(第43章 動き出す、新たな人生)
数日、葵が携帯電話や生活必需品を買うのに付き合ってくれた。スマートフォンの引き落としも永井財団法人になっている。
「連絡するのに携帯くらい無いと不便でしょう?」と言い、必要なアドレスはすべて入力してくれた。奥野先生の連絡先はあったが、永井社長のは無い。多忙で、それほど簡単に会えない人物らしい。美子はもう一度会いたかった。あの声を聴きたかった。淡い恋心は心の奥に秘め、決して悟られてはいけないと思った。3日後、奥野先生から電話があった。
「もう大丈夫。借金は過剰請求で、むしろ払い過ぎた分は返金されると思う。でも、お母さんの行方がわからない。どこか行きそうな所はないだろうか?」
美子は言葉を失った。
「大丈夫? 周囲の人々に聞いてみたけれど、一緒に住んでいたヤクザ者も姿を見ないと言っていた。どこかに連れさられたのだろうか? 警察にも通報しておいた。気を確かに持つんだ。高校にも行って来た。卒業証明はもらえるそうだし、推薦枠もあると言っていた。明日にでも大学のこと、相談しよう」
電話は切れた。
きっと母は、私を逃がしたのでヤクザ者に暴力を振られ、もう生きていないかもしれない。長屋の隣人も、借金取りに連れ去られて姿を消した。近所の人は「最後は殺され、臓器で借金を返させられるらしいよ。海外では高く売れるんだって」と噂していた。
疲れ果てていた母もそれを聞いて、「いっそ、その方が楽かも」と呟いたが、美子に気づき、「ウソウソ、冗談だから。美子がいるから、お母ちゃんは生きている。大丈夫。美子だけは命にかけても守るから」と歯をくいしばって言っていた。
『自分のせいで、母の身に何かあったに違いない』――そんな悪い想像が次々と美子を苛んだ。
涙でベッドは濡れ、目は腫れて悲惨な顔になっていた。葵の電話にも、奥野先生の電話にも出なかった。
ノックがしたが、こんな顔で出る気にはなれなかった。しばらくして鍵が開けられ、ボーイと葵が中に入って来た。
「心配したのよ。良かった、生きてて」と葵の顔は真っ青だった。
葵に抱きしめられ、美子は泣きながら言った。
「お母ちゃんは私の代わりに殺されたのに違いないの。私さえいなければ、お母ちゃんはあんな目に合わずに済んだのに。私なんか生まれてこなければよかったのに」
葵は何も言わず、包み込むように抱き続けた。他人の優しさに初めて触れ、今までの凍り付いた心が溶けだして、涙となって葵の胸を濡らした。
疲れて眠り、気がついたら呆然として、食事も喉に通らなかった。心配してくれる葵や奥野弁護士の優しさが心地よく、甘えてしまいそうになった。
いつまでも腑抜けのようにホテルで惰眠を取る美子に、さすがに葵が叱った。
「いつまで悲しみに暮れているつもり? ずっとこうしていられるわけじゃない。私たちは、自分で立つ気のない美子ちゃんを無理矢理立たせてあれこれしてあげられるわけではないのよ。美子ちゃんが自分の能力や才能を磨き、社会の中で活躍できるよう、情報や手助けはできるけど、やる気のない、変えようのない事実に捕らわれて未来を台無しにしたいなら、何もできない。永井社長も心配されているわ。
過酷なことを言うようだけど、人生には生死に関わる壁がいつも目の前を阻む。でも、それを乗り越えた先にしか歓びも幸せもないの。私だってそう。本当の親と住みたい。愛されたい、狂わしいほど、親の心にもない言葉に縋りつきたくなる。
美子ちゃんのように、母親から愛され大切にされた思い出がある分、一層辛いかもしれない。でもね、もう選挙権も持っているいい年なんだから。前に進まなくっちゃいけないよ。でないと、せっかくのチャンスも逃してしまう。もし、どん底で生きて頑張っているお母さんがいたらどうする? 美子ちゃんがこれからお母さんを支えて行かなければならないとは思わない? 例えば、最悪な状況だったとしても、美子ちゃんを命にかけて守ってくれたお母さんに、悪いと思わない? 幸せにならなきゃダメだよ」
泣き疲れて放心している美子に、葵は根気よく話しかける。
「私たち貧困家庭に育った者は、夢など簡単に持てない。耐え難い現実が次々と押し迫ってくる。切っても切れない家族のしがらみや過去、思い出がずっとトラウマになって、ちょっとした隙に地獄に落とされそうになる。まだ母親に愛された美子ちゃんは幸せだよ。愛を信じられる。愛された日々が自信になる。せっかく、こんなに可愛く優秀な遺伝子をもらって産まれてきたんだから。忘れてなんて言わないよ。いえ、ずっとお母さんの愛を信じて、生きていることを信じよう。死んだって決まったわけじゃないんだから」
葵は必死だった。貧乏を嘗め尽くした者しかわからない悲哀を。きっと、分かり合える初めての友達。たった数日だったけど、葵は美子を妹のように、あるいはかけがえのない親友のように思っていた。
数日して、弁護士の奥野先生から連絡があった。「病院に美子のお母さんらしき人が入院している」と。かなりの重傷なので、すぐに病院に駆けつけるよう言われた。葵も付き添った。
しかし、それは母ではなかった。瀕死の状態だったので、二人は安堵した。誰なのかわからない老齢の女性は、美子たちが到着したと同時に息を引き取った。身内は誰もいないという。母の姿と重なり、美子は、どこの誰かわからないのに涙を流して冥福を祈った。死というものが、こんなに日常に近いことに二人は驚いた。
「そう、私たちだって、いつ死ぬか分からない。死なない人はいない。それが明日かもしれないし、何十年後かもしれない。どうなるかわからない未来を恐れて今を台無しにするくらいバカらしいことは無いと思わない?」
病院から出た葵は、眩しい太陽の下で大きく伸びをし、言った。
「私は負けないよ。運命は変えられる。死ぬまで、未来を信じて生きていきたいから」
そして美子の腕を取って、「美味しい物でも食べに行こう」と笑った。
『こんな時、永井社長の笑顔が見れたら』――あの時の優しい瞳を思い出して、美子の胸はキュンと痛んだ。




