(第53章 失恋。そして隠された真実)
「ねえ、美子ちゃんには彼氏はいないの?」
コーヒーを飲みながら、久しぶりに帰ってきた悠一が悪戯っぽい目をして聞かれたので、
「いるわけないでしょう? 今は仕事が楽しくて、彼氏どころじゃありませんから」と答えると、
「そうだと思った。でも、女性は恋をすると綺麗になるって言うじゃない? 美子ちゃんも年頃なんだから、デートでもしたら?」などと言われて、怒りのようなものがこみ上げてきた。
『こんなに好きなのに、気づいてはいないのかしら? こうして一緒にいられるだけで、仕事ができるだけで幸せなのに』と、情けない思いに苛まれていた。
そんな元気のない様子を見て、「美子ちゃんって、奥野先生のこと、どう思う?」と聞かれ、
「素敵な方ですね。私も随分助けていただいて、感謝しています」
と言い終わらないうちに、スマートフォンで何やらLINEを始めていた。
すぐに返信があったようで、
「これから奥野先生と会食することになったから。美子ちゃんも、着替えてきて」
と言われる。まだ5時だったが、少し遠いレストランを予約したらしく、30分後に出発するという。
永井社長は、「仕事をすぐに片づけるよ」と言ってコンピューターに向かい、俊速のブラインドタッチを始めていた。「ぐっと色っぽく、女を磨いてね」と、美子の方を見ないで軽口をたたいた。
内心、嬉しかった。外食は久しぶりだったし、永井社長や奥野先生と行けるのは楽しい。
ビジネスモードなら紺のスーツだが、何やら綺麗に着飾るようなリクエストがあったような気がする。
しかし、買い物にも全然行っていない美子は、学生時代のブルーのワンピースくらいしか持っていなかった。それは、永井と出会った時に、葵に選んでもらったワンピースでもあった。
階下に降りていくと、まだ作業が終わらないようで、コンピューターの画面から目を離さずタイピングをしていた。美子の気配に気づいたのか、【終了】のキーを叩いたようだった。
椅子から立ち上がり、大きく伸びをして、やっと美子の方を見る。
「ふーん。清純路線だね。それも案外、新鮮かも」
と笑い、美子にタクシーを呼ぶよう指示した。そして、「着替えてくるよ」
と言って、自分の部屋へと駆け込んでいった。
まもなくタクシーが到着すると、ブルーのワンピース姿の悠一が現れた。
まるで美子とペアで合わせたかのように、よく似たワンピースだった。
「社長、その格好……」
と呆れていると、大急ぎでタクシーに乗り込み、車内で器用にメイクを始めた。
美子は、その化粧テクニックで別人のように変貌していく姿に、思わず見入ってしまった。
自分のメイクが終わると、美子にも楽しそうに化粧をしてくれた。
ソフトなタッチと器用な指さばきは、プロのメイクアップアーティストかと勘違いしそうなほどだった。
1時間余りタクシーに乗っていたため時間に余裕があり、二人は姉妹のように似ていた。
同じ人がメイクすると、顔が同じ雰囲気になるのが不思議だった。
「カラーコンタクト、どうする? 相手は奥野先生だから、いらないわよね。結構これ、うっとおしいし」と、永井はそう言って、可愛い化粧ポーチをヴィトンのバッグに戻した。
「あの……どういうシチュエーションでしょう?」と聞くと、
「そうねえ。美子ちゃんの友人で、マコってことにしようか?」と、色気のある流し目で言った。
「マコと美子ですか? なんだか『愛と死を見つめて』って映画の主人公みたいな名前ですね。バレませんか?」と言うと、「美子ちゃん、古い映画よく知ってるね」と、
「♪マコ 甘えてばかりでごめんね。美子はとっても嬉しかったの。はかない命と知った時、涙を流してくれたマコ♪」
などと懐かしい歌を歌ってみせる。その声も女性のように妖艶で、どこか滑稽なのに、噴き出してしまった。「奥野先生、気づくかしらねえ?」と、永井は楽しそうだった。
