(第50章 二人だけの時間)
朝起きたら、悠一の姿はなかった。昨夜の出来事が本当にあったのかどうか、自信がなかった。胸のボタンは3か所外されており、ウエストのフックも外されていたが、着衣は乱れておらず、化粧も落としていない肌は呼吸困難なのか、毛穴が開いて脂性になっていた。
『着の身、着のままで寝るなんて、何と言うみっともない姿を見せてしまったのだろう』と、いささか自己嫌悪に陥りそうになっていた時、外から外車に乗って悠一が帰ってきた。両親を成田空港まで送って行ったらしく、使用人に「今日は昼から出勤するから。もうひと眠りさせてくれ。朝食?じゃあ、スムージーだけ作っておいて」と言う声が下のダイニングから聞こえてきた。
階段を上がって来る音がして、美子は急いでボタンとフックを留め、髪を整えた。「起きたの?二日酔いになってない?」と言いながら快活に声をかけられ、ただ頷くだけしかできなかった。
「今日は、美子ちゃんは僕の用事でお出かけしていることになっているからね。昼までここでゆっくり寝てたらいい」と言って額にキスをした。どうして良いかわからない美子は固まってしまった。
「そんなに緊張しなくても」と笑いを押し殺しているのがわかる。「やっぱり迷惑でした?ごめんなさい」と泣きそうになる美子に驚いて、「違う、違う。久しぶりの再会に嬉しくなって飲ませ過ぎたと後悔してるんだ。謝るのはこっちの方なのに」と言って、泣いてしまった美子の背中をトントンと叩き、赤ちゃんをあやすように歌うように「ほらほら、もう泣かないで。そうだ、二日酔いで気分が悪いんじゃない?そうだ、フルーツいっぱいのスムージーを持って来てあげよう」と言って軽やかな足音をさせて階下に降りて行った。
『昨夜の愛の告白も、酒の席での戯れ事とでも思われたのだろうか?』と美子は訝った。
「部屋でいただ
くよ。今日から半年は父たちは帰って来ないから。皆も、ロングバケーションだと思って好きなことしてもらってていいから。僕も、一人暮らしが長いから、何でも自分でできるし、ここへも滅多に帰らないからね。あぁ、3か月前に入った田中さんは、僕の秘書として働いてもらうから。他の人も個々に頼みたいことがあると思うので、明日にでも田中さんから連絡行くと思う。僕もこれから少し睡眠を取ったら出かけるので、今日はもう帰っていいよ」と言っているのが聞こえてきた。
手には大きなお盆に2種類のスムー爺やサンドウィッチにサラダが。「朝食はいらないと言っていたのに、こんなに作ってくれていたから、一緒に食べようか?俺は毎朝スムージーか酵素ジュースしか飲まないんだけど。朝、成田まで送らされたから、お腹空いたみたいだ」と笑って、ソファ前のテーブルに要領よく朝食を並べている。
「そんなこと、私がします」と美子が言うのも聞かず、「独身生活が長いから、これでも家事は得意なんだ。お手伝いさんにやってもらうと、返って気に入らないことも多いからストレスになってしまうんだ」と手際の良さを自慢するだけあって、あっという間にテーブルセッティングが整い、「どうぞ、お嬢様」と椅子を勧める。
「2回目の乾杯」と言って、スムージーの入ったグラスをコツンと合わせる。「なんかいいね。相手がいると、毎食がパーティみたいだ」と満面の笑顔が幼い子供のようだった。
美子もお酒は弱くはなかった。昨夜ほど、立てなくなるほどは飲んだことは一度もなかったが、一晩寝るとアルコールは抜けていた。頭が痛いとか、二日酔いによる食欲不振なども全くなかった。「昨夜は、何時間眠れたんですか?」と聞くと、「ニューヨークとのやり取りがあったので、まだ一睡もしていない。さすがに眠いな。ちょっと仮眠していい?」と言って、ベッドにジャンプし、そのまま吐息を漏らしていた。白いシャツが少し窮屈そうだった。美子は悠一のもとまで行き、少し迷いながらシャツのボタンを外し、ズボンのベルトを緩めた。その動きに体を預け、寝息を立てる悠一は、幼稚園児のようなあどけなさを見せていた。美子は朝食を片付け、下のダイニングに運んでから、自分の部屋に急いで戻る。誰にも見られないように気を使いながら。
屋に戻るとシャワーを浴び、念入りにメイクを施し、少しラフな感じの部屋着に着替えてダイニングに戻る。冷蔵庫の中の野菜を使ってパスタソースとサラダの下ごしらえを手早く済ませ、朝食で使った容器を片付けると、しばらく部屋の掃除をしたり花々に水をやったりして、日常の用事を全てこなして椅子に座って一息つく。
昨夜、悠一と乾杯した席に座り、夢のようだった思い出に浸って顔が緩む。開け放たれた窓から心地よい風が吹き込む。『やっと憧れの人に会えた。昨夜のキスは夢ではなかったのだろうか?頭を優しく撫でてくれたあの一瞬は、酔いのせいで自分が勝手に見た妄想ではなかったのか?』と思うと、もう一度悠一の部屋に戻りたくなる。『昼までは寝ているなら、せめて近くで寝顔を見ていたい。また明日から会えないかもしれないのだから』と思うと、居ても経ってもいられなくなり、足音を立てないよう階段を上がってそっと扉を開けた。
