(第45章 恋の一念で永井家の使用人になる)
美子はバイリンガルで英語ができるので、面接だけですぐ雇われた。サムソナイトしかない家財を持って、使用人として働き始めた。しかし、永井社長はもちろん、永井家の人の姿は見かけない。もっぱら家の掃除と美しい庭園の水やり、たまにかかってくる海外からの電話の通訳などが主な仕事だった。
東京にあるとは思えない自然豊かな邸宅には、四季折々の花が咲き誇り、特にバラ園の素晴らしさは海外の宮殿のそれとも張り合っても劣らないものだった。「以前の奥様がバラを特にお好きだったものだから」と古株の女給が教えてくれた。「永井社長のお母様ですか?」と聞くと、「悠一様のお母様ですよ。でも歴代のお母様方も、皆お好きでしたよね。まあ、バラがお嫌いな女性なんていませんからね」と眩しそうに目を細めながら、広いバラ園の色とりどりの花を見渡して言った。
『歴代のお母様たちって、どういう意味なのだろう?』と頭をよぎった疑問も、気持ちの良い風に吹かれて美しい庭を見ていたら忘れてしまった。それはまだ、永井家に愛が満ちていた頃の話だとも知らずに。美子は優雅な世界を夢見て、悠一との再会に胸をときめかせていた。
しかし、なかなか悠一には会えなかった。そのうち、豪華客船の旅から帰って来たという悠一の両親に会うことができた。「まあ、かわいいお嬢さんね。この方が、あんなに素晴らしいネイティブな英語を話すので、てっきりハーフか外国の方かと思っていたわ」とマキコ夫人は言い、いくつかの外国語を操りながら美子の実力を計ろうとしていた。フランス語やスペイン語、ドイツ語ならどうにかなるが、中国語となると北京語が少しわかる程度で、東南アジアの言葉は挨拶程度しか分からない。それでも、発音の美しさを褒められ、父親の俊一氏にも期待された。
「でも、悠一と私たちが経営している会社とは別組織なので、最初は大変だけど、奥野弁護士は知ってるかい?彼が永井家の全貌を把握しているから、何でも聞くといい」と、ほとんど海外に住んでいるという悠一の両親は、洗練されていて、頭の良さがにじみ出ていた。
夕食には美子も招かれた。海外でのライブな出来事はニュースで知ることはできても、報道管理されているため事実を知る術はなかった。裏社会の少ない富裕層が世界を牛耳り、よからぬことを考えていること。グローバリストという響きは良いが、実際は独裁者たちが人を人とも思わず、戦争や食の危機、貧富の差を生み出していることを教えてくれた。美子は知っている。海外の友人たちが行っていた陰謀説を笑って聞いていたけれど、日本に帰ると本当にそんなことが現実に起きていることを知った。
経済大国だった日本は、成長率のない貧困な国へと変貌していた。貯蓄率一番だと言われていたのは昔のこと。貯金を崩してしか生活できない【消えた年金】世代の貯蓄は、どんどん少なくなっている。毎日数トンの食糧を廃棄している飽食日本は、世界から没落している現実。それでも、まだ世界からリスペクトされていると信じている国民。医療が行き届いたおかげで、死ねない老人たち。世界の効かない薬は全て日本に輸入され、膨大な治療費で国家予算は崩壊寸前。それでも助成金やバラマキを要求する国民。お金持ちは税金の高すぎる日本を離れ、貧乏人だけが残るかもしれない未来。
それは、海外で勉強しながら生活していた美子も感じているところだった。フランスでは数年前まで、日本ブームでワビサビだとか、芸者や忍者がもてはやされていた。漫画も注目されていた。しかし、市場に行っても「日本人か?ありがとう」と日本語で話しかけてくる人は減り、今は中国語で話しかけられる。アジア人の顔の見分けはつかず、一番多い旅行者の国の言葉で挨拶する。お金を落としてくれる国が圧倒的に中国なのだと痛感する。
「日本は鎖国しているみたいね。でも、美味しい米も野菜も、和牛もカニや魚も中国に売られている。作っている日本人には手が届かない高額で」と、いまいましそうに悠一の父親は言っていた。「でも、こんな優秀なお嬢さんが育成されているなんて、将来が楽しみだわ」とマキコ夫人は言った。
ワインが数本空き、二人とも顔がほんのり赤らんでいた。「私、高校生の時、ヤクザ者から永井社長に助けられて、財団から海外留学までさせて頂いて、どうにか恩返しがしたくって、ここへ無理やり雇って頂いたんです」と美子が言うと、一番古株のハル爺やが言葉を挟んだ。
俊一社長の顔から笑みが消えたのを美子も見逃さなかった。「悠一様は明日おいでになります。お父様とは10年近くお会いになっていませんし、マキコ夫人とは初めてですね。久しぶりに財界の方々をお招きして、パーティでも催されますか?」と聞かれても、俊一社長は「いや、今回は直接処理しなければならない案件があって帰国したんだ。明日の夜というか、朝かな?悠一が来たら、二人だけで申し送りがある。マキコ夫人は社交界に招かれているので、途中までは私も同伴するが、悠一から連絡があったら地下室のコンピュータールームで打ち合わせをすることになっている。夕方、技術者やプログラミングチームが来るので、このお嬢さんと会食しておいてほしい」と告げた。厳しい表情だったので、その会合の内容が相当重要なものだと美子は想像した。
美しく着飾って、悠一のご両親は社交界に出向いて行った。初めて見るハイソサイティな二人の様子に、美子は夢見ているかのように感じ、憧れていた。「悠一さんとは、会わせていただけないの?」とマキコ夫人は不満気に夫に言った。「いや、どこかで紹介するから。まずは、あの一件を話し合ってからだ」と厳しい声で言った。「行ってらっしゃいませ」と使用人が一斉に頭を下げる。
まるで昔見た映画のワンシーンのようだった。