着いたのは、海が見えるレストランだった。
とはいえ夜なので、行き交う船の光だけが見え、波音だけが海の近くであることを物語っていた。
「美子ちゃん? お久しぶり。あれっ、悠一君は?」と聞かれ、
「なんだかお忙しいようで。本当はお友達も誘って、4人で食事する予定だったんですが……。あの、こちらは永田マコさん。先輩なんですが、ご一緒させていただいてもいいですか? 2対1になっちゃいますけど」と言うと、
「こんな美人に囲まれて、全然ウエルカムに決まってるだろう」と、ご機嫌のようだ。
席に着いても、奥野は気がつかない。
恥ずかしそうに下を向き、ちらりと上目遣いで奥野を見る仕草は、女である美子よりも色っぽかった。
「永田さんは、何をなさっている方なんですか?」と聞かれて、
「古臭いんですが、嫁入り修行かな? 家事手伝いです」と、どこから出すのか分からない可愛い声で言う。
「へえー、珍しいですね。でも、憧れちゃいますね。僕も結婚したら、専業主婦でいてくれる内助の功の女性を探しているんですよ」と、一目惚れのようだった。本当に、ニューハーフというか女装した男性は、女よりも女らしい。
仕草も話す内容も、男が喜ぶツボを知っているかのようだ。
「奥野先生って、弁護士をなさっていらっしゃるの?」とマコは積極的に話す。
「そうですね。何か困ったことがあれば、相談に乗りますよ」と、奥野も超ご機嫌だ。
「本当ですか? 実は兄が、男の方しか愛せない……性同一性障害って言うんですか? 男性の方と結婚したいって言うんですが、どうにかなりますの?」と聞く。
「そうですね。まだまだ日本では難しいようですが、最近はそういう方も多いですし、裁判の判決も、ご希望に添えるようになると思いますよ」と快活に答えている。
「奥野先生は? どんな方が、お好きですの?」
マコはそう言って、テーブルの下から奥野の足に、そっと手を置いた。
最初は驚いていた奥野だったが、その手をぎゅっと握り、放そうとはしなかった。「なんだか私、お邪魔みたい」と、美子は複雑な思いで呟いていた。
「この近くにダンスホールがあるんです。今どき流行らないけど、いいものですよ。古き良き時代に戻ったみたいで」と、奥野先生が誘ってくれる。
「私、ダンスなんてしたことないから」と美子が言うと、
「あら、私行ってみたいわ。美子さんも、付き合ってよ」と、なめかしく言葉がまとわりついてくる。
「こんな女性、今どきいるかしら?」と、美子は「悪乗りしすぎなのでは?」と心配になる。
そんな思いも知らずに、二人は腕まで組み、次の場所へと向かおうとしていた。
奥野は思ったよりも背が高かった。
そのため、悠一もそこそこ背が高い上にヒールのパンプスを履いており、海外のモデル並みの大女になっているのだが、並ぶとちょうどいい感じになっていた。
一人、その後ろを小柄な美子が小走りでついていく。
二人の足が長いため歩幅が違い、大人と子供くらいの差があるのだった。
「あの……ご馳走様でした。美味しかったです」と追いかけながら奥野にお礼を言うのが精一杯だった。
歩いて5分ほどの所にダンスホールはあった。中では、懐かしいダンスミュージックが生演奏で流れていた。入店してすぐに、マコこと永井悠一は、外人らしい筋肉隆々とした色男にダンスを申し込まれ、行ってしまった。
残された二人は仕方なく組んでダンスホールに進み、奥野のエスコートのもと、ダンスに興じた。
「美子ちゃん、上手いじゃないか」と奥野に褒められて、嫌な気はしない。
外国で一応、社交ダンスも習っている。とはいえ、ダンスの中でも社交ダンスは、男性のエスコートの力量によって出来栄えが違う。
「奥野は、かなり上級者だ」と美子は思い、奥野のリードに体を任せ、気持ち良く踊っていた。
