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(第40章 新たな世界の扉が開く)



しばらくして、喉の渇きに気づき、冷蔵庫からミネラルウォーターを口に含みながら、やっと昨夜の出来事を思い出す。まだ半乾きの下着にドライヤーをかけ、着てきた制服に着替える。『こんな姿でウロウロしていたら、補導されるのでは?』と少し不安になったが、昨夜のボーイが朝食券を置いて行ったので、記載されているレストランに行ってみることにした。

制服姿で朝食バイキングに行ってみると、同じような高校生の姿があり、少し驚いた。周囲は特に変な目で見ている様子はなかった。しかも、ボーイはイケメン揃いで、バイキングに慣れていない美子には新鮮だった。「一人ですか? 受験で来てるの?」と言われ、大学入試の頃だと気づいた。

席に着くと、「お好きなものを、お好きなだけどうぞ。お飲み物は何になさいますか?」と聞かれ、困っていると、「では、ご一緒に取りに行きましょうか?」とエスコートしてくれた。指さすだけで、お皿やボウルに美しく盛られるサラダやパン、卵料理やベーコンなど。

「デザート類は後でお持ちしますので、お席で先に召し上がってください」と言われ、テーブルに食事を並べ、次々と空いた皿を下げてはデザートやフルーツを持ってきてくれる。「コーヒーのお替りはいかがですか?」と言われ、「もうお腹いっぱい。美味しかった。ご馳走様でした」と両手を合わせて答えると、ボーイは微笑んでいた。優しい目をしていて、人の善意や感謝、思いやりの心など、美子にはほど遠い世界に住む紳士のように感じられた。

こんな豪華なホテルは別世界で、自分など居てはいけない場所のように思えた。きっと浮いていると思い、恥ずかしくなった。しかし、ボーイは礼儀正しく、美子に恭しく頭を下げてくれた。フカフカの絨毯を踏みしめながら、高層階のエレベーターホールへ進む。誰も美子のことを不審には思っていないようだった。

そこで、美子は胸を張り、姿勢を正して歩いた。それでも鏡に映る自分の姿は、どことなく貧困の香りを漂わせているように見えた。髪も靴も制服もヨレヨレで見苦しい。それでもボーイは嫌な顔一つせず明るく笑いかけてくれる。自然と美子の顔にも笑みがこぼれた。何年も湛えたことのなかった幸せそうな笑みだった。部屋に戻り、ベッドに横たわりテレビをぼんやり見ていると、ノックがした。女性の声で、「お洋服、お持ちしました」と言う。ドアを開けると、20代前半の若い女性が立っていた。「お買い物にご一緒するように言われたのですが、その前に何枚かお洋服を選んで買ってきましたので、お着換えして出かけましょう」と笑顔で言い、部屋に入ってきた。

美子は呆然と、その女性が甲斐甲斐しく動くのを見守るしかなかった。「こちらのワンピースはいかがでしょう? お洋服を買いに行くなら、フィッティングルームで着替える時も便利ですし。お若いので、眺めのスカートにカシミアのセーターの方がよろしいかしら? まだ寒いので、少しフェミニンなダウンコートもご用意しました。お気に召さなければ、ブティックでお好きなものを選んでいただけます」と、美子の体に合わせて顔映りの良いものを勧めてくれる。

「ありがとうございます」とだけ言い、洗面台のあるバスルームで着替える。「まぁ、素敵。お似合いです。サイズもぴったり。まだ余裕があるところを見ると、随分スマートなのね。モデルか何かされていますか?」と褒められ、思わず赤面した。「こんな可愛い洋服、初めて。うちは貧乏だったから、私服は買ってもらえなかった」と思わず呟く。

「そうなんですか。どこかお好きなブランドやお店があれば、お連れしようと思っていました」と困惑している様子だった。詮索は一切してこない。ただ、どう扱って良いのかわからないらしい。「持ってきていただいた洋服だけで充分です。おいくらですか?」と聞くと、「さぁ? 私は指示されたことをしているだけです。夕食の場所までお連れするよう仰せつかっておりますので、お出かけするのが億劫でしたら改めて夕方お迎えに参りますが、どうされますか?」と答えた。

昨日の男性が誰なのかもわからない中、この女性のアドバイスに従い、少しでも男性のことを聞きたかった。「もしよろしければ、ウィンドーショッピングでもいかがですか? ランチも有名なハンバーグのお店などを考えています」と女性は、悩んでいる美子の腕を組んで出かけようと促す。嫌ではなかった。むしろ、その優しさが心地良かった。

見知らぬ世界。予約してくれているランチはどんなものだろう? このホテルも、朝になって気づいたが、かなり高級そうで、美子の持参しているお金で払えるかどうか不安になる。今までいた世界とあまりに違い過ぎて、まだ夢を見ているようだった。あのままバス停にいて、あの男性に救われなかったらどうなっていたことだろう。警察に補導されるか、夜の仕事をしている男に優しくされて、母のように働かされ、風俗に売り飛ばされていたかもしれない。それが、周囲で普通に行われていた日常だったのだから。