ベッドの下には着ていたはずの洋服が散らかっていた。寝ている間に心地が悪くなって無意識に脱いでしまったのだろう。その洋服を集めてソファの上にたたんでおく。寝息が平和な日常のリズムの中で心地よく響く。美子は悠一の寝顔が見える場所にそっと座り込み、飽きることなく眺めていた。悠一が寝返りを打ち、美子の肩に手が触れた。
悠一は薄目を開けて美子をベッドに招き入れる。「おいで」とかすれた声で言っただけなのに、美子は主人が帰って来た時の子犬のように喜んでいた。そっと悠一の眠りを妨げないようベッドの脇に入り込む。悠一が寝返りを打つたびに少しずつ近づき、胸の鼓動が激しくなる。これ以上近づくと聞こえてしまうのではないかと恐れているのに、いつの間にか悠一の腕に抱かれる形になっていた。あのフレグランスの香りを胸いっぱいに吸い込み、幸せでめまいがしそうだ。
昼近くまで、美子はまんじりともせず悠一の腕の中で寝息に耳を傾け、その体に密着してドキドキしていた。『どうして、あんな状態で抱いてもらえなかったのだろう?悠一さんにとっては、私なんて相手にするには幼すぎて性欲など起こらないのかも知れない。あるいは他に好きな女性がいて、他の女には目もくれないのか?こうしているだけで充分過ぎるくらい幸せなのに。女としての性が邪魔をする。手を伸ばせば届くところに悠一の体がある。しかも無防備なので、女の自分でもそんな関係を強いることができる。でも、その後に残る砂を噛んだような焦燥感に苛まれる。もっと近くにいたい。姿を見て、声を近くで聞けるだけで満足すべきだ。女の方から求めるなんてハレンチ極まりない』と思いがぐるぐると巡る。
解き放たれた窓から小鳥が入り込んだ。「チュンチュン」とかわいい声が聞こえる。悠一が寝返りを打つ。咄嗟に美子はベッドから這い出て身だしなみを整える。時計は正午前だった。急いで階下に降り、冷蔵庫から食材を出して昼食の用意をする。悠一がいつ起きてもすぐに食事を取れるよう、下ごしらえだけはしておかなければならない。『料理の味は、お口に合うだろうか?』と不安が過る。しかし、悠一の両親には料理の腕を褒められたことがある。家族の味は以前の料理人からレシピをもらい、ちょっとしたポイントも聞いてある。悠一がイタリアン好きで、ペスカトーレなどのシーフードがお気に入りなことも知っている。サラダのドレッシングは軽井沢のにんにく塩とオリーブオイルだけでも十分だが、ハーブやオニオン、旬の香味野菜を入れてバリエーションを楽しむのが通例らしい。
まだ悠一は起きてこないので、簡単なアンティパストにチャレンジしてみる。生ハムやオリーブ、チーズを使った簡単なオムレツなどだ。料理をしている時が美子は好きだった。特に今日は、憧れの悠一の美味しそうな笑顔を見たくて作るのだから腕が鳴る。「美味しそうだね」と背後から声がして、思わず箸を落としてしまう。「パスタは塩加減が難しいんだ。僕にやらせてくれる?」と腕まくりして手を洗っている。美子は前菜とサラダを食卓に運ぶ。悠一は手際よく鍋にスパゲティを扇子を広げるように投げ入れ、同時にもうひとつパスタソースを作っている。「トマトソースの味いいね。料理のセンスもバツグンだ」と感心しながら器用にパスタをソースに絡め、ゆで汁も投入する。ボールほどある容器を2種類持ってきて、「さあ、食べようか。アンティパストの飾り方も可愛いね。さすが女子力」と褒めてくれる。大きな器には、美子が作ったペスカトーレのソースを使ったものと、明太子とイカのバターにんにくソースに青じそとのりをかけたものがあった。取り皿に器用に盛り付けながら、「パスタはできたてアツアツが一番美味しいから。少し深めの容器に入れると、いつまでもアツアツなんだ。カプリチョーザっていうイタリアン知ってる?だいたい2~5人前が大きなどんぶりに入っていて、それを見ながらシェアするんだけど、食べ終わるまで熱いんだ。まあ、野郎ばかりで食べてるせいもあるけど、ちょっとした器使いで料理の味も随分違うだろう?」と快活にしゃべりながら、あっという間に完食する。悠一は「仕事柄、早食いなんだ」と言って、近くのコンピューターを触る。「悪い。数件の仕事やっつけちゃうから、2時間後に外出する。付き合ってくれる?」とキーボードをブラインドタッチしながら言うと、画面にネイティブな英語が。デザイナーかアーティストらしい若者がなめらかな英語でスケジュールを報告していた。画面が切り替わり、中国語と、それを通訳している女性の声も聞こえる。貿易関係の話をしているようだった。美子は手早く昼食の後片付けをし、コーヒーを入れる。悠一の好みは分からないが、イタリアンの後なのでエスプレッソを用意。サイドボードにはエスプレッソマシーンと温めた牛乳、スティックシュガー、2種類のコーヒーカップも揃えた。コーヒーの香りに気がついた悠一が、「よく気がきくね。後は自分でするから、着替えてきて」と言いつつ画面から目を離さない。何か複雑なデータを読んでいるようだった。いくら英語が達者な美子でも、英語で書かれた文面をちらりと見ただけでは内容までは分からなかった。