「美子ちゃん。随分年は違うけど、付き合ってはくれないか? こんなに綺麗な女性になるなんて、びっくりしてるけど、最初に会った時から惹かれていたんだ。悠一には相談してたんだけど、40代には結婚して子供も欲しい。だからといって、お見合いもしたけれど、やっぱり美子ちゃんが忘れられない。本気なんだ。考えてくれないか?」プロポーズだった。
いきなりの、思いも寄らない告白に驚きすぎて、足が止まった。
「あっ、マコさんは?」と周囲を見回し、話題を逸らそうとした。
「マコさんなら、先に帰ったよ」と耳元で囁かれた。
「今日は帰したくない」と、ウエストに置かれた手に力が入る。
「考えさせてください。いきなりすぎて……ごめんなさい」と言って、体を突き飛ばすような格好になってしまう。
「ごめん。そうだな。早急すぎるのが、僕の悪い癖なんだ。今日は送るよ」と言って、タクシーを呼んだ。
それでも美子は、悠一の姿を目で探していた。
屋敷に帰ると、永井はとっくに着替えて、コンピューターの前に座り、何やら話をしていた。
「そう、逃げられたの? でも、一度や二度、断られても諦める人じゃないよね」と話している相手は、奥野先生だった。
「あっ、おかえり」と言うなり、コンピューターはシャットダウンされた。
「今日は、お泊まりかと思った」とからかわれ、何だか悲しくなった。
「ごめん、ごめん。からかったりして。奥野先生は、マコが僕だって知ってて、わざといちゃついて見せてただけなんだ。女好きとか、思い違いしないでやってくれる?」と言われた瞬間、我慢していた思いが噴き出し、涙が溢れてしまった。
「好きなのは、永井社長なのに。やっぱり、私なんかじゃダメですか? ううん……好きになってくださいなんて、図々しいことは思ってません。ただ、仕事でも家政婦でもいいから、一緒にいたいの。それでもダメですか?」
そう言った途端、やるせない思いが噴き出し、その場でうずくまって嗚咽してしまった。
どうしていいのかわからない様子の永井の姿が、そこにはあった。
「僕は、女を愛せないんだよ。知ってるだろう?」永井の声は、何かを押し殺したような、か細い声だった。
「それでもいいんです。近くに置いてください。他の誰かと結婚するなんて考えられない」
言っても仕方ないことだと知っていながら、この湧き上がる感情を止めることができなかった。
「抱きしめてあげたい。でも、できない。変に期待させては、かえって可哀想だ」
そう思い、永井は手を触れることもできず、そっとその場を立ち去った。
取り残された美子は、この告白を後悔していた。
『あの優しい声が聞けなくなってしまう。涼しげな二重の目で、見てもらえなくなる。一緒に食事して、仕事をすることができなくなってしまうの?』
楽しかった永井と過ごした日々、幸せだった時々の思い出が、逆に今は切なくて悲しい。
好きだと言わなければ、続いたかもしれない日々。
多くを望みすぎた自分への罰。
気まずい関係のまま一緒にいるのは、互いに疲れる。
誰もいない豪邸で、一人自分の部屋に帰り、ベッドの中で朝まで泣いた。
「失恋を癒すには、新たな恋しかない」
そう思い、美子は美人秘書として威風堂々と仕事をこなしていた。
永井も、何事もなかったように淡々と仕事をこなし、勝手気ままに世界を旅し、独身貴族を楽しんでいるかのように見えた。
しかし、あの夜から未来のない恋に苦しむ美子からは、以前のような快活な笑顔が消えていた。笑うと、涙が噴き出してしまいそうになるからだ。
あの日から、悠一も他人行儀になり、仕事のことしか話さなくなった。変な期待を持たせないよう、業務連絡だけに留めているのだろう。
あれから、奥野先生から何度も食事のお誘いがあった。
悠一に拒まれても、好きな気持ちに変わりはない。
そんな気持ちで奥野先生の優しさに逃げ込むのは、あまりにも失礼な気がして、断ってばかりいた。