「私の名前は葵。20歳になったばかりなので、友達でも通用するかな? そうだ、お名前は?」と聞かれ、「田中美子。美子って呼んでください」と答えると、「美子ちゃんか。可愛いね。ねえ、美容院に行かない? その髪型、もったいないと思うんだけど」と、先ほどの丁寧な言葉が、いきなり友達のようなため口になった。そして、一つに束ねた髪をほどく。美容院には行かないので、前髪も伸ばしたままだった。長い髪の先端はケバ立っていて清潔感がなく、制服もバザーで買ったお古を3年間着ていたためヨレヨレだった。

朝食も久しぶりに豪華なものを食べて、幸せいっぱい。朝食を食べたのは何年前のことだろう。昼はパンか学食で一番安い素うどん。夜は一人でカップヌードルか、母が作り置きしてくれた野菜炒めやチャーハンをレンジで温めて食べるだけだった。

男たちが帰ってくるまで、美子はお風呂に入り、自分の部屋に籠って鍵をかけ、息を潜めていた。できるだけ顔を合わせないよう気をつけている。綺麗な格好をしていると目立って男たちの標的になるため、伊達メガネをかけ、髪で顔をできるだけ隠している。だから、数年鏡も覗いたことはなかった。

学校でも、いじめられないよう大人しく、目立たないように気を使っていた。勉強は好きというより、テレビも見られず、他にやることがないので時間つぶしにやっていたらできるようになり、面白くなったのだ。とはいえ、大学なんて行かせてもらえないだろうから、偏差値など関係ない。クラスで何位だと言われても、そのために勉強しているわけではないので、嬉しくも何ともない。母が苦労して公立高校に行かせてくれているのだから、何かを掴まなければ申し訳ないと思っている。仲間もいない。友人も作れない。付き合うには小遣いも足りない。貧乏も、たぶん皆知っているのだろうが、一緒に遊びに行かないので大した問題ではない。美子に気のある男子に交際を求められたこともあったが、私服もろくに持っていないのでデートなど無理に決まっている。財布に入っている大金で、美子は一人で何日生きられるのだろう。働かなければならないけれど、履歴書を書くにも住所はどうしたらよいのかわからない。

「美子ちゃんのおかげで、久しぶりに梅田でショッピングできて嬉しいわ。永井社長が、このカードで好きなものを食べて、必要な物を買うように仰せつかっているのよ。だから、大船に乗ったつもりで任せてもらっていいかな?」と、気さくに言う葵に、美子は好感を持った。

「永井社長って? 昨夜の?」と聞くと、「お若いけど、有名な財閥の御曹司なの。素敵な方でしょう? 育児放棄された子供たちのための支援や、貧しい人のためのNPO法人など、たくさんの社会貢献に尽力されているのよ。美子ちゃんラッキーだったわね。私も永井社長に助けられた口だけど、【足長おじさん】みたいで頼りになるの」と葵は言った。

「私は今、デザイナーの勉強をさせてもらっているの。小さい時に母親に育児放棄され、里親に育てられたんだけど、年頃になったら迎えに来てくれて、喜んでついて帰ったら、男相手に酒を飲んだり体を売ったり。挙句にヤクザの女にされて風俗で働いていたけれど、社長と出会って地獄から救ってもらったの。ああ見えて裏社会にも顔が利くみたいで、お金をせびりに来る母親も大人しいものよ。今は安心して里親の元で平和に生活しているの」

人の運命などは、生まれた場所でほぼ宿命が決まってしまう。それでも、出会いによって運命は変わる。神様は誰にでもリベンジできるチャンスを与えてくれている。それを勇気を持って掴むかどうかで人生は変わるのだと葵は言う。二十歳そこらで言えることではないだろう。今は、どこから見ても可愛くて普通の女の子にしか見えないけれど、10代で風俗に売られ、裏の世界で地獄を見た者だけがわかる。芯の強さというか、いざという時のドスの利いた感じは、苦労した分手に入れた自信のようなものかもしれない。

美子はいつの間にか葵を姉御のように信頼し、自分の身の上話をしていた。葵は優しい目で話をただ聞き、そっと花柄の綺麗なハンカチを差し出してくれる。「もう大丈夫。私もいるから。きっと何もかも、うまくいく。こんなに今まで頑張ってきたんだもの。これから幸せにならなくちゃ」と、涙が止めどなく流れて、うめき声をハンカチで抑えている美子の背中を優しくさすってくれた。

朝早いためか、セレブの女性がまばらな店内。緑の葉のカーテンのおかげで、この一角は誰の目も気にせず泣くにはもってこいの場所だった。葵は無駄なことは一切言わず、ただ温かい手で背中をポンポンと赤子をあやすように叩いてくれる。そのおかげで、美子は泣くだけ泣いた後、心のわだかまりがすっきりしたように感じた。






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