しを乞う美しい女の声はヒトミだろうか。母だろうか。従業員たちのざわめき。駆け寄って来る誰かの声。
しばらくして救急車の中で意識が戻ったが、口の中は血の匂いがした。体を動かそうとしたが、痛みに諦めて目を閉じた。そして、ヒトミママとの情事の終焉を、覚悟せざるを得なかった。
病院に運ばれた悠一の体は、想像以上に打撃を受けていた。骨折までしており、回復するまでに三か月もかかった。入院中も父は姿を見せなかった。その代わりに奥野弁護士が面倒を見てくれた。退院の迎えにも奥野の秘書が来て、雑事を済ませてくれた。
家に帰ると、そこには両親の姿はなかった。聞けば、ヒトミママは離婚され、故郷に帰され、父は持病の精神疾患が悪化して入院したらしい。あの時の鬼のような形相の父と会わなくて済むのはありがたかった。どんな顔をして、何を話せばいいというのだろう。悠一を見たら、また殴りつけて来るかもしれない。どんな罵倒も甘んじて受けるしかない。逃げ出したかった。
しかし、会いたくなかったのは父も同じだったようだ。アメリカでは十四歳になれば家から独立して暮らすらしい。両親がいなくても大丈夫な年齢ではあったが、それでも悠一は父に依存していたのかもしれない。
あの事件後、義母のヒトミママとは二度と会うことはなかったし、父との再会も十年以上なかった。両親との決別は、思春期の悠一にとって良かったことなのかもしれない。しかし、急な変化に順応できるほど大人ではなかったし、将来の展望を考えられるほど老成してもいなかった。
「俊一様も、お気の毒に」と、使用人たちは噂していた。父・俊一が精神病院に入院した理由は、ヒトミママのせいだと思われていた。浮気をしたと噂されていたが、その相手が悠一であることは伏せられていた。悠一が入院していた理由も、浮気相手との殴り合いということにされていた。本当のことを知っているのはハル爺やだけだった。
あの時いた使用人たちは姿を消していた。解雇されたか、別の仕事を紹介され、厳しく口止めされたようだった。ハル爺やは苦い顔をして、「あの一件については、奥野先生が後始末してくださっているので、何も仰らないように」と厳しく言った。
一挙に、誰もいない寂しい日々が始まった。空虚な心を満たしてくれるものは何もなかった。
た。あの華やかだった家にも庭にも、ヒトミママの姿はない。
「バラの花のような人だな」と呟いた。悠一の前に広がる庭園には、猛暑で朽ち果てたバラの名残がぽつぽつとあるだけだった。うっそうと茂った葉の鮮やかな緑が目に眩しい。蝉時雨。突然の夕立。
ヒトミとの思い出が残る離れに行っても、誰もいない。弾ける笑い声も、冗談や悪戯にじゃれ合っていた日々も、もう来ない。永遠に失ってしまった恋人。そして、そのお腹にいたはずの赤ん坊は。




